仕事帰りの飲食店にて、変人同士の雑談です。
登場人物
Nさん:事務職。エニアグラムタイプ9(平和主義者)
KUPU:事務職。エニアグラムタイプ5w4(芸術家みたいな研究家)
KUPU:
学生時代に、テストの後の解放感ってあったじゃないですか。あれ、ぼくにもあったんですよ。だんだん薄れていって、中学3年生くらいでほとんど消えちゃいましたけど。それからは、いわばテスト前と同じ状態が、日常的に続いてるんですよね。
それで思うんですが、ぼくはずっと何かに縛られてるのかなと。もちろん自由はあるんですが、嫌な勉強をするか、勉強をしないで悪い点をとるか、どちらかを選ぶ自由みたいな。
これは、社会人になっても同じ構図なんです。成長は、絶えず求められるんです。それで、やったらやったで、なんとか期待に応えられることがあるから、いつまでも自分を諦められなくて。これは、今の仕事(ジェネラリスト的な事務職)を続けている以上は、変わらない気がしますね。だんだん割に合わなくなってきた気がしています。
Nさん:
KUPUさんとは立場が違いますけど、自由はないですね。こう、目の前に仕事があったとして、自分がやろうとしているのか、他人の意思が作用した結果として、自分がやろうとしているだけなのか、わからなくなります。
KUPU:
目の前の仕事をやろうとしてるなら、とりあえず自分の意思だと思っていいんじゃないですか。いかにもやらされてる感がある仕事と、そうじゃない仕事ってあるじゃないですか。毒を食らわば皿まで、みたいな気持ちで仕事をやりきることはありますよね。Nさんの分析だと、そこら辺の区別はしてないようですが。
Nさん:
私の場合は、何をするにも恐怖があって。ただ、最近はなんだか開き直って、何をしてもどうせ大したことは起きないだろうと、好き勝手にやることも出てきました。その結果、自分の怒りをお客さんにぶつけたりして。クレーマーとかに。それがいいことなのかどうか、わかりませんが。
KUPU:
感情的には、どうでしょうね。怒りには恐怖が混ざっていると聞いたことがありますけど、何もできないよりは、まだ薄まっているのかな。職場的には、役割分担としてありかどうか。
Nさん:
ヴィパッサナー瞑想とか、色々調べましたけど、結局やってないですね。とある上座部仏教では、瞑想をするときは、自分が存在しないことを前提にしてかかれ、というようなことがいわれています。
KUPU:
頭で理解してから、次に体感する順番なんですかね。先に頭で理解してしまって大丈夫なのかな。
Nさん:
まあ、そもそも私の頭で理解できるのかどうか。つくづく私はゲス野郎で、凡夫なんですよ。私には、浄土真宗とか、日本の大乗仏教の方が合ってるかもしれないですね。親鸞聖人曰く、悟りを開こうなんて思わなくていいそうなんです。やさしい人だったんだと思います。悟りを開かずに死んでも、仏様が即座に助けてくれるのだから、何も心配することはないんだと。
KUPU:
その言葉がやさしいというのは、わかります。宗教家のやさしさというのは、世間一般のやさしさとか、親切とかいうのとは、また違いますよね。世間から見て、あまりやさしいようには映らなくて。世間でいうやさしさは、気分転換とか、その場しのぎがメインだと思うんですよ。それもやさしさには変わりないでしょうけど、何を見ているのか、ぼくにはよくわからないことが多いです。泣いてる人がいたって、それはその人ただ一人で向き合うべきことかもしれない。一人でというのは言い過ぎかもしれませんが、本当に意味のあることなんてできないんじゃないかな。そこら辺の価値観は、ぼくは世間からずれていると思います。
あと、何かできるとしても、他人が特定の救い手となって現れるのはおかしいですよ。若い女性相手だと、特にそこら辺は配慮しないといけない。
Nさん:
助けようとしても逃げられるので、それは大丈夫です。(笑)
Nさん:
易占いを始めました。
