仕事帰りの飲食店にて、変人同士の雑談です。

 

登場人物

Nさん:事務職。エニアグラムタイプ9(平和主義者)

KUPU:事務職。エニアグラムタイプ5w4(芸術家みたいな研究家)

 

自由のある仕事、ない仕事

KUPU:

学生時代に、テストの後の解放感ってあったじゃないですか。あれ、ぼくにもあったんですよ。だんだん薄れていって、中学3年生くらいでほとんど消えちゃいましたけど。それからは、いわばテスト前と同じ状態が、日常的に続いてるんですよね。

それで思うんですが、ぼくはずっと何かに縛られてるのかなと。もちろん自由はあるんですが、嫌な勉強をするか、勉強をしないで悪い点をとるか、どちらかを選ぶ自由みたいな。

これは、社会人になっても同じ構図なんです。成長は、絶えず求められるんです。それで、やったらやったで、なんとか期待に応えられることがあるから、いつまでも自分を諦められなくて。これは、今の仕事(ジェネラリスト的な事務職)を続けている以上は、変わらない気がしますね。だんだん割に合わなくなってきた気がしています。

 

 

Nさん:

KUPUさんとは立場が違いますけど、自由はないですね。こう、目の前に仕事があったとして、自分がやろうとしているのか、他人の意思が作用した結果として、自分がやろうとしているだけなのか、わからなくなります。

 

KUPU:

目の前の仕事をやろうとしてるなら、とりあえず自分の意思だと思っていいんじゃないですか。いかにもやらされてる感がある仕事と、そうじゃない仕事ってあるじゃないですか。毒を食らわば皿まで、みたいな気持ちで仕事をやりきることはありますよね。Nさんの分析だと、そこら辺の区別はしてないようですが。

 

Nさん:

私の場合は、何をするにも恐怖があって。ただ、最近はなんだか開き直って、何をしてもどうせ大したことは起きないだろうと、好き勝手にやることも出てきました。その結果、自分の怒りをお客さんにぶつけたりして。クレーマーとかに。それがいいことなのかどうか、わかりませんが。

 

 

KUPU:

感情的には、どうでしょうね。怒りには恐怖が混ざっていると聞いたことがありますけど、何もできないよりは、まだ薄まっているのかな。職場的には、役割分担としてありかどうか。

 

頭で理解しない選択

Nさん:

ヴィパッサナー瞑想とか、色々調べましたけど、結局やってないですね。とある上座部仏教では、瞑想をするときは、自分が存在しないことを前提にしてかかれ、というようなことがいわれています。

 

KUPU:

頭で理解してから、次に体感する順番なんですかね。先に頭で理解してしまって大丈夫なのかな。

 

Nさん:

まあ、そもそも私の頭で理解できるのかどうか。つくづく私はゲス野郎で、凡夫なんですよ。私には、浄土真宗とか、日本の大乗仏教の方が合ってるかもしれないですね。親鸞聖人曰く、悟りを開こうなんて思わなくていいそうなんです。やさしい人だったんだと思います。悟りを開かずに死んでも、仏様が即座に助けてくれるのだから、何も心配することはないんだと。

 

 

KUPU:

その言葉がやさしいというのは、わかります。宗教家のやさしさというのは、世間一般のやさしさとか、親切とかいうのとは、また違いますよね。世間から見て、あまりやさしいようには映らなくて。世間でいうやさしさは、気分転換とか、その場しのぎがメインだと思うんですよ。それもやさしさには変わりないでしょうけど、何を見ているのか、ぼくにはよくわからないことが多いです。泣いてる人がいたって、それはその人ただ一人で向き合うべきことかもしれない。一人でというのは言い過ぎかもしれませんが、本当に意味のあることなんてできないんじゃないかな。そこら辺の価値観は、ぼくは世間からずれていると思います。

あと、何かできるとしても、他人が特定の救い手となって現れるのはおかしいですよ。若い女性相手だと、特にそこら辺は配慮しないといけない。

 

Nさん:

助けようとしても逃げられるので、それは大丈夫です。(笑)

 

占いの結果をどう捉えるか

Nさん:

易占いを始めました。

筮竹(ぜいちく)という道具を持ち歩いて、ところどころで占っています。当然、具体的な解決策が提示されるわけではないんですが。結果を見ていると、極端を避けよ、というメッセージが多いですね。私がイケイケの気分のときは、「もっと気をつけよ」と出てくるし、落ち込んでいるときは「いずれチャンスがくる」みたいな結果を出してくる。中庸に努めよ、ということなんですかね。陰陽どちらか一方だけが存在するわけではない、という。

