ふしぎなはなし

ふしぎなはなし

いろんなふしぎな話の宝箱(世界にはいろんな不思議な話があります。)

諸悪莫作(しょあくまくさ):悪いことはしない。
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう):善いことを進んで行う。
自浄其意(じじょうごい):自らの心を清らかにする。

仏陀の化身は数多く存在し、私たちがその名を唱え、瞑想し、祈りを捧げることで、長寿を妨げる障害や病といった問題を解消してくれます。彼らは間違いなく助けになってくれるのです。もし私たちが病のない長寿を全うし、健全で澄み切った心を持つことができれば、自分自身や他者のために多くの利益をもたらすことができます。
病気や災難、あるいは寿命の短さによって常に命が脅かされている状態は、控えめに言っても、精神修行にとって凄まじい障害となります。修行が許されている国に生まれ、師の近くに身を置き、仏教の教えを耳にすることができ、さらに自宅という快適な環境で心を磨き、気づきや明晰さ、智慧や知識を得るために修行できるということは、環境的・物理的な様々な要因が重なり合って初めて実現する、実に稀有な集まりなのです。仏陀の名を聞き、信仰心を持つことさえ、滅多にない貴重な機会です。
ですから、このように「完璧な人間の身体」を授かったとき――完璧というのは、身体が健全に機能し(麻痺などがない状態)、健全な心を持っていて、理解が速いか遅いかは関係なく、動ける身体があり、師が近くにいて、法(ダルマ)を聞き、学び、成長し、より良くなる機会があるということですが――それは、過去生からのポジティブな功徳と祈り、そして加護が真に合流して成し遂げられた、極めて稀な出来事なのです。

アミターユス(無量寿仏)の加護を授かることは、素晴らしいことです。アミターユスは仏陀であり、阿弥陀如来(アミターバ)が菩薩の姿をとった形態です。彼は、存在するあらゆる仏陀が持つすべての力、加護、功徳を備えた、完全に目覚めた悟りし仏です。アミターユスを単に「長寿の仏」とだけ要約してしまうのは、私たちが目指すべき目的からすると、十分な理解とは言えません。
より高い次元で見れば、仏陀の修行や「サダナ(成就法)」を行うこと――サダナとは、私たちの心をより高い目覚めた状態、つまり悟りへと導くために、仏と結びついた特定の瞑想や儀礼のことです。体系化され、書き記されたあらゆる仏の修行や瞑想を、私たちはサダナと呼びます。サダナとは、自己を変容させるものです。チベット語ではこれを「ダギェ(dagye)」と言います。「ダ」は自己、「ギェ」は成長、拡大、増加、あるいは変容を意味します。つまり、凡夫から目覚めた存在へと変容することです。ですから、サダナとは実際にはあらゆる尊格の修行を指します。

それぞれの仏陀は特別なエネルギーを持ち、私たちを助けるための固有の力を備えています。それは、彼らが悟りを開く前に立てた誓願(誓い)に基づいています。アミターユス(無量寿仏)は、私たちに大慈悲、智慧、寛大さ、愛、忍耐、精進、そして無常への理解を授けてくれます。
さらに、アミターユスの修行を行う副次的な恩恵として、病が癒やされ、恐れが消え、内面の病や心の病、感情的な傷までもが癒やされていきます。そして、自分を傷つけるものへの短気さや、執着、しがみつきが和らぎ、最小限になっていくのです。
私たちが輪廻転生を繰り返す根本的な原因の一つは「欲望」です。食べ物への欲、楽しみへの欲、娯楽、パートナー、快楽、お金、豊かさ、そして所有することへの欲求。私たちが抱き、絶えず突き動かされ、強制的に行動させられているこの欲望こそが、終わりのない輪廻と、その中での苦しみを生み出す真の原因なのです。

