大学図書館の窓から木々が見え、枝葉の間で見えない鳥の影が見られる。本から目を離し、木漏れ日を飛翔している鳥の影を眺めながら、「まるで世界の果てにいるのようだ」と思う。ノートパソコンの画面を見つめていたり、新聞のページをめくっていたりする学生たちの隣にいる私は一人ぼっちになっている気がする。さびしく感じる。
日本語でさびしさを書こうと思ったら、とにかく漢字を選んでおかないといけないようである。孤独感の表現には「寂」と「淋」の二つがあると知ったが、どちらのほうをカンジているのかきちんと理解していないので、今後「さびしい」と書かせてもらっていく。
いつもよりさびしく感じていたのは母国のウクライナに対する戦争が始まったときであったと思う。恐怖や悲嘆、同情や親密さ、すべては痛切に実感できるようになったと気がしていた。さびしさもそうだったんである。空襲警報の鳴り響く眠れない夜、上着を着たまま廊下の床に座っていた自分をカメラアイで上から見たような気がしたし、サイレンの音とその唸りの中にいる私の以外に何も、誰も残っていない感覚もあった。避難した理由を考えてみると、もしかしたら戦争からではなく、さびしさの実感から逃げようとしていたのではないかと思うこともある。
逃げられたと思ったのに、来日の後でもさびしさに直面せずにはいられなかった。それは仮面を被ったさびしさであったが、見逸れることはできなかった。生まれて初めて家族と離れて一人で誕生日を迎えた日、私は初めて「さびしい葉書」を買い、さびしさを牽制する習慣を始めた。それから、クリスマスやお正月、バレンタインデーなど、さびしさを強く感じやすい日だけでなく、ただ寂しいと思った日にも「さびしい葉書」を買っていた。その葉書きは普通のもので、隠された意味を知らない人が見れば、何の関係もない数枚のカードにしか見えないだろう。なぜか「さびしい」という印象を与えられ、買ってきたモノに過ぎないのだが、私にとっては心を癒すお守りのようであったに違いない。
だが、さびしさを乗り越えたいよりもむしろ倒したい、さびしさと勝負して勝ちたいと私は思った。ある日さびしい葉書きの裏側に告白の言葉を書き、好きだと思っていた男性に送った。一週間ほど待つと、曖昧な返事が返ってきた。葉書きに密着していたさびしさが、彼の心に跳ね返って、ブーメランのように私に返ってきた。
たとえ頑張っても、さびしさに勝てなかった。逃げようとしても、勝負しようとしても無理をしていたようである。もしかしたらさびしさに負けるべきかもしれない。負けたら、さびしさを迎え、どうにか生き抜くことができるのだろうか。
確かに、さびしさから身を隠せる場所は、鳥の影の下にしかない。