「君が代」と「東京ブギウギ」 | Kura-Kura Pagong

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"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 国旗国歌法で日本国の国歌とされている『君が代』は私が小学校低学年のとき父から教わった。

 父と『君が代』というとこんなこともあった。私が小学校高学年のときだったか、休みの日に家でのんびりしていたら、『君が代』を変な節で歌って、最後の「苔のむすまで」のあと「ヘイ!」を付けて変な国歌を歌い終えた後

「『君が代』をこんな変な歌にして歌った先生がいるけれどもいけないことだ。」

と言った。

 

 その変な節が戦後混乱期に流行した『東京ブギウギ』の節だと私が知ったのは1991年のことだ。

 

 

 1987年に昭和天皇が癌の手術を受けて、彼の病状が盛んにメディア取り上げられる。それから1989年に彼が他界し、天皇の代替わりがあって翌1990年秋に平成の天皇の即位儀式が行なわれた。今思えばこういう流れの中で日本社会は右傾化していった。そういう中で学校行事での国旗掲揚、国歌斉唱を義務化するべきだと政界財界の指導者たちが主張するようになってメディアでもそれに関する議論が取り上げられた。

 そんなころ、『週刊朝日』で小田実と西部邁が行なった討論を掲載しているのを私は読んだ。買って読んだ覚えはない。大学の図書館で読んだのか。

 

 そこで義務化すべしと主張した西部が取り上げたのが件(くだん)の先生。

 福岡県立高校の音楽教師だったそうで、卒業式の「国歌斉唱」のとき『東京ブギウギ』を弾いて『君が代』を歌ったのだそうだ。その教師が歌った歌詞には「苔のむすまで」の後にも続きがあって「天ちゃん」なんて言葉も出てきた。

 この教師は卒業式の後学校を去り、ジャズピアニストに転じたそうなのだが、西部は辛辣な口調で

「そっちのが似合っている。」

という。この東大出の先生はよほどジャズがお嫌いらしい。

 

 さて、私の話に戻るが、父の教えもあり、天皇は敬うべし、国旗国歌も敬うべし、と思って思春期を過ごした。友達と一緒に西武ライオンズ球場へプロ野球の試合を観に行き、試合開始前の国歌演奏の時私一人だけ起立して皆からからかわれたこともあった。

 そういえば1976年に東京の公立小学校へ入学し、1988年に都立の高等学校を卒業するまで、国歌と言えば小学校の卒業式の時レコードでメロディを演奏したのを聴いただけだった。

 あの頃は、なぜ卒業式で国歌を歌わないのか、と思った。

 

 あの頃の私は右寄りだった、というよりも右左どちらにも転ぶ可能性のある子供だった。しかし、1937年生まれの父は天皇に敬意を持つべき、と私に教える一方で、病弱の身で遭遇した東京大空襲の話や、国民学校で天皇の「御真影」に礼をさせられたがあれは意味のないことだという話もしてくれた。そのおかげで私 は右へ転がることはなかった。

 

 私が変わりだしたのは高校生のときだろうか。あの頃は先生でも生徒でも親しくなった人には天皇制反対だった。彼らの意見に反論しようと新聞だとか本だとか読んでみると、あちら側の意見がもっともだと思うことが多かった。

 高校2年から3年に進級するとき、国鉄分割民営化があった。日本国有鉄道に代わって鉄道を運行する株式会社を一括りにして言う言葉が「JR 」という横文字だった。

 国民に国を愛せと言いたがるお偉いさんは、実は日本の文化を粗末にしている。そんなことを考えた。

 

 そんなこんなで大学に進学してからは国旗、国歌強要反対、と私は思うようになった。

 

 

 

 『君が代』の"君"は"あなた"という意味なのだから、目くじらを立てて反対することはないじゃないの?」

という人もいる。『君が代』はもともとは『新古今和歌集』に掲載された読み人知らずの歌だが、この歌と同じ部に掲載された歌と比較してみたところ『君が代』の「君」は読み人が敬愛する人であり、天皇のような君主とは限らない、というのが文学研究者の解釈だ。

 しかし、為政者は時として読み人の思いとは異なる解釈を庶民に強要する。

 上に貼り付けたのはFacebookで拾った写真だが、これは昭和18年に発行された国民学校の修身教科書の『君が代』に関する記述だ。

「この歌は『天皇陛下の治める時代は千年も萬年もつづいておさかえになりますように』という意味」と第二次世界大戦中の子供たちは『君が代』の意味を教わった。

 今の為政者も天皇の威を借りて国民を操りたいから、私たちに『君が代』を歌わせようとする。

 彼らはそのために『君が代』を利用するのだ。