加賀百万石の金沢の城から犀川を挟み西南の高台に、寺町寺院群がある。

 およそ70寺院がひしめくその地は、城の外郭の防御地のひとつとされ加賀前田家三代前田利常の時代に整備された。

近年観光地として有名な忍者寺と呼ばれる日蓮宗妙立寺があるのもここである。訪れた加賀藩主を守るため屋敷内に防御のからくりがあり、それがいつの日か忍者屋敷と呼ばれるようになった。金沢の中心部や、近場の西の廓を見学した沢山の観光客が、見学時間に合わせてぞろぞろと歓談しながら、寺院群と民家の間の路を妙立寺に向かって進んで行く姿は日常となっている。

 路端のひとつひとつの寺々は手入れが行き届いている。掃除は元より門前に花を植え、繁る木々にも丁寧に手が入っている。それもごく自然に見せるためにさりげない手の入れようである。ある寺の門前には、鬼百合が一輪朱色を眩いばかりに咲かせ、奥の樹木の緑から引き立っていた。並ぶ甍は独自の釉薬がかかり、陽射しに輝き、いっそうの赴きを与えてくれる。これもまた古都金沢の風情を楽しむひとつである。

 忍者寺から先の路には観光客は進まず、木々の触れ合う音、鳥の声、自然音だけが聴こえ静寂が広がる。

 そのまま100メートルほど進むと〈六斗の広見〉と呼ばれる大きな火除け地が広がり、突き当りに、加賀前田家二代前田利長の正室玉泉院(永姫)が遷座した小さな神社がひっそりと佇んでいる。

 玉泉寺天満宮・泉野菅原神社と言う。

 玉泉院(永姫)は織田信長の娘である。

 
  (左 永姫像   右 前田利長像    
                  泉野管原神社蔵 )
 

 永姫は、天正年(1574)天下を半ば統一した織田信

長の四女として生まれた。五女であるとの説もあるがどちら

も定かではない。母は、伝承はあるが解明出来ず不明であ

る。

 8歳の時、天正年(1581)に、信長の家臣前田利家

の長利勝(のちの利長)に輿入れする。この時、前田利勝

20歳、父利家が能登の領主に任命された為、旧領の越前府

(福井武生)5万石の大名となっていた。

 

その翌年である、永姫は利勝と共に父信長から京へ遊山にと誘われ安土城から向かっていた。6月2日、瀬田に差し掛かったところで、明智光秀が謀反し父が討たれたという知らせが入ったのだ。明智の討手から逃れるため、すぐさま二人は安土城へと戻った。利勝は、まずは永姫を家臣に託し安全な地へと向かわせた。前田家の発祥の地、尾張荒子(名古屋市中川区)である。

 
   

 

 利勝は義父信長の仇を討とうと義兄の蒲生氏郷と合流し、        伊勢の織田信雄の元へと向かったと言われている。そこで               羽柴秀吉が山崎の合戦で明智に勝利した報を聞く。利勝の            明智討ちは幻となった。この間、永姫が歴史の流れに翻弄                され何を思ったかの記録はない。想像の範囲を出ないが、                     それゆえに、父が討たれた悲しみは大きかったのかもしれ                  ない。生き抜かねばと奮い立たせたのは夫利勝の存在があ           ったからこそかもしれない。

 

 世は秀吉が実権を握りつつあり、それに抗する柴田勝家と戦いになった賤ケ岳の合戦は、秀吉の勝利に終わった。柴田勝家は滅亡したが、勝家方の前田利家は秀吉の誘いにより味方し存続した。永姫にとって、勝家と共に自害した信長の妹お市の方は叔母、助け出された3人の娘(茶々・初・江)は従妹にあたった。

 

利家は以後の戦功に応じ、領地も能登に加え、加賀二郡、やがて越中二郡と秀吉から次々と与えられ、前田家は天正13年(1585)北陸三国にまたがる80万石の大大名となり豊臣政権の五大老の一員となった。

 利勝も越中森山(高岡)32万石の大名となる。

 慶長年(1598)、秀吉逝去と共に、利長(天正17年に改名)は父利家から前田家の家督を譲られ金沢へ移る。これまでの永姫は、秀吉の『大名妻子滞京令』に従って上方にいる筈だが、確たる史料もなく確定は出来ない。