仏陀の内に備わる「浄化された欲望のエネルギー」こそが、阿弥陀如来(アミターバ)やアミターユスのエネルギーです。それゆえ、彼らの身体は赤色をしています。赤は「浄化された欲」を象徴しているのです。したがって、私たちが内外のあらゆる物事への執着を克服し、解放の島へと心を落ち着かせることができたとき、存在の本質を完全に理解することができます。存在とは、実際にはさらなる問題や苦しみをもたらすものに、それとは気づかずにしがみついている状態のことなのです。
ですから、阿弥陀如来の修行は素晴らしいものです。アミターユスの修行も素晴らしく、この両者に違いはありません。これらは、過去生や今生で経験した内面的な感情の傷やダメージを癒やすための、実に見事な修行です。病気や疾患を癒やすための非常に強力な実践であり、恐ろしい病にかからないための因徳を積み、もし病にかかっても回復を助ける強力な力となります。病中にあるなら、これに取り組み、実践することは素晴らしいことです。癒やしを早めてくれるでしょう。もしアミターユスの真言(マントラ)を唱え、薬に向かって息を吹きかければ、その薬はより大きなエネルギーを帯び、身体を癒やす力が増すことになります。
仏教の教えにおいて、阿弥陀如来やアミターユスへの帰依や修行は、心を穏やかにし、精神的な癒やしを得るための大切な支えとされています。内面的な苦しみや感情の傷と向き合い、慈悲の心を持つことで、困難な状況においても心の平穏を保つ一助となるでしょう。

阿弥陀如来(アミターバ)は「キ・ドゥク・パ」、すなわち足を組んで瞑想する姿で座り、両手は膝の上で長寿の宝瓶(ほうびょう)を持っています。右手は左手の中にこのように重ねられ、宝瓶はあなたの方を向いています。「パ・セム・ゲ・シン」、その瓶からは如意樹(願いを叶える木)の茎が伸びており、中の水は甘露(アムリタ)です。この水を一口飲むだけで、輪廻に転生するあらゆる原因が癒やされ、それは溢れんばかりに満ちています。背筋をまっすぐに伸ばして座るその姿は、まるでルビーの山のように光り輝いています。平面的でも硬くもなく、強張ってもおらず、ただ光り輝いているのです。私たちはそのように阿弥陀如来を観想すべきです。そして可能であれば、教えを授けてくれた師(ラマ)が阿弥陀如来と本質において一体であり、すべての仏・菩薩・尊格の「浄化された欲望のエネルギー」と一体であると、強く念じるべきです。

文殊菩薩は、後に「龍趣尊上王仏(りゅうしゅそんじょうおうぶつ)」となられる存在であり、人間ではなく龍から成った菩薩であるため、その寿命は極めて長いとされています。過去七仏の時代よりも前から存命であるのも、そのためです。
『法華経』提婆達多品第十二においても、大海の龍宮において龍族を相手に教えを説く文殊菩薩の姿が描かれています。龍樹菩薩は龍宮から大乗仏法を学びましたが、ナーガラージャ(龍王)が住む龍宮では、仏法が至宝として大切に守られています。龍樹が龍宮で「中観(ちゅうがん)」を学んだことと、文殊菩薩が中観(マディヤミカ)の般若の知恵を司る菩薩であることは、まさに見事に符号しています。
同じく『法華経』によれば、釈迦牟尼如来は、自坊へ帰ろうとする智積(ちしゃく)菩薩を呼び止め、「文殊師利菩薩と法について議論を交わしてから帰るように」と告げられます。すると、文殊師利菩薩が大海にあるサーガラ龍王の宮殿から空中へと上昇し、釈迦牟尼如来のもとへ参じて挨拶を捧げる場面が記されています。
 

