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天道とは「天は虚空を以って形をなすものである。蒼蒼たる天は虚空無物である、天は無為なる変化である故によく天の秩序を守っている」
地道とは「地は博厚を以って質をなすものである。すべて一切萬物の成長を収蔵する。つまり地は道の至寧を得て地の生を主どっている厚徳の生である。」
人道とは「人は天と地の道を兼ねそなえ以って生成化育の体をなす。人は天と地の中に居り、道の至霊を得て萬物の霊長となしている。」
天と地と人をつなぐものが大道であります。
又、人の心には魂と魄があり、魂は本性を主どり魄は情を主どり善悪が分かれると訓にあります。
道心とは魂の本性(神性)のことであります、それは人の誰しも持っている良心であり善のことであります。
尚書に示されている十六字の心伝、すなわち「人心惟れ危く、道心惟れ微かなり、惟れ一、允とに厥の中を執れ」
いわゆるこれ(この心)を操りて存するようにすれば即ち義理が明らかになり、これを捨てて亡ぼせば即ち物欲をほしいままにするようになる。人心もこれを収め回すようにすればすなわち道心となり、道心もこれを放矢すればすなわち人心となる。人心もその正を得るものは道心となり、道心もその正を失うものは人心となり、初めから二つの心があるのではないので、ただこの心の中に人為の偽りが雑っているか否かによって天と人と、理(ことわり)と欲が分かれてくるのである。
「道」というのは天地の間において、人々が公に持っているものであり、決してある特定の人だけが私有独占すべきものではないのである。「道」は人においては、貴賎、貧富、智愚の差別がなく、生まれると同時にあって、片時も離れることがでいないところの、すなわち心である。
人には皆、心というものがあって心がすなわち「道」であり、もし心を能く修めることができれば、それがとりもなさず道を修めることなのである。いわゆる道を修めるとは実は心を修めることなのである。
このように説いてくると、心を修めることがすなわち道を修めることであって、別に何も深遠で奥深く不可思議なものではなく、又別に難しいことではないのである。
それは時間を消費する必要もなく、また場所も必要としないので、ましてや深山幽谷に、師匠や道友を訪ね求める必要もさらさらなく、何時でも、何処でも、何事においても、ただ自分から決心をして修めさえすれば、自然にだんだんと「道」に合するようになるのである。
この心とは及ち良心であり、又道心でもある。もし何事でも良心にそむくことがなければ、即ち道に合するのである。もし何事においても道に合致すれば、修める必要はないのであり、社会はこのように悪くならず、世界も又このように乱れることはなかったのではないだろうか。
魂(たましい)はその性質を神様より受けて、その本体は常に清く、常に輝いている。
肉体をまとった人間で、魂の性質の方が出現すると安らかでいて静かで慈悲深く、善を好んで行い、理(ことわり)を尊び、その心は悠然としている。魂によって生きた人間が亡くなり霊体になれば光輝いて神の身元に直行する。そして現界に超然として、とらわれることもないのである。
そして魄(はく)の性質は常に濁(にご)っており、人間において魄の作用は、情慾や雑念が日常的に多くなる。肉体的思考も増大しがちで、常に心の中も騒がしくしており、欲望を喜んで貪るところである。そして、その勢いの常におもむく所に居るのである。
魄を強くもった人が死ぬと物欲の言うならば、泥まみれのしがらみから抜け出す事が出来ずに、執着となってその場に囚われてしまう。
魂と魄は、実は表裏一体のものであり、エネルギーの清濁(せいだく)によるところのものに過ぎない。
人間には、この清濁エネルギーが大別して二種類あり、濁である魄が一部重くなると、相対的に清い魂は一部減ることになり、人の情慾思考が一つ増えると、魄の量もまた一つ増えていく。日々欲を欲しいままにしておくと、魄エネルギーは日々増えていき、魂はますます覆い隠され少くなって行くのである。
現代を生きる人間のほとんどの人が、魄の方が多い人々である。そしてこの汚濁した魄エネルギーのために、利益を追って止むことなく、全くもって省みる事を知らない事は実に嘆かわしい事である。
ブログ管理人より:
魂と魄がタイトルなのですが、定義の問題があり、魂をブッディ体、アートマ体、モナド体とし、魄をエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体として、この2種に定義し大別しています。
肝心なことは、あなたが真の信仰を持っているかどうかである。
もし外に表れる形を以て信仰とすれば、人がこういう風にしゃべれば、私もそのようにしゃべる。
人が祈祷し、懺悔すれば、私もそこに跪いて、そういう形をする。
そして私は己に入教(入信)しているのだから、上帝が私の一切の罪を赦してくれると考える。
これは、絶対に、あり得ないことである。
一人の友人を欺して、あなたの良心は、どこかに不安を感じている筈だ。
そしてそこには、絶交のあとの悪い結果がある。
まして、上帝と自分の良心をだましたら、どういう結果になるか、どうして自分で想像することが出来ようか。
儒教に曰う、心が死ぬことより哀しいことはない。
身体が死ぬのはその次だ、と。
無論、どんな宗教でも、 不真、不誠、不修、そして不心得の人に対して、むくいがあるのは、定まった天の法律である、となしている。
原因のない結果はない。
また、自分だけ僥倖を願うような修行をすることは出来ないのである。
昭和40年12月10日発行月刊誌より 黙真人訓