この前、仕事で少し重要な会議をしなければならなくなりました。
偉い人たちを呼んで、事業の方向性について議論してもらうのですが、その中には、大学教授や研究職の人たちも含まれていました。
会議は議論をする場ですから、本来は好きなだけ話してくれればいいのですが、そこは仕事なので、あらかじめある程度の方向性が決まっていた方がいいというわけで、出席者のうちの何人かに、事前に根回しをしなければならなくなりました。
そこで気づいたことが、今回の投稿の切っ掛けです。
会議の根回しをするということは、会議の必要性を半ば否定するようなものであり、矛盾を孕むものです。誰に対しても同じようにできることではありません。
出席者たちの中で、特にやり難いと思ったのが、研究職の人たちです。
学術においては、言葉なり資料なり、みんなが見て確認できるものを使いながら、率直な意見を出し合うことが尊重されるので、根回しのようなものは、その本性から忌避されるものです。
ぼくらも、言葉や数字を使った説明はします。
ただ、議論が紛糾しても事業が進まないから、問題や疑問がある程度あったとしても、可能な限り「ご理解いただきたい」と思っている、ということです。
この違いを少し整理してみます。
まず、研究と仕事の共通点について。
研究者もぼくら(仕事をする人)も、言葉や数字を使います。
次に、違う点について。
ぼくら(仕事をする人)は、(実は)あらゆる批判に耐えるということを想定していません。もちろん、言われっぱなしでは困るから、形の上では批判に耐えられるように振る舞うのですが、本音は違います。議論から生まれるものの可能性を、あまり信じていません。
また、ぼくらの(仕事をする人)の選択は、真っ当な議論において正当化される必要がありません。議論においては、早々に常識や常套手段、社是といったドグマ(みんなが信じるべき思い込み)をもちだし、それらが鉄壁の守りをもつものと見なしています。
そんな風に整理したときに、最初に思いついたのはこのような関係性です。
図の右上に「仕事」が、左上に「研究」が入ることを想定しています。
縦軸にある民主主義、横軸にある保守、革新は、政治上の概念です。
下の神秘主義だけ毛色が違うのですが、これはぼくの基本的な理解として、知性のあり方を、民主主義と神秘主義の2つのグループに分けていることによるものです。ちょうど上でも触れたように、学術(現代の学術)においては、言葉や数字を使って誰でも議論に参加できること、つまり「民主主義」的であることが必要とされるのですが、少なくとも個人の中では、知性の源泉は神秘主義的なものではないかと考えています。
保守と革新について言うと、革新が物事をどんどんよくしていこうとする一方、保守は「人間の不完全性」を踏まえて対応する、ということが言われています。例えば、あらゆる人間の心が比較的短期間に成長できるとするなら、差別や偏見に繋がりかねない事柄は、即座に排除されるべきです。しかし実際は、人間の心は望むように成長するものではないし、既存の概念や区別に安易に手を加えようとすれば、めぐりめぐって大きな問題が生じかねません。メリットとデメリットを冷静に判断した上で、できる範囲で取り組んでいく、という現実的な姿勢が求められます。
こうした政治上の概念でもある程度は説明できるかもしれませんが、ぼくはこうした議論に加わりたいわけではないので、上述のような言葉を使うことは避けるべきかもしれません。
なので、もっと自分なりの表現を考えてみると、下の図のようになります。
この図の4つの領域にそれぞれ言葉を当てはめると、次のような配置になります。
なお、左下は「哲学」としていますが、これは一般的な意味での哲学より広い範囲を指しており、常識に対する漠然とした疑問や陰謀論、スピリチュアル、新興宗教といったものを含んでいます。
研究者とぼくら(仕事をする人)は、どちらも「みんなが信じられるもの」を求めるのですが、ぼくら(仕事をする人)の方は、より成果に着目しています。「みんなが信じられるもの」は、机上の議論よりも、実際に成果を示すことでこそもたらされる、と考えます。もっとも、これは片方が片方を完全に否定するものではないので、ホーム(本拠地)の違いと捉えてください。
ちなみに、ぼく個人のホームは左下の「哲学」にあるので、上の2つはいずれもアウェイ(居心地の悪い場所)です。そんな自分が、大学では研究の真似事をして、その後に実社会で仕事をすることになりましたが、馴染むのが難しかったのは当然のことかもしれません。
