小鳥遊楓《たかなしかえで》は転生者である。
「オラッ!!!」
裂帛した声と共に放たれた拳が頬をぶち抜いた瞬間、楓を襲ったのは痛みではなく記憶だった。
工場跡地と思しき荒れ地で、笑いながら複数の女を相手取って喧嘩をしている少女。
場面が変わり、今度は土砂降りの雨の中、アスファルトに倒れ込む少女。
誰かが覆いかぶさり、狂言を吐き散らしながら何度も、何度も背中にナイフを突き立てている。
夥しい量の血が流れ、肉体は雨に濡れ、命の灯が消えかけているのが、前世の自分であると気付いた時、肉体の根底にある魂が震え、芯に火が宿る。それは全身に及び、緑玉のような瞳にギラリとした鈍い輝きが宿る。
(なんで忘れてたんだ? 私は廿樂義詩織(つつらぎしおり)、最強のヤンキーだった筈だ)
あの日廿樂義詩織は死んだ。そして小鳥遊楓として転生した。
この15年間、前世の事を考えた事も、覚えてもいなかった。
今、この瞬間までは――
「枝のクセに突っ張っちゃいけねえよ」
「そうそう。分不相応ってヤツだ」
白百合女学園校舎裏、手入れが全くされていない花壇の傍で、綺麗な緑色の髪を背中に流し、小柄な体を紺色のセーラー服で包んだ小鳥遊楓は羽交い絞めにされ、一方的に殴らている。拳を振るっているのは2人の女、真新しい制服を着崩し、髪を派手な金色に染め、ロングスカートを穿いたこの世界では標準的なヤンキーだ。
前世と違いがあるとすれば、頭頂部から動物の耳が、臀部からは尻尾が生えた獣人という【亜人種】であること。
「……息が臭ぇぞっ!!! 犬っコロがっ!!!」
眦を吊り上げて叫ぶと犬人が顔を真っ赤にして殴りかかってくる。楓がにやりと笑い、左足を突き出して靴底で腹を蹴りつけた。犬人の体がくの字に折れ曲がり、数歩後退する。隣に立っている女が「は?」と間抜けた声を洩らした。
「ぐるぅ……てめえ、覚悟出来てんだろうなぁ」
「ワンワンうるせぇな。犬語は分からねえ、大和言葉で喋れ」
「がるぅ!!!」
犬人が犬歯を覗かせて唸ると、左足を振り上げた。鍛えられた犬の脚力は人間のそれを有に上回り、風を切り裂いて、楓の横顔を蹴り抜く。勢い良く顔面が弾け、凄絶な衝撃で視界が歪み、口内が鉄臭い血で満たされるも、楓は歯牙にもかけずこれを待っていたと笑う。
人よりも強力な犬人の攻撃を食らい、楓を羽交い絞めにしている女も巻き込んで地面に倒れる。その際、腋窩に回されていた手が外れ、奇しくも楓は解放される。
犬人は楓に向かって地を蹴ると、距離が一瞬にしてゼロになる。
勢いに乗ったまま、右足を振り抜くと鈍い打撃音が響き渡り、犬人の口角が歪む。
だが――右足が捉えたのは楓だけではなく、羽交い絞めにしていた女もだった。
瞠目する犬人の目先で、女が鮮血と共に仰向けに倒れ込む。転がって回避していた楓は動揺している犬人の左足蹴った。右足を持ち上げた状態の彼女は片足立ち、そこに攻撃を受ければ……
「ぐぅ……」
膝が折れ、態勢が崩れる。片膝立ちとなった犬人に歩み寄り、顔面に膝頭をめり込ませる楓。犬人が頤を反らして、呻き、鼻血が舞う。そのまま地面に倒れると、マウントを取り、真上から拳を振り下ろす。柔らかい頬が拳撃で撓み、懐かしい衝撃が腕を伝って全身を駆け巡ると、楓が笑い、更に追撃の拳を突き落とす。鈍い殴打音と犬人の呻きが重なって空気を震わせる中、1人残された女は動けなかった。
(な、な、何が起きてる? 獣人が【エルフ】にボコられてる?)