 

 

KUPU:

ぼくは易占いのことは全然わからないんですが、占いを普遍的な倫理や道徳として読み込んでも、本筋から外れるように思います。それでわかるのは、その占い特有の考え方、癖の部分になるんだろうなと。もちろん、中庸について考えるのは大切かもしれませんが。普遍性よりも、その人にとってより意味のあるものを見つけさせるのが本来だろうなと。

ぼくの感覚はちょっと変なので、日常的な風景が、そのまま占いの結果みたいになることがあります。例えば、いつも通る道の横に、草の生えた、登りの斜面があるんですが、ある日、その斜面に階段ができていたのに気づいたんです。ぼくはその時なぜか、少しだけ気持ちが落ち着くのを感じました。原因はわからなくても、心がそういう反応を示したということが重要なんです。ぼくが仕事をする上で感じるのは、ほとんど自明の方向性があっても、周囲はそれを受け止められないということ。それはなぜかといえば、彼らも彼らで、自身を説得するための理屈が必要だからですね。それが見つかるまでは、ぼくらはバラバラのままです。その新しい階段には、みんなを説得する可能性を感じたんだろうと思いますよ。つまり、スーツ姿で土手を登るのはみっともないから、ぼくくらいしかやらないとしても、階段なら一緒に上ることができます。心はそこに反応を示したんだろうと。

 

 

Nさん:

それはタロットカードみたいに聞こえますね。

 

KUPU:

極めて個人的なことなので、基本的に当人にしかわからないと思います。

易占いの結果をNさんの心がどう受け止めたか、それが観察できればいいんですが。

 

Nさん:

うーん。しかし、これはやはり思考停止なんですかね。考える余地を自ら手放すような。

 

KUPU:

英語のサジェスチョンという表現が一番しっくりきます。暗示、提案といった意味。新しい思考を始める切っ掛けにもなるし、選択肢を絞ったり、終わりにすることもあります。目の前の現実なりテーマについて、自分は実際どう思ってるの?というヒントにはなるんじゃないかと。

 

Nさん:

なるほど、ただですね、私は現実を前にしてどうするか以前に、自分が何をしたいのかわからないわけで。KUPUさんは、楽しいということがわからないとよく言いますけど、私の場合は、何かに熱中しても、それが本当の自分なのかわからないんですよ。何かに操られているだけじゃないかと思うんですよ。本能とか、そこら辺に。

 

KUPU:

それは確かに、わからないかもしれないですね。聞いた感じ、易占いでは相性がよくないようにも思います。たぶん命術の分野なので、占星術とか四柱推命の方が使いやすいですね。

西洋占星術なら多少わかるのでお話しします。生まれたときの天体の配置から、自分を理解する方法です。切り口はいくつかありますが、Nさんが言っているのはたぶん、心の奥底にある本当の自分のようなものでしょう。本心を理解するときは、その人が生まれたときの月の位置が重要とされています。月が表すのは自分の内面といわれていますが、それはつまるところ、自分が目にする無垢な世界と重なります。自分にとってありのままに見える世界の、その見え方を通して、内面を再発見できるんです。ただ、現実はそれを裏切ったり、傷つけたりしますからね、大人は傷つく自分を否定したいから、認識もしにくい、そういう背景で見ていきます。

例えば、ぼくが生まれたときの月は、かに座の3度という場所にあって、この度数のシンボルは、毛皮を着た男と鹿、なんだそうです。男の方が鹿を導いているとか、逆に導かれているとかで、ぼくとしては、人に近しい動物にヒントがあると思いますね。例えば、ネコはぼくにポジティブな感情を教えてくれました。それは弱いものの感情なんでしょうが、人生を通じて信ずるに足ることのようにも思えます。

 

 

Nさん:

わたしの場合はどうですかね。

 

KUPU:

Nさんは出生時間がわからないので、月の位置はよくわからないんですよ。次点で、好みを表す金星を見てみると、みずがめ座にあるので、Nさんの旅行好きな一面に着目してみましょう。旅行でも、みんなが行くような定番の場所じゃなくて、自分で決めて気ままに動ける方がいいみたいですね。独創性を発揮したり、自由を謳歌できる環境を好みます。金星の近くに太陽もあるので、自己認識もしやすいかもしれません。太陽は自他の視界に映る自分なので、月よりは理解しやすいです。月は視界そのものなので、どこにでもあるけど、対象物としてはどこにも見えない。