ぼくは、上の図で表したものを、「スピリチュアルな四元論」と呼んでいますが、その意味の一つは、これが個人的な整理の延長であって、学説や論文として書ける性格のものではない、ということです。もう一つは、図の左右上下は、MBTIにおける人間の4つの能力(直観・感覚・思考・感情)や、占星術における4つのエレメント(火・地・風・水)など、頭よりも心に馴染みやすい理論をヒントにしていることがあげられます。
すぐ上の「ホーム」という表現も、MBTIの主機能(dominant function)と、占星術の支配星(Domicile)の概念を流用しています。これらは、自然に使える、居心地がよい、といった意味をもっています。そして、2つとも"dom"という綴りが入っていますが、これはラテン語のdomus(家)を語源としたものです。
ただ、こうした関連について一つ一つ書いていくと際限がないので、基本的には明記しません。
全体的な関連を示した図を載せると、次のとおりです。
いわゆる16タイプの性格分類ですが、ここでは4タイプしか分類できません。
ST型は「仕事」に、SF型は「生活」に、NF型は「哲学」に、NT型は「研究」に、もっとも自然に取り組みやすい、と仮定します。
ぼく自身は、直観型か感覚型かでいうと、直観型の傾向の方が強いので、左に寄っています。また、思考型か感情型かはかなり判別しにくいですが、どちらかといえば感情の方に寄っているので、下に位置付けられるかと思います。結果として、NF型と思われます。
NF型のテーマは、自分の(あるいは自分のような人の)心を満たすことですが、人生経験を積んだ後はそれが難しいことを知るので、同じ感情型であるSF型の感性の中に、誰かの心を現に満たしているものを見つけ出し、それを尊重しようとします。その場合は、比較的温和なNF型となります。自分の心を満たすものが、新しい物の見方によってこそ得られると考える場合は、新興宗教の傾向が強くなります。満たされない原因を外部に見出す場合は、陰謀論の傾向が強くなります。陰謀論の場合は特にそうですが、NF型は、自身の信念をT(思考)によるもの、と表現することがあります。これは、NF型のT(思考)とF(感情)は、直観を使うことで境界があいまいになり、かつF(感情)が優位であることから、それを俯瞰することを好まず、よく言えば組み合わせて使う、悪く言えば混同するという特徴があるためです。
T(思考)とF(感情)は、どちらか片方のみを使う方が珍しく、組み合わせはよく見られることです。例えば、「この馬は走るのが速く、優れている。」と言うときに、「走るのが速い」は、その他の馬と公平な条件で走りを測定することによって言及できるもので、こちらはT(思考)によるものです。一方、「優れている」は価値判断であり、F(感情)に属すると考えられます。ただここで罠のようなものがあるのですが、「優れている」という価値判断は必ずしも自分自身のものではなく、一般的にそう評価されるとか、特定の分野でそう評価されるという事実を示している場合もあります。この場合は、「優れている」は、「優れている(と言われるだろう)」という意味となり、「走るのが速い」と同様に、T(思考)によるものとなります。
NF型はしかし、この例のような言及にはあまり関心がなく、例えば「この馬の走りにはしぶとさがある。」といった表現の方に興味を示します。このとき「しぶとさ」は、先を走る馬と差を付けられても速度を維持または上げていく様子を指しているのかもしれませんが、これを他の馬と公平な条件で測定することは難しく、特定の場面を取り上げてそう主張することが多くなるでしょう。また「しぶとい」自体がある種の美徳としての価値判断を含むものであり、そう感じられることを切っ掛けに、具体的な事実としての特徴を探すこともあります。こうしたことが、NF型がT(思考)とF(感情)のどちらを使っているか判別しにくくしています。
価値観を表す4区分(火地風水)と、その求め方を表す3区分(活動・固定・柔軟)の組み合わせで、12星座の分類が生まれます。これを図に当てはめたものです。4区分と3区分の意味は、端的にまとめると次のとおりです。
火:動機があること 地:確実であること 風:機能的であること 水:ありのままであること
活動:純粋に求める 固定:恒常的なものとして求める 柔軟:実現可能な範囲で求める