色鮮やかな緑髪を振り乱して、犬人を殴る楓の姿に女は言葉を失い、ありえない。あっていい訳がないと内心で頭を振る。
獣人は人の遺伝子と動物の遺伝子を持つ亜人で、古来より闘争に優れていた。喧嘩においても獣人は最強だという者は多い。彼女だって犬人の強さは知っている。だから一緒にいると言っていい。
そんな彼女が、非力で脆弱、枯れ枝と言われるエルフにボコボコにされている。
信じられる訳がなかった。
「チッ意識消失《飛び》やがった。後はお前だけだなぁ」
楓が緩慢な動作で立ち上がると、女を見る。この時点で女の戦意は喪失していた。
自分では勝てない犬人に殴り勝った楓に勝てる見込みはないので、女は両手を挙げる。
「こ、降参だ。勘弁してくれ」
「……消えろ」
戦意のない人間を殴る趣味を楓は持ち合わせていない。女の意思を呑み、踵を返す。
全身が痛い。特に蹴られた顔は間違えなく腫れあがるだろう。
とはいえ悪くない気分だ。15年越しに前世の記憶が蘇り、また喧嘩出来たのだから。
「いてててて……」
入学式が終わり、無人と化した校庭を足を引き摺りながら歩いていく楓。茜色の空から差し込む夕焼けが彼女の横顔を淡く、照らしていた。
「いっっったぁ!!!」
「これくらい我慢しなさい。全く入学初日からこんな大怪我して。だからお姉ちゃんユリ女なんて行ってほしくなかったの」
「ごめんて……」
白百合女学園から場所を移し、ここは小鳥遊楓の自宅である。
一階のリビングに置かれているソファーに座り、現在治療中。
薄緑色の髪を後頭部で結い上げ、カジュアルな服装に身を包む、目鼻立ちの整った女性、楓の実姉小鳥遊椿がオキシドールの塗られたガーゼを傷口に当てる。
「痛い……」
「もう少しで終わるから」
涙を目尻に溜め、弱弱しい声を洩らす楓に椿が優しい声音でそう返答し、消毒した傷口に絆創膏を貼り付けると、微笑む。
「はい終わり。あんまり怪我しないようにね」
「ふぁい、あひらとう」
もにゅもにゅと椿に顔面を揉みこまれ、不細工になる楓は上手く喋れない。
椿は小さく息を吐いて、テーブルに置かれた救急箱を持って、立ち上がる。
ヒリヒリと痛む頬を摩りながら楓はリモコンを手に取って、テーブルの奥側にあるテレビの電源をつける。
『今日未明、帝都駅にて男性が女性に痴漢される事件が発生。犯人は付近に通っている女子高生三名で、計画的に犯行に及んだとみられています――』
丁度ニュース番組が放送されていて、眼鏡に頭上には狸の耳を生やすキャスターが神妙な面持ちで事件について淡々と語っている。
またこの手のニュースかとため息をつく楓。そこに椿が戻ってきた。
「新学期だからかこの手の事件が増えてるみたいなの。楓もヤンチャはいいけど、こういう事はしちゃ駄目だよ?」
「しねえよ、人をなんだと思ってる?」
「クソガキ」
短く言い部屋に戻る椿。それを唇を尖らせ、拗ねた表情で見送った楓はテレビに顔を戻す。前世では男性が女性に痴漢する事件が多かった。けれどこの世界じゃそんな事はまず起きない。
楓が新たな生を受けたこの世界には前世にはない歪みがある。
それが男女の比率だ。
女性が7割、男性が3割、それがこの世界の男女比。ほぼほぼ半々に近かった前世とは違い、この世界は圧倒的に女性が多く、男性は少ない。
それ故か男性はとても大切に扱われ、尊ばれている。男性保護区という専用の区画で、専門の警護官に守られて生活している。