Nさんが特に自由を愛する人物ということなら、仕事の自由についてぼくと感想がちがうのも、もっともなことかもしれません。

 

Nさん:

以前、南米の山奥で、交通の足を失ったことがあったんです。そもそも日本のように時間がしっかりしていないから、遅れてきた電車に乗って、目的地で降ろされた後、乗り継ぐはずの電車がもうなかった。どうすればいいかわからなかったんですが、なぜか、なんとかなる気がして。あのときは、あまりの感動で気持ちの高ぶりが抑えられませんでしたよ。

 

 

KUPU:

ぼくにはちょっと、理解しにくいんですが。ただ、個人の体験にとどめるのはもったいないかもしれないですね。小説にしてネットに載せてみたらどうでしょう。

 

Nさん:

問題は、記憶力に自信がないことです。憶えていたら、書いてみたいものです。

 

思考と直観

Nさん:

日常の私は、知らず知らずのうちに、思考に振り回されている気がします。考えていると、果たしてどこまでが本心で、どこからがただの理屈なのかわからなくなってくる。自分の意思はただの遠因であって、あとは流されるままに考え、いや、考えてるふりをしているだけですね。それで、穴だらけの思考を空転させている感じがします。

 

KUPU:

あまりに抽象的なことは、考えるのが難しいですね。他人に伝わらないのが普通なので、ボタンを掛け違っても気づきにくいです。

 

Nさん:

自分で考えた結果として何かを決めている、というのも思い込みなんじゃないかと。職場の人とか、自分の本能とかに、操られているだけじゃないか。目の前にあるものも、単に脳が見せる幻想であって、要はそのように見せられているだけじゃないか、と疑ってみたりします。

 

 

KUPU:

目の前にあるものは、とりあえず疑わなくていいんじゃないですかね。理性とか本能とかが混ざり合った結果として、何らかの見え方があって、それがNさんにとっての現実なんだと思うんですよ。ここにあるテーブルクロスも、白や紫の色の塊なんですが、それが花柄として見えるわけですよね。こういうことをまず受け止めないと、直観は働かない。思考だけで向き合うなら、それはもうガチガチでやらないといけなくて、そうなると、アカデミックなものを目指すことになると思うんです。そういう基準なら、ぼくらの思考は穴だらけですよ。

経験については、西田幾多郎の『善の研究』に、似たようなことが書いてあったと思います。青空文庫で見てみましょう。

「また一幅の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺しんいんひょうびょうとして霊気人を襲う者あるを見る、而もその中の一物一景についてその然る所以ゆえんの者を見出さんとしても到底これを求むることはできない。」

自分が見ているものについて、見え方の原理はわからないはずなんですよ。それでも、結果的に見えてしまったものが、自分にとっての第一の経験になる。思考にしても、その経験が出発点になるんじゃないかと。

 

 

Nさん:

それは面白いですね。

自分が見ているものの見え方か・・・。

 

以上、閉店時間につき解散。

注意:このブログは、投資系のブログではありません。資産運用(株式投資など)について触れている箇所がありますが、必ずしも投資を推奨するものではありません。

 

今回は、ここ数年の趣味の一つである「資産運用」の考え方を切り口に、思ったことを書いてみます。

 

  生き方の長期と短期

資産運用には長期と短期の視点がありますが、資産を増やすために費やす期間の違いから、それぞれが導く結論はまったく異なるものとなります。

長期投資は、数十年で資産を拡大することを目的としています。

短期投資は、数日や数か月で資産を拡大することを目的としています。

そのために、例えば「1か月後に大きく上がるであろう株」は短期でとても魅力的ですが、長期では関心の対象となりません。

1か月後に大きく上がっても、その後どうなるかはわからないからです。

むしろ、価格変動の大きい資産への投資は控えめにすべきだというセオリーすらあります。

 

このような違いと同様に、生き方にも、長期と短期、それぞれの文脈があるのではないかと思います。

 

長期的視点の関心は、状況が移り変わったとしてもなるべく末永く通用しうるものを見つけて、選択することです。

自分や物事の「本質」に関心をもちやすいスタンスといえます。

一方、短期的視点の関心は、今ある目的をいかに達成するかということにあります。

達成によって満足を得られる限りは、「本質」は蛇足となります。

 

 家庭と仕事

例えば、近所のお年寄りが「家族と過ごす時間の大切さ」を説いていたとします。

一方、職場では「今回のプロジェクトがいかに大切か」が強調されているとします。

前者は長期、後者は短期の文脈として捉えられますが、この2つを調和するのは、きっと骨が折れることでしょう。

(ワークライフバランスというテーマに丸投げするのなら、ひとまずは簡単な話ですが。)