子宝に恵まれず永姫自身苦悩したという話も残る。利長に側室を勧め、一女満姫を授かったが歳足らずして亡くなっている。後に宇喜多秀家と豪姫の娘、従弟に当たる織田信雄の娘など7人を養女にしている。
 翌年、前田利家逝去。利長は天下取りに勢力を伸ばす徳川家康に抗しきれず、母芳春院(お松)を江戸へと人質に差し出す。この時、永姫も人質として江戸へと行ったという説もあるが定かではない。徳川へ従ったための縁組として、徳川秀忠と江の娘珠姫が、わずか3歳にして利長の弟利常に嫁いでいる。

叔母であるお市の孫、従妹の江の娘である珠姫に、永姫は織田の血を引くものとして、どう感じたのであろうか。

 

徳川へ従ったため、関ケ原の後、利長は加増され120万石となった。利長の弟利政の利敵行為と追放の事柄もあるが、ここでは永姫の話中心としたいので割愛させていただく。

 慶長10年(1605)利長は利常を養嗣子として家督を譲り、金沢の地から富山へと移り住み隠居する。6歳の珠姫は永姫の娘となった。利長43歳。永姫31歳の事である。

 前に戻るが文禄3年(1594)に利長は金沢に織田信長、信忠らを追善する法円寺を建立。慶長18年(1613)利長たちが居城する高岡の地に移された。後に利長の菩提寺となる瑞龍寺である。石廟のひとつには信長の側室のものもある、永姫の母のものであると推測されているが、確認が出来るものはない。加賀藩の記録『本藩歴譜』によると永姫の母は元和4年(1618)に高岡で逝去し、曹洞宗鶴林寺に埋葬されたとされる。ある時期から永姫は母を呼び寄せていたと推測される。同寺は金沢へ遷り墓や位牌を継承したはずであるが、現在は確認出来ない。

 

 慶長19年(1614)5月20日、闘病の末に利長は逝去する。享年53。永姫41歳、剃髪し玉泉院と名乗り、金沢城西の丸の館に移り住んだ。その曲輪は玉泉院丸と呼ばれる事となる。

 金沢での日々は信仰が中心であった。数々の寺に寄進し、なかでも高岡にあった前田家の始祖菅原道真を祀る浄禅寺と菅原神社を寺町台の地に遷座した。その折に、徳川の世となった今をはばかり、菅原神社に密かに織田信長を祀ったと伝えられている。

 元和9年(1623)2月24日玉泉院は金沢城内で50年の生涯を閉じた。

 浄禅寺は、利常が玉泉院の位牌所とし、名称も玉泉寺と改めた。菅原神社も玉泉寺天満宮泉野菅原神社となった。

 墓は前田家の墓所、野田山に設けられた。利家夫婦、利長より一段高い場所にある。前田家の主織田信長の血を引く者として扱われたのである。

 泉野菅原神社は現在、ひっそりと木立の中に囲まれている。賑わうのは祭礼の日ぐらいだそうである。月末の秋の祭礼では〈信長公祭〉を行っている。

 社殿が新しいのは2000年に焼失し近年建て替えられたからである。現在社務所を新たに建築している。

 社殿内には、複製であるが菅原道真公と織田信長公の肖像画が掲げられ、その手前に永姫と利長の木像が安置されている。

(左 菅原道真公  右 織田信長公)  

 信長の槍とされる木瓜紋の入った槍の柄が残されており、現在鑑定中との事。

 

 隣の玉泉寺も誰も訪れる事なくひっそりと佇んでいる。

 かつては広大な敷地に大伽藍が威容を誇っていた寺院も明治に入り焼失し小さな堂が建てられたのみである。

(左 玉泉寺本堂    右 泉野菅原神社社殿)
 

 寺の裏には永姫の供養塔と伝わる五輪塔が佇んでいる。

 

 前田家の織田家への関わりは深く。

 永姫の父への想いは今も金沢のこの地に残っていた。

 

 

泉野菅原神社  石川県金沢市野町15 

 
 
 
 

 

相馬野馬追2017.7.30 
 福島県南相馬市雲雀ヶ原祭場

一千年 未だ続く もののふのハートが 疾走した
 


 



 


 

  

 

 

 

風に吹かれし

蓮の葉の

ゆらゆら揺れる澄みし水
ゆらゆら揺れる吾身も映る
霧雨の時