筮竹(ぜいちく)という道具を持ち歩いて、ところどころで占っています。当然、具体的な解決策が提示されるわけではないんですが。結果を見ていると、極端を避けよ、というメッセージが多いですね。私がイケイケの気分のときは、「もっと気をつけよ」と出てくるし、落ち込んでいるときは「いずれチャンスがくる」みたいな結果を出してくる。中庸に努めよ、ということなんですかね。陰陽どちらか一方だけが存在するわけではない、という。
KUPU:
ぼくは易占いのことは全然わからないんですが、占いを普遍的な倫理や道徳として読み込んでも、本筋から外れるように思います。それでわかるのは、その占い特有の考え方、癖の部分になるんだろうなと。もちろん、中庸について考えるのは大切かもしれませんが。普遍性よりも、その人にとってより意味のあるものを見つけさせるのが本来だろうなと。
ぼくの感覚はちょっと変なので、日常的な風景が、そのまま占いの結果みたいになることがあります。例えば、いつも通る道の横に、草の生えた、登りの斜面があるんですが、ある日、その斜面に階段ができていたのに気づいたんです。ぼくはその時なぜか、少しだけ気持ちが落ち着くのを感じました。原因はわからなくても、心がそういう反応を示したということが重要なんです。ぼくが仕事をする上で感じるのは、ほとんど自明の方向性があっても、周囲はそれを受け止められないということ。それはなぜかといえば、彼らも彼らで、自身を説得するための理屈が必要だからですね。それが見つかるまでは、ぼくらはバラバラのままです。その新しい階段には、みんなを説得する可能性を感じたんだろうと思いますよ。つまり、スーツ姿で土手を登るのはみっともないから、ぼくくらいしかやらないとしても、階段なら一緒に上ることができます。心はそこに反応を示したんだろうと。
Nさん:
それはタロットカードみたいに聞こえますね。
KUPU:
極めて個人的なことなので、基本的に当人にしかわからないと思います。
易占いの結果をNさんの心がどう受け止めたか、それが観察できればいいんですが。
Nさん:
うーん。しかし、これはやはり思考停止なんですかね。考える余地を自ら手放すような。
KUPU:
英語のサジェスチョンという表現が一番しっくりきます。暗示、提案といった意味。新しい思考を始める切っ掛けにもなるし、選択肢を絞ったり、終わりにすることもあります。目の前の現実なりテーマについて、自分は実際どう思ってるの?というヒントにはなるんじゃないかと。
Nさん:
なるほど、ただですね、私は現実を前にしてどうするか以前に、自分が何をしたいのかわからないわけで。KUPUさんは、楽しいということがわからないとよく言いますけど、私の場合は、何かに熱中しても、それが本当の自分なのかわからないんですよ。何かに操られているだけじゃないかと思うんですよ。本能とか、そこら辺に。
KUPU:
それは確かに、わからないかもしれないですね。聞いた感じ、易占いでは相性がよくないようにも思います。たぶん命術の分野なので、占星術とか四柱推命の方が使いやすいですね。
西洋占星術なら多少わかるのでお話しします。生まれたときの天体の配置から、自分を理解する方法です。切り口はいくつかありますが、Nさんが言っているのはたぶん、心の奥底にある本当の自分のようなものでしょう。本心を理解するときは、その人が生まれたときの月の位置が重要とされています。月が表すのは自分の内面といわれていますが、それはつまるところ、自分が目にする無垢な世界と重なります。自分にとってありのままに見える世界の、その見え方を通して、内面を再発見できるんです。ただ、現実はそれを裏切ったり、傷つけたりしますからね、大人は傷つく自分を否定したいから、認識もしにくい、そういう背景で見ていきます。
