みなしごのアルマジロを連れ帰るごとかぼちゃ抱えてゆっくりと冬(柴田葵)

かぼちゃ抱えてゆっくりと冬。これはまあ、ふつうと言えばふつうです。冬至と言えばかぼちゃ。それを「みなしごのアルマジロを連れ帰る」様子に例えています。なんだか妙な説得力があります。それがこの歌の柱となっているというべきでしょう。いい歌だと思います。

 

乗ったことないけれどソリに乗るように磨いた湯船のひかり方 見て(柴田葵)

これは「乗るように磨いた」なのでしょうね。「乗るようにひかっている」ではないと思います。後者でも面白いかな、と思ったりしますが、読みとしては無理があるか。これも好きです。難を言うならば「乗ったことないけれど」が少し説明的かな。「けど」がなくてもいいんだと思うんです。どうでしょうか。

 

なぜかある牛乳二本のうち古いほうをシチューにする しあわせだ(柴田葵)

「しあわせだ」とか「かなしい」とかを短歌に入れるのは難しいものですが、この歌はうまくいっていると思います。「なぜかある」というのはなぜあるんでしょうか。誰かが入れていったのですが、それは誰なのか。不穏な想像をしたくなりますが、それはちょっと読みとしては外れるかなあ。全体に説得力が満ちていていい歌だと思います。

 

 

ちなみに今回の記事は「ですます調」で書いてしまいましたが、特に意味はありません。

弔いにどの首が値するものぞヒースをむしり酒瓶を割る(堂那灼風)

ヒースというのがそもそもわからないのだが、「ハーブの一種」と解しておく(ネットで調べた)。そもそも論として歌の意味である。「どの首が弔いに値するのだろうか。ヒースをむしり酒瓶を割る」。ここで「値するのだろうか、いや、値しない」ということなのか、単純な疑問なのかはわからない。反語と理解すべきだろうか。とすれば「弔いに値する首なんかない」という歌である。主体のどうしようもない怒りが伝わってくるようだ。

 

伸びきった蛍光色の避妊具を泥の轍に見出す夜明け(堂那灼風)

夜明けなのは避妊具を使ったからである、ということになると思う。泥の轍とはなんだろう。しかも、見出している。主体が使ったのではない(と、とりあえず読んでおく)。体言止めなので、夜明けが一番強く伝わってくるイメージである。避妊具なのだから、セックスのためだけに(生殖を抜きにして)使われたものである。その無力感というか、虚しさというか、そういうものが表れている、と読んだ。

 

 

あの朝も重たい霧とシャムロック ゆく戦列の軍靴ひかれり(堂那灼風)

シャムロックとはクローバーのことでいいのだろうか。この歌で一番引っかかるのは実は「あの朝も」なのではあるまいか。「も」って何だ。反復されている。解釈を拒むような歌ではあるのだが、霧の白さが際立っていて、軍靴の黒(ないし茶色)とコントラストをなしている、強烈で美しい歌だ。

 

つくつくほふしつくほふしつくほふしえいゑんといふ時間の軽さ

 

ツクツクボウシが鳴いている。そこに「えいゑんといふ時間の軽さ」を見た、というのである。

 

ツクツクボウシは蝉である。夏の終わりになると鳴くので、私(篠田)などは、あの声を聞くと「夏も終わりだな」と思うのだ。長い時間を地中で過ごした蝉が地上に出て鳴いている。そこには永遠と刹那との共演が見える、ということであろうか。その永遠が軽い。ふつう永遠は重いと思う。なんだろう。すごい。

 

「えいゑん」という言葉がつくつくほふしの名(あるいは声)と一体になるような歌であった。

 

扇風機カラから回る夕べ見た犀を忘るるためまた眠る

 

扇風機が回っている。そしてなんと(?)犀を見たというのである。しかも犀を忘れるために眠るというのだ。だから夢で見た犀ではなくて、むしろ現実に見た犀を忘れるために眠るのだ。

 

この犀は「動物園で見た」といったものではないのだろうな、というのはわかる。なにかの象徴というか、意識の底にあるような犀である。犀と言えば「犀の角のごとくただ一人歩め」が私には思い出されるが、この歌にそれが込められているのかどうかは不明だ。

 

犀のイメージとはどんなものなのだろう。象は優しいとか、イルカは賢いとか、狐はずるいとか、動物によってイメージがあるのだが、犀はちょっと思いつかない。しかもなぜ犀を忘れなくてはならないのだろう。作者のイメージにはたどり着けていないのかもしれないが、「眠る」であるから、あくまでひとりで行動が完結しており、読者に理解を求めるというよりは、ひとりで詠まれた歌のように感じられた。

 

 

八月のあぢさゐはなほうす蒼し月光浴を愛せる晩に

 

あじさいは6月。決めつけてはいけないだろうか。でもあじさいはやはり、梅雨の花なのである。8月にあじさいが何をしているのか、よく知らない。

 