 

家族と過ごす時間を重視する視点は、今日明日の成功よりも、もっと長く(例えば死の間際まで)心を満たしてくれるものは何なのか、といった関心をもっています。今ある仕事に打ち込んだとしても、それは人生における一時的な価値しか生み出さないのだから、ほどほどにしておくべきだと考えるかもしれません。

一方、仕事に打ち込むことを重視する視点は、今の目標にとってよりよい結果をもたらすことに関心を向けます。「死の間際まで心を満たしてくれるもの」には関心がありません。そのようなものへの言及はむしろ、無能さや、熱意の欠如のように写るかもしれません。

 

この2つを、リアルな感覚として調和させるのは、とても難しいのではないかということです。

 

 パラダイスと日常の一致

身近な例としては家庭と仕事があげられますが、実は、ぼくの心を占めているのは、もっと抽象的なテーマです。

例えば、昔近所に住んでいた牧師さんは

「イエス様を信じて日々を生きられる、この世こそがパラダイスであります。」

と重ね重ね言っていました。

この言葉は、全体としては長期の視点から表現されているのですが、「日々を生きる」という言葉で、あえて短期の視点を織り込んでいます。

「死後にパラダイスに行けるように生きる」のではなく、今を生きる日々がすなわちパラダイスであるということです。

その真意はぼくにはよくわかりませんが、おそらく、人間が得られるもっとも安定した幸福は、このような形で表現されるものなのだろうと思います。

 

とはいえ、ぼくら一般人は、そのような答えを安易に求めるべきではありません。

すべてがこのような形で表現されなければならないわけではありません。

 

むしろ、長期と短期の文脈を、無理に一致させようとすることに警戒すべきです。

 

もとはといえば、2つはどちらも社会から要請されたものであったとも捉えられます。

ぼくが子どもの頃は、親や先生たちから「後先を考えて行動しましょう」と教わったので、短期的な満足はあまりよくないものと思い、しばしば軽蔑の対象となりました。

ある程度大きくなってくると、今度は「今を精いっぱい生きましょう」と教わるようになりました。

そうなると、「後先を考える」のも、必ずしもよいことではなくなってきます。

 

たいていの子どもは、この矛盾を解決できません。

どちらかが優位になったとき、短絡的にもう片方を全否定してしまいます。

成長して考えることに慣れてくると、今度は、どちらの視点からも正当化できるような答えが存在することを前提して、それがなぜ見つからないかに悩むようになります。

見つからないことを隠すために、強引に断言して見せることもあります。

 

大人になるにつれ、ぼくらはこの2つを使い分けて生きていくことになります。

ただ、ぼくらがいつもそれに成功するわけではありませんし、さらにいえば、使い分けを意識しないことも多いでしょう。

 

 一致ではなく、混同している場合

例えば、職場で「君は熱意が足りないな。今のままでこの先どうするの。」といった発言がされたときは、文字通りの意味より、発言者の意図に注目した方がうまく理解することができます。

この言葉が意味しているのは、発言者から見て相手の取り組みは不十分であり、そのような姿勢は今後よくない結果を引き起こすだろう、ということです。

熱意が足りないという指摘は、現状に関するもので、短期の視点です。

一方、「この先」についての言及は長期の視点ですが、熱意のない人が昔から相当数いることを考えると、相手を攻め過ぎた考え方ではないかとも思われます。

長期の視点としては思慮が浅く、短期の視点にとってつけただけ、という感があります。

ちなみに、職場におけるぼく自身も、「最近の若者」には熱意が足りないと思うことがあるし、当事者意識が必要な水準を大きく下回っているように感じることがあります。

なので、この類の不満はけっこう理解できるつもりです。

ただ、年輩の人でもそうやって生き抜いてきた人がいるのも事実だし、さらに時代の流れのようなものも考えると、長期の視点から彼らを非難するのは難しいかなと考えています。

(とはいえ、そういう人たちが増えた組織がどんなパフォーマンスを発揮するのか、ぼくにはまだわかりませんが。)

 