例えば、ぼくが生まれたときの月は、かに座の3度という場所にあって、この度数のシンボルは、毛皮を着た男と鹿、なんだそうです。男の方が鹿を導いているとか、逆に導かれているとかで、ぼくとしては、人に近しい動物にヒントがあると思いますね。例えば、ネコはぼくにポジティブな感情を教えてくれました。それは弱いものの感情なんでしょうが、人生を通じて信ずるに足ることのようにも思えます。
Nさん:
わたしの場合はどうですかね。
KUPU:
Nさんは出生時間がわからないので、月の位置はよくわからないんですよ。次点で、好みを表す金星を見てみると、みずがめ座にあるので、Nさんの旅行好きな一面に着目してみましょう。旅行でも、みんなが行くような定番の場所じゃなくて、自分で決めて気ままに動ける方がいいみたいですね。独創性を発揮したり、自由を謳歌できる環境を好みます。金星の近くに太陽もあるので、自己認識もしやすいかもしれません。太陽は自他の視界に映る自分なので、月よりは理解しやすいです。月は視界そのものなので、どこにでもあるけど、対象物としてはどこにも見えない。
Nさんが特に自由を愛する人物ということなら、仕事の自由についてぼくと感想がちがうのも、もっともなことかもしれません。
Nさん:
以前、南米の山奥で、交通の足を失ったことがあったんです。そもそも日本のように時間がしっかりしていないから、遅れてきた電車に乗って、目的地で降ろされた後、乗り継ぐはずの電車がもうなかった。どうすればいいかわからなかったんですが、なぜか、なんとかなる気がして。あのときは、あまりの感動で気持ちの高ぶりが抑えられませんでしたよ。
KUPU:
ぼくにはちょっと、理解しにくいんですが。ただ、個人の体験にとどめるのはもったいないかもしれないですね。小説にしてネットに載せてみたらどうでしょう。
Nさん:
問題は、記憶力に自信がないことです。憶えていたら、書いてみたいものです。
Nさん:
日常の私は、知らず知らずのうちに、思考に振り回されている気がします。考えていると、果たしてどこまでが本心で、どこからがただの理屈なのかわからなくなってくる。自分の意思はただの遠因であって、あとは流されるままに考え、いや、考えてるふりをしているだけですね。それで、穴だらけの思考を空転させている感じがします。
KUPU:
あまりに抽象的なことは、考えるのが難しいですね。他人に伝わらないのが普通なので、ボタンを掛け違っても気づきにくいです。
Nさん:
自分で考えた結果として何かを決めている、というのも思い込みなんじゃないかと。職場の人とか、自分の本能とかに、操られているだけじゃないか。目の前にあるものも、単に脳が見せる幻想であって、要はそのように見せられているだけじゃないか、と疑ってみたりします。
KUPU:
目の前にあるものは、とりあえず疑わなくていいんじゃないですかね。理性とか本能とかが混ざり合った結果として、何らかの見え方があって、それがNさんにとっての現実なんだと思うんですよ。ここにあるテーブルクロスも、白や紫の色の塊なんですが、それが花柄として見えるわけですよね。こういうことをまず受け止めないと、直観は働かない。思考だけで向き合うなら、それはもうガチガチでやらないといけなくて、そうなると、アカデミックなものを目指すことになると思うんです。そういう基準なら、ぼくらの思考は穴だらけですよ。
経験については、西田幾多郎の『善の研究』に、似たようなことが書いてあったと思います。青空文庫で見てみましょう。
「また一幅の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺として霊気人を襲う者あるを見る、而もその中の一物一景についてその然る所以の者を見出さんとしても到底これを求むることはできない。」
自分が見ているものについて、見え方の原理はわからないはずなんですよ。それでも、結果的に見えてしまったものが、自分にとっての第一の経験になる。思考にしても、その経験が出発点になるんじゃないかと。
Nさん:
それは面白いですね。
自分が見ているものの見え方か・・・。
以上、閉店時間につき解散。