12星座の相性もあわせて記載しています。図の中の度数がそれで、30°・60°がよい相性、90°・150°・180°が悪い相性です。悪い相性は、右上の「仕事」と左下の「哲学」の領域で発生しやすくなっており、これらの領域では、対立・矛盾を起こしやすいことを示しています。
例えば、右上のやぎ座とてんびん座は、相性の悪い組み合わせですが、それぞれが仕事の重要な側面を表しています。仮に、料理店を経営するとします。やぎ座は、料理をおいしく作れるよう努力する側面で、てんびん座は、お店の飾りつけや接客、広告を工夫する側面と言えます。しかし、やぎ座からすれば、飾りつけや広告で人気が出ることは、いまいち腑に落ちないでしょう。一方てんびん座からすれば、単においしいものを作ればいいという方向性は、子どもじみて見えるかもしれません。このように、片方に注力するともう片方を否定する見解を生じやすいのが、90°の関係です。
こうした相性について、占星術では、生まれたときの星や現在の星の配置により、影響は必然的に存在するものと考えます。なぜなら、事実としてそこに星があった(ある)からです。ぼくはここで、そのような占いの結果を述べているのではなく、一人の人間のある側面が、別の側面にどういった影響を与えるかについて言及しています。ただ、例えば「仕事」の領域で、上であげたような相性からは逃れ難い、という認識をもっています。
一霊四魂は、江戸時代から明治時代に、神道から派生した理論で、人間の4つの心のあり方を示したものですす。上の図は、ぼくが考えたことにあてはめたらこうなるだろう、という配置です。
荒魂(あらみたま):達成する力
和魂(にぎみたま):調和する力
幸魂(さちみたま):愛し育てる力
奇魂(くしみたま):探求する力
面白いのは、和魂(調和する力)と、幸魂(愛し育てる力)を分けていることです。これは、他人と上手くやれる柔和な人間が、人の心を(関心はあるのになぜか)深く理解していない、という現象をよく説明できるものです。逆に言えば、他人と上手くやりたいなら、「愛」は控え目にするとよい、ということにもなります。
今のところ、この一霊四魂が、ぼくが考えたことに一番近いのではないかと思っています。
では、その他の理論の話題はこの程度にして、次からは、「みんなが信じられるもの」と「わたしが信じられるもの」について、もう少し掘り下げて整理していきます。
まず、「みんなが信じられるもの」とは、情報として流通できるものである、と言えます。
情報とは、事実“として”伝えられる何かです。
本当に事実なのかどうかはわかりませんが、事実“として”伝えられるものです。
情報の特徴の一つは、物事を理解するときの排他性です。
例えば「先ほど畑を荒らしていたあの動物はクマだ。」という情報と、「先ほど畑を荒らしていたあの動物はイノシシだ。」という情報は両立せず、どちらかがどちらかを否定します。
これは、元を辿れば(情報というよりも)言語としての特徴とも言えます。
情報が流通するためには、その解釈が一定であることが望ましく、言い換えれば、それが明晰に(言語で)語られる必要があります。
言語の習得においては、「相互排他性制約」という概念があるそうですが、これは、子ともが言葉を憶えるときに、同じものに紐づく単語は1つしかない、と前提することを指すそうです。
例えば、ある生き物を「イヌ」と呼ぶことを憶えたなら、「ネコ」と呼ばれる生き物はまた別の何かであろうと考える、ということです。
もちろん、同じ生き物を(「イヌ」とは呼ばず)「わんこ」と呼ぶこともありますから、同じものに紐づく単語は1つしかない、という前提は実際は間違っています。
しかし.、情報の伝達においては、「相互排他性制約」の期待に応えるような表現が求められる、と考えられます。
なお、この特徴は、人の心(感情)を表現するときには、しばしば当てはまりません。
例えば「私は彼が憎い。」という表現と、「私は彼を愛している。」という表現は、必ずしもお互いを排除するものではありません。さらに言えば「彼女は彼を愛しているが、愛していない。」という一見矛盾した表現に接しても、そこにはそれなりの意味がある、と推測するのが妥当でしょう。