また別の例としては、職場や学校でつらいことがあると、生きることそのものがつらくなってしまう、といったことがあります。

もっとも、これは人間として自然なことでしょう。周りで起きていることがこの世界のすべてであり、明日は今日と同じ未来が待っているように思えるからです。

言葉にすれば、「ぼくは生きるのがつらい」となります。

しかし、これだけでは長期の視点としてあまり意味はありません。

「生きることのつらさ」は、現にあるつらさとあわせて、心や社会の構造的な問題に言及したときに、長期の視点として意味が生まれてきます。

そしてそのときは、絶望することは容易に許してもらえないことでしょう。

解決方法が無数に提案できてしまうからです。

だから短期的には、ひたすら「つらい」と愚痴っている方が(比較的)心が休まる、といったこともあるわけです。

 

このように、人間は本来の意図とは別のことを言ってしまっていることが多々あるようです。

それでも、それがその人の主観である以上は、言葉には何らかの意味があります。

そのような言葉は、そのままの形で理解されてこそ、相手を知ることにつながるのであって、安易に否定するべきものではありません。

ただ、少し問題を整理してみようというときは、長期と短期で視点をわけることが、よいヒントになるのではないかと思います。

 

以降は、参考までに、この考え方のヒントになった投資のお話をします。

 

  資産運用の長期と短期

株式投資を中心とした資産運用の、長期と短期の考え方についてお話しします。

上で書いている、長期と短期の意見を聞き分けたり、またはあえて混同して理解する試みは、資産運用から生まれたアイデアです。

ここではこの2つの違いが、なんとなく伝わればなと思います。

 

ここからしばらくは、投資の話に徹することにします。

読むのが面倒な場合は、下線部分だけでも充分だけかもしれません

 

 長期投資

まずは、長期の資産運用についてです。

 

(引用元)

 

 

このグラフは、MSCI ACWIという株価指数の推移です。

 

株価指数とは、一定の条件でグループ化した株価全体の値動きを示したものです。

例えば、日経平均も株価指数の一つです。

日経平均は、日本の代表的な企業の株価が全体としてどれだけ変動したかが一目でわかるものです。

上のMSCI ACWIは、それの全世界版のイメージとなります。

(ちなみに、通貨は米ドルベース、配当金は再投資した場合です。)

 

このグラフを見ると、1988年から2022年7月19日現在までのリターン(資産価値の増加)は約13倍であることがわかります。

もちろん、株は上がったり下がったりするものなので、途中で大きく下落する局面があります。

2000年のインターネットバブル崩壊、2007年のリーマンショック、2020年のコロナショックです。

そして、2022年7月19日現在では、最高値から約20%の下落となっています。

それでも、長期で見れば何倍にも資産価値が増えてきたのが歴史的事実であり、これが長期投資の拠り所となります。

もっと長い期間を見たい場合は、アメリカの株価指数であるS&P500が参考になるでしょう。こちらは1801年から2017年の約200年間で、なんと約2,800万倍という結果となっています。

 

現在は、株価指数への投資はとても簡単で、アマゾンで買い物をするのと労力はほとんど変わりません。投資信託という金融商品を買うことになるのですが、これはまさに「誰にでもできること」です。

買って放っておくだけでお金が増えるので、まさに夢のような話ですね。

ドラえもんの秘密道具で「バイバイン」という薬があります。これを垂らすと、お菓子の栗まんじゅうが5分間で倍になります。つまり、食べるのを5分待てるなら1個が2個になります。10分待てるなら2個が4個に、15分待てるなら4個が8個になるという話なのですが、これと同じように、お金は使わずに運用することで、どんどん増えていくという視点です。

 

では、なぜこのような投資が広く普及していないのでしょうか

実際、長期投資で資産を増やしたと言っている人は、ほとんど見かけません。

 

その要因として、次の2つがあげられると思います。

 ①株価は短期的には下落する可能性があること。

 ②実績は過去のものであり、今後は価値が下がり続ける可能性もあること。

つまり、未来に対しては確証がないために、不安やストレスが付きまとうということです。

これが、効果が約束された「バイバイン」との違いです。

 

実際に投資を始めてみるとわかりますが、自分は何か間違ったことをしているのではないかと思うことがあります

株価指数はいつでも簡単に買えるし、簡単に売ることができます。

だからこそ、いつでも考え直す機会ができてしまいます。

それは、人によっては大きなストレスになります

多くの人が、何十年もメンタルがもたず、暴落等のショックを契機に退場してしまうようです。

ぼくの場合でも、収入のわりには運用額が大きいので、一日の値動きが月給の数倍に及ぶことがあります。

「こりゃまともな神経じゃやってられないな」なんて思ったりもします。

ぼくは金銭に対する鈍感力を発揮しやすいので、ストレスは比較的小さいはずなのですが。

でも、長期投資というのはそういうものです。

 