作者はその8月のあじさいを見つけたのである。そして「なほうす蒼し」と表現している。6月にうす蒼かった、今でもなお、ということなのだろうか。歌全体が回想という可能性もあるが、そう読むのは厳しいかな。どうだろう。

 

月光の蒼さと、あぢさゐの蒼さとが混ざり合って、静かな情景を描いている、その余韻を味わうべきかと思う。

 

ひといきに紐を引きずり出したのち空つぽになるわたしの器

 

「引きずり出す」は能動態であるから、「わたし」から紐が引きずり出されたのだと考えない方がいいのかな。引きずり出したのがわたしか。わたしがわたしから引きずり出しても別におかしくはないか。どうだろう。

 

紐はなにかのつながりを示したもの、と読めばいいだろうか。あとは「のち」との関係も気になるところである。「ひといきに紐を引きずり出されれば」ではないので、時間的な間隔があると読むべきなのかな。

 

「空つぽ」という表現がいい。それから「ひといきに」の一気に動く語感と「わたしの器」という落ち着いた結句がまとまっていて、いい歌だと思った。

 

 

寄る辺つて何だつたつけ。問ひかける代はりに唇(くち)で受け止める精

 

「くち」はルビである。精、というのは精液のこと、と考えてよいのだろうか。さりげなく「森の精」「水の精」といった雰囲気を出している感もある。「唇」に「くち」とルビをふってあるのが艶めかしい。「くちびる」と読ませたらこの効果は出なかったであろう。

 

唇で受け止めているのだから、口はふさがっている。だから問いかけなかったのだ、と読むべきか。それとも「そもそも問いかけることができなくて、とにかく精を受け止めた」と読むべきなのか。問いかけたかったのか、それとも問いかけたくなかったのか。迷うところであるが、「そもそも問いかけることができずに」と読むべきかと思う。

 

主体は結局「寄る辺」を知ることができたのかなあ。そんなことを考えさせる歌である。なんだか切ない。

 

 

ため息を散らかす部屋で最後には立位のままで枯れていくのだ

 

「ため息を散らかす部屋」とはどんな部屋だろう。主体は一人でいるのか、それとも二人なのか。もっとたくさんという可能性もあるが、二人までかな。

 

「ため息の散らかる部屋で」としてもよかったはずだから、「散らかす」には意図的なものがあるはずである。ため息にも色々ある。落ち込んでということもあるだろうし、ほっとしてということもあるだろう。この歌の場合はどうだろうな。枯れていくのだから、寂しげに、ということだろうか。

 

「散らかす」の意味も気になる。「ふだん散らかしている部屋で」という意味だろうか。「現に散らかしてある部屋で」という意味だろうか。直感的には「ふだん」の方がいいように思われる。ふだんため息を散らかしている部屋、そこでわたしは最後には枯れてゆく。ため息の残ったままで、という読みではどうだろうか。

 

茨城より来たる仔猫の肉球は芽ぐみの近き土の香のせり

仔猫が茨城から来ています。もらわれてきたのかな。茨城は実際に茨城だったのでしょうが、都会すぎもせず、田舎すぎもせずという、よい感じの場所だと思います。

この連作は猫の避妊手術を扱っているのですが、ここでは猫はまだ仔猫です。「芽ぐみの近き土の香のせり」がとても穏やかで、猫を愛おしむ主体の気持ちが伝わってくるようですね。さりげないですが、なかなかできる表現ではありません。



如月の陽をリビングに分けあいぬ もう子を為さぬ猫と吾とは

一転して避妊手術は終わりました。猫が何歳なのかは不明です。老いたのかもしれませんし、そうでもないかもしれません。ただ如月の日を主体と分け合っています。如月の日ですから、そんなにじりじりはしていません。ぽかぽかというにはまだ寒いかもしれませんが、あたたかな陽射しです。

猫が自分の子を為さなくなったからといってものすごく孤独を感じているかと言えば、そうでもないでしょう。そして主体も強烈に孤独を感じているわけではなさそうです(連作の別の歌にはお嬢さんも登場しています)。

なんとはなしに孤独を感じながら、なんとはなしに幸せでいる、そのような情景を穏やかに描いたものと読むことができます。



仄昏き沼の底より噴きあがる泡のようなる歌を掬いぬ

「沼」は作者の名前に含まれる一文字で、ちょっと遊び心が入っています。ただ、それは仄昏き沼でもあるんだよ、ということを自覚しています。やや不穏な感じです。

仄昏き沼……それは主体の暗い部分でもあり、よくわからない部分でもあり、混沌としたものでしょう。その泡のような歌を掬って私の歌はできていますよ、という宣言です。「掬いぬ」ではありますが、「これからも掬っていこう」という決意も表れた、楽しくも力強い歌です。