現在の小倉城天守です。
小倉城再建天守は、「小倉城」「小倉城天守閣」「小倉城復興天守」「現小倉城天守」など色々な名称があるかと思います。正式名称は「小倉城」のようなのですが、本質的な意味での小倉城と混同してしまうので、ここでは小倉城再建天守として呼ぶことにします。
はじめに
現在の小倉城天守と昔の小倉城天守の外観は異なる点がたくさんあります。1番大きなところは、大ぶりな破風をいくつも設けたことです。これにより、当時最新式であった層塔型天守が当時時代遅れとなりつつあった望楼型天守となってしまいました。小倉城を解説した本のほとんどには、もとはなかった破風をつけたしてしまった、といった記述があり、破風をつけたしてしまったという事実はかなり有名です。
ですが、そのことが、有名になる代わりに、再建天守から破風をとれば、昔の天守と同じになるといった印象が流布している感が否めません。確かに破風をなくせば、昔の天守の姿に少しは近づくのは事実ですが、それでも、間違いが散見されます。この記事は、そのようなあやまった印象をなおし、小倉城天守の古文書などで復元される真の姿を少しでも多くの人にわかってもらえたらいいなと思い、書くしだいです。
その1 破風がなかった。
破風とは、三角形やカーブしている屋根のことです。たいていの天守には破風をたくさん設けておりました。また、天守のない城においても、城内の2、3重の櫓に破風を設けることにより、天守代用としていたこともあり、天守の象徴のようなものでした。
姫路城天守です。破風をたくさんつけております。
彦根城天守です。破風をたくさんつけています。
ですが、小倉城天守には最上階以外は破風をまったく設けない姿でした。
参考・小倉城天守の模型
天守最上階は入母屋屋根とするのが通例で、よっぽど変則的な天守でなければ、最上階には必ず破風が存在します。
最上階の入母屋破風以外に破風が存在しない天守はほとんどなく、珍しいものでした。
しかし、再建された小倉城天守には、入母屋破風、軒唐破風、比翼千鳥破風、唐破風など各種破風が設けられており、昔の天守とは印象が異なるものとなってしまいました。
破風を設けた理由として、藤岡通夫氏の直接のコメントは知らないのですが、小倉出身で、小説家の劉寒吉氏が藤岡通夫氏に破風について質問した記述があります。
新天守が完成したときに氏を囲んで座談会が催されたので、その席上私はひとつの質問をした。
古い小倉城絵図を見ると、あの三角形をした飾りものの破風がないが、新城には庇屋根の上に華やかに乗っかっている。これはいかなるわけであろうか、という意味のことをおたずねしたのである。
すると藤岡氏は、ちょっと苦笑して、もっともな不審で、あの破風には自分も困った。小倉城天守には華やかな破風がなく、それが大きな特色でもあった。そのことは充分にわかっていたのだが、依頼者である観光会社のひとが、破風がなければ天守らしくない、ぜひ破風をつけてもらいたい、あれがなければ観光客に訴える力がない、と強硬に責められるので、仕方なくくっつけたが、やはり本当はない方がよかったのだ、という意味の説明をされた。
(中略) 戦後の城は、いずれにしても、観光城である。そうであるからには、なおのこと、破風のないノッペラボーの葺きおろしを特色とする天守である方が、資料的価値とともに、どんなにか観光的であっただろうに、と今でも残念に思っている。
北九州市教育委員会文化課編 「小倉城-小倉城調査報告書-」 1977年3月31日 北九州市の文化財を守る会 より引用
破風さえつけなければ、昔の姿にかなり近づくので、惜しまれるところです。ただ、皮肉なことに、初層東西に入母屋破風を設けることにより、天守台の歪みを自然な屋根の形で吸収し、2層以上は矩形にすることに成功しています。
その2 小天守2階がなかった。
小天守は、天守の西側に続く付櫓のことです。昔は、小天守は平屋建てで2階はありませんでした。
現在の小天守です。
参考・小倉城天守の模型 (小天守の入口については、諸説あります)
再建天守では、2階を管理事務所とし、1階部分を売店やトイレとしています。しかし、もともとは平屋建てとして再建する予定であったようで、「小倉城再建工事設計図」には、端部が切妻屋根の平屋建てとして作図されています。2階に設計変更された理由はよくわかりませんが、同図には現在の受付が売店となっており、売店を拡大するためと、受付を確保するために2階が付け足されたのだと思われます。
その3 窓が突上げ戸であった。
現天守です。窓が土戸の形式になっています。
もともとは、突上げ窓でした。参考・彦根城天守
窓の形式については、再建天守に展示されていたイメージ模型や、再建天守に展示されていたCGなどにも土戸となってしまっており、インターネットの上で、出てくる小倉城天守のCGや模型なども、土戸となってしまっています。ですが、残念なことに、これらのCGなどの再現図は間違いなのです。「豊前小倉御天守記」などの資料から、天守の窓は突上げ戸であったことがわかっています。
再建天守がなぜ土戸になってしまったのかはわかりませんが、破風配置などは姫路城天守を参考にしているようなので、姫路城天守にならって窓も土戸とされたのかもしれません。
その4 窓及び、狭間の配置が違う
これは、重箱の隅をつつくようなのですが、見比べると何カ所かわかるかと思います。
ただ、模型の窓配置も、文書資料などから推定したものであり、正確であるとはいいきれないことをおことわりしておきます。
小倉城天守復元案は諸説あるので、それぞれの案で、窓配置や狭間配置、5階唐造りの仕様など、違うところがありますが、大まかなところでは、この上記のようなところです。
小倉城天守のより正しい理解が増えることを願います。