このストレスを緩和する方策は、様々用意されています

例えば、伝統的な資産構成として、株式への投資は資産全体の60%を目安にしよう、といったものがあります。

株式を60%にしておけば、下落時のダメージも60%で済むので、「全力で投資してるよりはまだマシだ」と思えるわけですね。

さらに、伝統的な資産構成では、残りの40%は、国債(米国債)を保有することとしています。

株価が下がるときは、より安全な資産である国債に人気が集まり、国債の価格が上がる傾向があるからです。

これによって、資産全体の下落幅はより抑えられるということです。

もっとも、2022年は国債も株式と一緒に値下がりを起こしてきましたので、これが裏目に出るケースもないわけではありません。

 

他にも、インフレ対策として原油などの商品に一定割合を投資する方法や、値動きが比較的安定している株を優先して買う方法などがあります。

しかし総じていって、投資にかかるストレスを、投資が広く普及するまでに抑えられる手法は、まだ見つかってないといえるでしょう

 

 短期投資

次に、短期の資産運用についてお話します。

 

こちらは、長期投資とちがって、感覚的に理解がしやすいものです。

基本的には、上がりそうな株を買って、下がりそうな株を売る、ということなります。

 

ただし、短期投資はどちらかといえば、長期投資を補完する役割を担います。

 

長期投資には弱点があります。

長期投資を続けている場合、局面によっては「株はしばらく下がるだろうな」と思うものの、基本的に売却はしません。むしろ、いつもどおり毎月少しずつ買い増していきます。

これは、売買のタイミングは、専門の投資家でもそうそう当てられないとされているからです。

売ったタイミングで上昇に転ずることもありますし、その後仕方なく買い直しても、今度はもっと下がる、なんてことがあります。

 

それでも、「下がるだろうな」と思う局面で、本当に下がり続ける株をただ見ているのは不合理に感じるものでしょう。

また、長期投資は続けるが、短期投資の方で少し売っておくという、保険のような運用方法(いわゆるリスクヘッジ)があります。

(信用取引やCFDを使えば、「高く売ってから安く買い戻す」といった売買が可能です。)

 

そこで短期投資では、その場その場の情勢をつかんで、短期の値動きを狙います。

そのため、短期投資に関係する情報量は、長期よりもずっと多くなります

 

長期投資であれば、利益確定は数十年後、あるいは数百年後かもしれません。

そんな先のことは誰にもわからないので、株価指数などで資産を分散して、歴史どおりの長期的な右肩上がりに期待するしかありません。

そうである以上、日々の値動きは、投資判断を左右するものではありません

日々の値動から得るべき教訓は、それが自身にどれだけストレスを与えたかということです。

短期投資は今起こっていることと「その次」に着目するもので、それが1年後であれ、1か月後であれ、1分後であれ、その間の値動きに向き合います。

状況は次々に変わっていくので、投資判断もそれに応じて変わっていきます

 

 最後に、分散投資と生き方について

今回の記事では、生き方と資産運用の、長期と短期の視点について書いてみました。

これに近いもう一つのテーマとして、「分散投資」についても触れておきたいと思います

 

分散投資は、投資先を複数にわけるということです。

例えば、ぼくの長期の資産構成では、株式50%、国債5%、商品(金や原油)10%、現金35%というように、資産の種類を分散しています。

また、株は株でも、特定の会社の株はほとんど買わず、国や地域別の上場投資信託(ETF)を使って全世界に分散しています。

短期では、一週間や一か月の値動きを狙って、全資産のほんの数パーセント程度を割り振っています。

あえてこのようなことをするのは、リターンとリスクを調整するためです。

主観的には、物欲と安心感の調整といえます。

 

このような分散の仕方に、決まった正解はないといわれています。

自分の好みや、ストレスの感じ方を知りながら、選んでいくものです。

 

では、生き方において、分散投資は有効なのでしょうか

特に、若いときは、短期的な一点集中が選ばれがちです。

それもあながち間違いではありません。

働くのが自分自身である以上は、集中しなければ成果が出ないということもあるでしょう。

それでも、仕事に限らず、趣味や人付き合いにおいても、分散投資の発想は十分有効ではないかとぼくは思っています。

自分のことがよくわからないというのは、どことなく嘘のようでもあります。

なぜなら、誰しも自分についての情報量は十分もっているように思われるからです。

それでも人は、かなりの程度で、自分がどんな人間なのかを知りたがっているようです。

 

今回は、そういう動機を踏まえて、種々の性格分析について書いてみます。

 

