　能楽と言ってもいろんなジャンルがある。シテ（主役）が美女を演じるものもあれば神が人類を祝福するものもある。そういうものも充分に面白いが、修羅もの呼ばれるジャンルの能も面白い。

　２０２３年５月２０日私は東京・水道橋の宝生能楽堂でそういう能を観た。

　『藤戸』は源氏と平家の戦争を題材にした能だ。場所は備前児島。瀬戸内海に面した場所で今はJR瀬戸大橋線の駅がある。源氏方の武将・佐々木盛綱は児島での合戦の戦果を認められて児島の地を領地として与えられる。その盛綱が領地に入り、訴訟のある者を集めると、一人の女が自分の息子が盛綱に殺されたと訴える。

　盛綱には覚えがあった。合戦の前馬で海を渡れる浅瀬を地元の漁師から教わった後、その漁師を口封じに殺したのだ。それを盛綱が女に告白すると、女は盛綱にとびかかろうとする。この場面には怖さを覚えた。

　盛綱が猟師の供養を行なうことを女に告げて前半は終わる。

　主役が前半と後半で異なるキャラクターを演じることは能ではよくあることだ。この曲でも前半で息子を殺された母を演じたシテ（野月聡）が後半のでは殺された息子の亡霊として出てくる。

　殺された恨みを盛綱に語る猟師の亡霊。盛綱に殺された様子を再現する場面では刀に見立てた釣竿を心臓に刺す動作をするのだが、ここでは謡（うたい）の声も高まり観る者を緊張させる。

　やがて亡霊は釣竿を落として去っていくのだが、彼は盛綱を許したのか、許していないのか、その判断は観る者にゆだねられる。

　能楽が成立したのは戦争が絶えない室町時代であり、戦争をする武士により支持された。『藤戸』のような修羅ものを支持した武士は、戦争でころした者に対する申し訳なさを感じながら能を観ていたのだろう。

　話は変わって、現代の日本で２０世紀の戦争について語るときには帝国軍人の勇ましさばかりがクローズアップされ、あれはアジア会報のための戦争だった、と当時掲げられていた戦争の大義が何かと強調される。

　しかし、そのアジア解放の戦争の実体は侵略であり、帝国軍人は多くの罪のない人を殺し、人生を奪ってきたのだ。そういうことに眼を覆い、そればかりか日本以外のアジア人を蔑視するというのは日本の伝統とは異なるものだ。

修羅能「藤戸」