お魚の骨というのは、おいしいものだと
思う。
一尾に一本しかないから有り難みが増す。

アジを三枚おろしにした時の骨せんべい。
旨みが凝縮していてたまらない。
他人の分まで食べたいと横目で見てしまう。

ある冬、小料理屋さんでサヨリのお刺身を
食べた折
「骨を唐揚げにしましょうか」と板さんが
言ってくださり食べる機会があった。
そのおいしさを今でも思い出す。

昨夕はこの秋初めて、秋刀魚(サンマ)を
焼いた。
「おいしい秋刀魚の焼き方」に従ったら、
皮はパリッと身はふっくらでびっくり。
新鮮な初物に満足した夕食だった。


さてさて、秋刀魚の骨のこと。
私が文章講座で学び始めたばかりのころ
に書いたエッセイを読んでいただけます
でしょうか。

秋刀魚の骨は祖父の思い出に繋がり、
思い出がつい食べ物に結びつく私。

8年前に書いたエッセイです。

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【原稿】
タイトル : 生きてきた証し
     (NHK学園・作品集に掲載)

 母と妹と私。女三人揃うと決まって食べ物と料理の話になる。私たち娘が母の料理をほめると、「おばあちゃんには、かなわないわ」と懐かしそうな母。
「ああ、おばあちゃんの胡桃餅、もう一度食べたいなあ」
 私がつられて言うと、二人とも大きく頷いた。今はもう誰も再現できず、幻の手料理となったあれこれと共に、小さな体を丸めて働いていた祖母の姿がまぶたに浮かび、四人で盛り上がっている気分になった。
 秋の夜、食べ終わった秋刀魚の骨を炙った。細めたガスの青い炎を見つめ、香ばしい匂いを吸い込んでいたら、ふいに祖父を思った。
 小学生の頃、祖父母の家に行くと、秋なら祖父が庭にコンロを出して、秋刀魚を焼いてくれた。明るさの残る夕暮れの空に、威勢よく昇る煙。秋刀魚から垂れた油でパチパチはぜる炭火。縁側でアツアツを頬張った。最後に炙った骨にお醤油をちょっぴり垂らして食べるのが一番の楽しみだった。
「この子はお酒飲みになるねぇ」
 祖父は私の頭を撫でた。その光景が一枚の絵のように鮮明に甦った。
 ある時、テレビで六十代半ばの男性が、
「自分が生きてきた証しを残したい」
 と語っているのが気になった。同じ世代だけれど、私は生きてきた証しなんて考えたことがなかったから。
 死者の生きた証しは、生きている人の心に宿っていると私は思う。
 ちょっとしたことで祖父母を懐かしむとき、私の中で二人は存在し、それが祖父母が生きたことの証しなのだ。

 自分の家族を持たない私にとっては、いつの日か、若い友人たちの会話に登場したり、誰かがふっと思い出してくれたなら、それが私が生きたことの証しになると思っている。

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