遺伝子検査

遺伝子は体の設計図だといわれています。

血縁がある者同士は、顔や体つきが似ていたり、

細かいところでは、歯並びがそっくりという場合もあるようです。

これは、遺伝情報の多くを共有しているからだといえるわけですが、

実は体だけでなく、知性や心も同様に、ある程度似てくるのではないかとも考えられます。

 

そして、それは当然、血縁がある者同士に限定される話ではありません。

部分的に同じ遺伝情報をもったまったくの他人が、

部分的に自分と似ている、ということも想定できるからです。

 

では、どうすればそれを調べることができるのでしょうか。

遺伝情報は、DNAの塩基配列という形で物質的に解析できるようになっています。

問題は、この物質と人の特性・傾向を、どう結びつけられるかということです。

 

これはまだまだ研究途中の分野かと思いますが、

その期待に応えるのが、商品として販売されている遺伝子検査キットで、

現在は、誰でも遺伝子の解析ができるようになっています。

 

具体的には、性格分析に力を入れた商品として、GeneLife Myself2.0があります。

今回はその解析結果を切り口に、性格分析について話を広げていこうと思います。

 

下の画像は、GeneLife Myself2.0を使った、ぼくの性格分析の結果です。

細かい検査項目はたくさんあるのですが、それらをもとに総括が表示されます。

 

 

レーダーチャートになっていて、水色が、遺伝子検査の結果です。

赤色が、通常の設問形式の性格分析で、現状の自己認識のような結果になっています。

 

水色と赤色が大きく違う部分は、遺伝的な特性と現状に乖離がある部分です。

 

ぼくの場合は、遺伝的には「社会性」がかなり高いのですが、現状はかなり低くなっています。

社会性とは、「他人とのコミュニケーションや人の集まる場に参加するなど、対人関係の積極性」とのことで、要するにパリピの特性といったところでしょう。

この結果が正しいと仮定すると、

ぼくが他人との交流を避けるのは不自然ということになります。

 

遺伝子検査とビッグファイブ

GeneLife Myself2.0では、性格を5つの要素に分けて説明しています。

この5つの区分は、この商品独特の分析方法のようですが、

ビッグファイブという性格診断の理論をもとに作ったものかと思われますので、

次はこれについて少しお話しします。

 

ビッグファイブで用いる性格特性は、次の5つです。

・開放性 Openness ←上のチャートにおける「開放性・文化性」

・誠実性 Conscientiousness ←「勤勉性」

・外向性 Extraversion ←「社会性」

・協調性 Agreeableness ←「協調性」

・神経症傾向 Neuroticism ←「慎重性・繊細性」

 

わかりにくい項目を少し補足します。

 

「開放性 Openness」は、新しい経験や知識に対して心が開かれていることを指します。

開放性が低いと、伝統的な文化・習慣を大切にできる一方、

広く認められた事実以外は「なんかよくわからない」と拒絶する傾向があります。

「外向性 Extraversion」とは別の特性で、人と交流したがるかどうかは別問題です。

MBTIでいうと、外向的直観に近い概念であると思われます。

 

「誠実性 Conscientiousness」も、日本語では意味が誤解されやすいかもしれません。

これは、素直さとか心の清らかさを指しているのではなく、

「仕事や目標に向かってしっかり取り組む」ような誠実さを指しています。

GeneLife Myself2.0では、「勤勉性」という表現になっています。

 

項目の補足は以上です。

 

それぞれの特性は、高ければよい、低ければ悪いというものではなく、

場面や環境によって一長一短とされています。

 

ビッグファイブとMBTI

ビッグファイブは、学術的にも価値がある理論だといわれています。

学術的に価値があるということは、客観的な観察対象と、理論的な整合性の両方を有しているということです。

心を扱う思想の多くは、大なり小なり理論的な整合性をもっていますが、

心そのものは目に見えないので、客観的な観察対象としてはなかなか設定しにくいものです。

ビッグファイブの場合は、性格を表す“言語”に着目することで、この課題をクリアしています。

 

一方、ぼくが一番頼りにしている理論はMBTI(INTJとかINFJとか)なのですが、

こちらは残念ながら、学術的な価値はないといわれています。

 

MBTIは、自己理解や他者理解を“手助け”することを目的としており、

その根底にある人間観察は、かなり直観的なものです。

つまり、見る人の熟練度やセンス、あるいは好みによって事実認識が異なり、

議論の土台を共有しがたい事態が懸念されます。

加えていえば、タイプ分類を確定するための明確な基準は設けられておらず、

最終的には、タイプ分類は自己認識によるとされています。

 