世尊から法座を譲られた文殊師利菩薩は、大海の中で「白蓮華のように最も勝れた正しい教え(法華経)」を説いたと語ります。これに対し、智積(ちしゃく)菩薩は、法華経は極めて深遠で微妙なものであり、この教えを真に理解できる衆生が果たしているのかと問いかけます。
文殊師利菩薩は次のように主張し、ここから問答が始まります。
「サーガラ龍王の娘(龍女)はわずか八歳ですが、大いなる智慧を備え、研ぎ澄まされた能力を持ち、如来が説かれた象徴的表現の意味を深く会得しています。広大な誓願を立て、一切の衆生に対して慈愛に満ちた心を持ち、慈しみの言葉を語るのです。その龍王の娘こそが、正しく完全な覚りを得ることができるのです」
しかし、智積菩薩はこれに反論します。
「釈迦如来は、幾千という長きにわたる劫(ごう)の間、菩薩として絶え間なく努力精進を重ねて覚りを得られました。それに比べて、サーガラ龍王の娘が一瞬のうちに覚りを得られるなどとは、到底信じることはできません」
その時、サーガラ龍王の娘が姿を現し、世尊に挨拶をしてこう告げます。
「私にとって完全なる覚りは思うがままです。衆生を苦しみから解き放つ広大な法を説きましょう」
すると今度は、知恵第一とされる舎利弗(しゃりほつ)尊者が次のように疑問を呈します。
「女性は、いかに努力精進して諸々の善行をなし、六波羅蜜を成就したとしても、ブッダの位に達したという前例はありません。なぜなら、女性は五つの位(梵天・帝釈天・大王・転輪王・不退の菩薩)に到達することはできないとされているからです」
このように、智積菩薩も舎利弗尊者も、龍女が成仏できるということを信じることができませんでした。

 

すると、サーガラ龍王の娘は、舎利弗尊者に対しては変成男子(へんじょうなんし)の姿を示し、智積菩薩に対しては、菩提樹の根もとに座って即座に完全な覚りを開いてみせました。そして、その放たれる光明によって十方の世界を照らし、説法を始めたのです。 
この龍女の成仏は、「諸行無常」や「諸法無我」の真理を体現するとともに、『法華経』の絶大な功徳を物語るものでした。また、その説法を聞いたすべての衆生は、この上なく正しく完全な覚りにおいて、決して後戻りすることのない「不退転」の境地に至りました。 
その時、龍女が成仏した世界と、この娑婆世界は六種に震動したといいます。これほどの不可思議な光景を目の当たりにした智積菩薩と舎利弗尊者は、ただ沈黙するほかありませんでした。

 

 

 

 

ある時、いつも怒り妬んでいる小乗の法師がおりました。ナーガールジュナがこの世を去ろうとした時、彼はその小乗の法師に尋ねました。「あなたは、私がこの世界に長くいてほしいですか。」法師は答えました。「もちろん、否。」

 そこでナーガールジュナは、はなれの部屋に退去し、終日出てきませんでした。彼の弟子たちが扉を壊してみると、彼は蝉が羽化するように肉体を捨て、この世を離れておりました。彼が去ってから百年が経ちました。まるで仏を崇拝するかのように、南インドのさまざまな地で、彼のために寺院が建てられています。

 彼の母は木の下で彼を産みました。木の名はアルジュナ(阿周陀那)です。そのため彼は「アルジュナ」と名付けられました。そして、彼の成道を竜(ナーガ)が助けたので、名前に「ナーガ」の語を冠しました。このゆえに彼は「ナーガ・アルジュナ(ナーガールジュナ)」と呼ばれます。

(『付法蔵伝』によれば、彼は第13 代の祖師でした。彼は仏法を保つために、不老不死の薬の助けをかりて二百歳以上の長生きをしました。彼は数え切れない人々を教えたということです。法蔵に説く通りです。)

一方、南インドの王様は、その地域全部を支配していました。彼は異教の信者であり、一人の仏僧とさえも会うことを拒んでいました。彼の国の民たちは、遠くの者も近くの者も全員、彼の信仰を支持せよという命令の下におりました。ナーガールジュナは考えました。「木の根を断たなければ、枝は衰えない。同じように、領主を改宗させなければ、道は行われない。」

 その頃、国の法律によって、王の護衛兵を雇うことになっていました。そこでナーガールジュナは兵の募集に志願し、衛兵の隊長になりました。矛槍を担ぎ、先陣を切って行進し、衛兵たちを秩序良く支配下におきました。力づくの無理強いなしに命令は実行され、法による強制もなく人々は従いました。王様は喜び、彼が何者か尋ねました。従者は答えました。「この男は衛兵の募集で志願してきました。しかし彼は俸禄ももらわず、給金も受け取りません。彼は自分の義務をきちんと行儀良くはたしています。我々は、彼の心が何を求め何を欲しているのか分かりません。」