男性と接触できる女性は全体の1割にも満たないとされ、多くの女性が男性との恋愛を経験せずに生涯を終える事も珍しくない。
女性は体外受精で妊娠と出産を行い、子孫繁栄に尽力している。椿と楓もそれによって誕生した。
それが前世と今とでは大きく違う点。
後はこの世界にはエルフ、ドワーフ、獣人、鬼人という亜人種がいる。彼女達はこの世界の創世から存在しており、人と同じように進化し、今の姿になったとされる。
エルフは耳が長く、聴力に長け、森や自然を信仰していた。過去には森の賢者とも呼ばれていた。
ドワーフが矮躯ながらもがっちりした肉体を持ち、貴金属などの加工に富んで、武具や建物の鍛冶・建築を行っている。
獣人は動物的特徴と図抜けた身体能力を有し、様々な分野で活躍している。
鬼人はここ大和国固有の種族で、鬼と人間のハーフと言われているが、実際の所は分かっていない不思議な種族。
後違いがあるとすれば国名だろうか。
楓の前世は日本と呼ばれ、日本語が言語であったが、ここは違う。
大和国といい、言語も大和言葉と呼称されてる。
日本に酷似しているが、日本ではない。大和言葉にしても日本語との違いは名称だけで、ほぼ一緒だ。
『続きまして、雪城和美氏が新たなプロジェクトを行うと発表されました。
詳しい内容はまだ判明していませんが、近いうちいい報告が出来るだろうとコメントされました』
「んんぅ~」
体を伸ばし、欠伸する楓。小難しいニュースが続き、眠気を煽られた楓は、テレビの電源を消し、冷蔵庫から缶ジュースを取って2階の自室に向かう。
楓の部屋と書かれたドアを開けると、顔が苦笑で歪む。
何というか派手なのだ。真っ白の壁に貼り付けてあるのはあるヤンキー漫画のポスター、壁際に置かれた棚には沢山のヤンキー漫画、ドラマ、DVDが綺麗に並べられ、中学の修学旅行で買った木刀が立てかけられ、ベットの脇に設けられた机にはヤンキー漫画の真似をしてか、ペチャンコの鞄が報られている。
楓はエルフだ。綺麗な緑髪に緑眼はエルフである証拠。ただエルフには珍しく小柄。
長身痩躯が特徴の中、楓の身長は150㎝とこの世界の平均を約10㎝程下回っている。
小さい頃は良くそれで馬鹿にされたものだ。その度に椿に泣きつき、慰められていた。大きくなって見返してやると毎日牛乳を飲んでいたが、成果は言うに及ばず。
楓はエルフには珍しいヤンキーに憧れを抱いてるタイプ。弱きを助け、強きを挫き、仲間と共にテッペンを目指すのに密かな憧憬を持つ。
なので悪名高い白百合女学園に入学した訳だ、ヤンキーになる為に。
それは成功したと言える。
前世の記憶が覚醒し、結果からいえば無事にヤンキーデビューを果たした。
しかしもし覚醒していなかったら、悲惨な高校生活が待っていただろう。
喧嘩したことが無い楓があの3人に勝てたとは思えない。運が良かったと言わざるを得ない。
部屋を見回しながら、楓はフッと笑う。懐かしい。
小柄で非力な過去の自分はいつもヤンキー漫画を読み、目を輝かせていた。
こんな強い人になりたい。頼れる仲間達と一緒に果てしない階段を登ろうと夢見ていた。
「……だったら目指すしかねえよな? テッペン」
今の楓には昨日までなかった前世の記憶、経験がある。
前世の楓は喧嘩に明け暮れるヤンキーだった。だから喧嘩の仕方は良く分かっている。手の平に視線を落とし、ギュッと握りこむ。
「とるぞ、テッペン!!!」
今ここに後にスケバンエルフと呼ばれる事になる少女、小鳥遊楓が誕生したーー。
続く。