とある専門家の言葉によると、

「ほとんどの性格心理学者は、MBTIを、手の込んだ中国のフォーチュン・クッキー以上のものではないと考えている」とのことです。

(フォーチュン・クッキーというのは、おみじくの入ったお菓子のことです。)

 

フォーチュン・クッキー、つまりおみくじは、占いの一種です。

さすがに占いとは区別できるとぼくは思いますので、少し補足をします。

 

占いは、特定の偶然を必然に置き換える特徴があります。

例えば、おみくじであれば、そのくじを引いたことは単なる偶然。

でも、その偶然がなぜか、今年の運勢を示すことになるのです。

これは他の占いも同様で、占星術であれば生まれた場所と時間が、

手相であれば手のしわの形が、ここでいう「偶然」と「必然」にあたります。

MBTIには、こういった特徴はありません。

 

しかし、この点を除けば、MBTIと占いは、かなり似ているように思えます。

それがなぜなのかは、最近の関心ごとの一つです。

 

ここで話をもどします。

ビッグファイブの5つの特性と、MBTIのタイプ分類は、

ある程度相関性があるといわれています。

ビッグファイブの側から見ると、

「MBTIは不完全だが、あながち的外れでもない」という認識になるようです。

 

相関性は次のとおりです。

 

・開放性 Openness ←高ければ直観(N)タイプ、低ければ感覚(S)タイプ

・誠実性 Conscientiousness ←判断(J)タイプ or 知覚(P)タイプ

・外向性 Extraversion ←外向(E)タイプ or 内向(I)タイプ

・協調性 Agreeableness ←感情(F)タイプ or 思考(T)タイプ

・神経症傾向 Neuroticism ←相関性ほぼなし

 

ちなみに、16Personalitiesというサイトの性格診断は、

ビッグファイブの診断結果を、上のようにMBTIに置き換えたものと思われます。

5つ目の「神経症傾向」は、MBTIには存在しないので、新たに「T(慎重型)」と「A(自己主張型)」の分類を設けているようです。

 

そして、この相関関係によって、

遺伝子検査の結果も、MBTIと繋げてみることができます。

ぼくの検査結果をあてはめると、

遺伝的には社会性が高いからEタイプ、現状は低いからIタイプ、といった具合です。

他の項目も同じように対応させていくと、遺伝的にはENFJ、現状はINFJということになります。

MBTIのタイプ分類に悩んでいる人は、

遺伝子検査をやってみるのも面白いかもしれませんね。

 

おまけ 遺伝子検査のその他の項目

最後に、

性格とはあまり関係がない、能力的な部分のお話で、面白かったところを紹介します。

 

・記憶力

ぼくの検査結果は、「やや低い傾向」。

(人口に占める割合は、低い傾向2.0%、やや低い傾向20.9%、標準77.1%)

これは思い当たる節があって、

ぼくは、細かい事実や数字をすぐに忘れる傾向があります。

たまに記憶力がよいと思われることがありますが、

それは関心の偏りによって、変なことを憶えているからです。

 

・音程に関する能力

音程を聞き分け、正確に発音する能力です。

検査結果は、「高い傾向」。

(人口に占める割合は、標準70.1%、やや高い傾向27.1%、高い傾向2.8%

これは面白い結果で、ぼくは現状、音楽全般に興味がなく、当然能力も低いです。

なんとか思い当たるのは、小さいころはネコやカラスの鳴き真似が得意だったことです。

これはネコやカラスにも通じるレベルで、仲間だと思って近づいてくることもあったくらいです。

うちで預かった野良子猫が、人間を怖がって隠れてしまったとき、鳴き真似をしたらデレデレになって出てきてくれたのはいい思い出です。

 

・肥満タイプ

どの栄養素で太りやすいタイプなのかがわかります。

糖質の代謝が苦手で太りやすい人、脂質の代謝が苦手で太りやすい人、たんぱく質をすぐに消費してしまって筋肉がつきにくい人、に該当するかがわかります。

ぼくの場合は、これらのうち脂質の代謝だけが苦手なようです。

食生活で気をつけるポイントがわかるのはいいですね。

ただ、人によっては3つとも該当するでしょうから、その場合は、知らない方がよかった思われることも無きにしもあらず。

 

(なお、肥満タイプの検査結果は「GeneLife Genesis」にある項目です。「GeneLife Myself」にはない項目なので、ご注意ください。)