 王様はナーガールジュナを呼び出して尋ねました。「お前は何者だ。」

 彼は答えました。「私は、完全なる智慧者です。」大いに驚いて、王は言いました。「完全なる智慧者が世界に現れるのは、とても稀なことだ。お前が自分でそう言うのは、何が証拠なのだ。」

ナーガールジュナは答えました。「もしあなたが私が言ったことの真相を知りたいのなら、試しに質問をしてみればいいでしょう。」

 王様は心の中で考えました。「私は智慧の主、偉大な論者であるから、もし私が問答に勝利したとしても、私の名声が増すことにはならないだろう。しかしもし私が負ければ、只事ではすまないだろう。もし私が彼に何も質問しなければ、すぐに彼に打ち負かされたことになってしまうだろう。」長い間口ごもってから、王様は仕方なしに尋ねました。「天は今、何をしているか。」 ナーガールジュナは答えました。「彼らは今、阿修羅と戦っています。」この答えを聞いて、王様はまるで食べ物をのどにつまらせ、口の中のものを飲み下すことも吐き出すこともできずに、むせているような様子になりました。彼はどんな反証も挙げられなかったので、ナーガールジュナの発言を否定できず、そうかといって、ナーガールジュナの主張を認める理由もまったく見つけられなかったのです。

 王様が何か言えるようになる前に、ナーガールジュナは再び述べました。「私の言ったことは議論にかつためのでっち上げではありません。しばし待ってください、陛下。私の言の証拠はじきに現れるでしょう。」

 この言葉が語られた直後、盾、矛、その他の兵器が空から続々と降ってきました。王様は言いました。「盾、矛、槍、鉾槍は武器ではあるが、それらが神と阿修羅の戦いで使われていたとどうやって証明するのか。」

 ナーガールジュナは言いました。「百聞は一見にしかず、ですよ。」彼がそう言うと、阿修羅の切られた手足の指、耳や鼻が空中から降ってきました。さらに彼は王様、大臣たち、家来たち、バラモンたちに、空中で両陣営が整然と相対しているのを見せもしました。

 そこで王様はナーガールジュナに敬意を払い、彼の教えを受けました。大会堂にいた大勢のバラモンたちも髷を剃り落とし、具足戒を受けました。

当時、魔術の達人であるバラモンがいました。彼はナーガールジュナと魔術の優越を争いたいと思い、インドの王様に言いました。「私はこの比丘を屈服させることができます。お試しください。」

 

王様は言いました。「お前は大馬鹿者だ。この菩薩の輝きは太陽や月の光に匹敵しうるし、彼の智慧は仏の心と比べられるほどのものだ。どうしてお前はそんなにも傲慢で、あえて無礼な態度をとるのか。」

 

 バラモンは言いました。「おや、王様。あなたは智慧ある方ですのに、きちんと試験し、私が彼をおさえくじくのを見る前から、私が彼に劣っているとどうしてお思いなのですか。」

 

 この言葉を聞いて、王様はナーガールジュナに「早朝に大会堂に来て、私と一緒に座っていてくれ。」と請いました。バラモンは後から到着し、呪文を唱えて大会堂の前に大きくて清らかな池を作り出しました。池の中には千枚の花弁を持つ蓮華があり、バラモンはその上に座りました。彼はナーガールジュナを挑発して、こう言いました。「お前は地面に座っているが、それは獣と異ならない。それなのに、清らかな蓮華に座った徳高き智慧者と議論しようとしている。」

 

 そこでナーガールジュナは魔法によって、六本の牙を持つ白象を作り出しました。それは池の水上を歩き、蓮華の座へと行きました。象は鼻を使って蓮華座を根こそぎ抜き取り、高くかかげると地面に放り捨てました。腰をひどく痛めつけられたバラモンは、力が抜けてナーガールジュナに言いました。「私は自分の能力を買いかぶりすぎ、大いなる師であるあなたを蔑んでおりました。どうか哀れとお思いになって私を受け入れ、私の愚かさをとりのぞくべく教えを垂れてくださいませ。」