(解釈の一つとして、「彼は愛している」の「愛」はフィリア(友愛)であり、「愛していない」の「愛」はエロス(性愛)である、と仮定してみましょう。この場合は、彼女は彼に仲間としての好意をもっていたが、男性として求めていたわけではない、という説明を与えることができます。こう整理すれば、人の心(感情)を情報として取り扱うこともできなくはありません。ただそれは、人の心(感情)を理解する方法の一つとして捉えると、必ずしも適切ではありません。2つの「愛」に違いがあるとしても、彼女はそれを理解していなかった、つまり混同していたかもしれないし、あるいはその結果、2つの「愛」が両立する道が開けていた、とも考えられます。そういった不確定な部分、変化する可能性、入れ子式のメタ認知も含めて捉えることが、人の心(感情)の理解には必要になります。そういう意味では、人の心(感情)には、情報として取り扱われることを拒否する性質があります。)
話をもどすと、「みんなが信じられるもの」は、情報として流通できることを求めるのですが、その表現に言語を使用する場合は、言語の明晰さによる制限を受けます。(同様に、表やグラフ、図、写真、映像などを使う場合も、それらの明晰さによる制限を受けます。)
このことは、主に左上の「研究」の領域で、より意識されることでしょう。つまり、どこまでを「研究」の範囲として広げられるか、というチャレンジがある反面、時には節制も求められるのです。
一方、右上の「仕事」の領域では、明晰さに欠ける(解釈に迷う)ようなものはそもそも関心の対象外として、取り合いません。その結果、仕事ではむしろ、扱える情報が不当に少ないように感じられることでしょう。ある種の厳選が行われた後になお残ったものに関心を向けるので、仕事の成果は、情報として取り扱いやすいものになります。そのことは、この領域における達成感の強さにも影響しています。
「わたしが信じられるもの」とは、自分が納得できるもの、受け入れられるもののことです。
なかには、いつの間にか受け入れていること(例えば、12月31日で今年が終わること)がある一方で、これから探していかなければならないこともあります。
いつの間にか受け入れていることを除けば、その条件を満たすことは意外に難しいものです。
例えば、ぼくはいわゆる長期投資を行っていますが、長期投資では、何に投資するかによって、どれだけ収益が出るかが決まります。同時に、どれだけ損失が出るかも決まります。収益はなるべく大きくしたいけど、損失に怯える日々は過ごしたくない、というのが個人投資家の願いです。
株式に投資すればするだけ、資産額の変動は大きくなります。自分の資産を、株式のようなリスク資産にどれだけ配分するかは、自分が決めなければなりません。そして、それによって生じる収益も損失も、受け入れなければなりません。
ここで重要なのが、それは一度考えた程度では到底決められるものではない、ということです。より正確に言えば、一度考えて「決め」ても、未来の自分が違った結論を出すことが容易に想定できるので、そこには大した意味はないということです。これが、「わたしが信じられるもの」の難しさです。
(ちなみに、ぼくはこの難しさに対しては、実際に投資をしながら日々の値動き(ぼく自身のストレスの感じ方)を観察して、また過去の実績や数理的なシミュレーションを何度も何度も繰り返すことで、2年程度かけて自分に馴染む割合を「決め」ました。)
何かに悩んだときに、よくよく考えても結論は出ないので、自分の心がどう変わっていくかを観察しよう、という対応をとることがあるかと思います。例えば、仲の良い友人が待ち合わせの時間に遅刻ばかりする、健康志向が強すぎて入れる料理店が限られてしまう、今後の付き合いをどうしようか、というような場合です。これも、上の長期投資と同じように、「わたしが信じられるもの」の難しさを表しています。
こうした難しさとより深く関わるのが、左下の「哲学」の領域です。
右下の「生活」の領域が、現にあるもの、実際に選択できるものに着目するのに対して、「哲学」は、本来の姿はどのようなものか、なぜそうなっているのかに着目します。
その結果、個人の問題を超えて、普遍的な事柄を扱うことも多くなります。例えば、人は(生き物は)なぜ苦しむのか、死とはどう向き合えばいいのか、といったものです。
普遍的という意味では「みんなが信じられるもの」を探すのですが、自分が納得し受け入れられることが絶対の条件となります。仮に様々な考察の結果、自分には受け入れられないが本来は受け入れるべきである、という見解を有力と感じた場合は、自分が受け入れられない理由について、納得のいく答えを探し出そうとします。
(対して「みんなが信じられるもの」においては、自分の主観などそれ以上でもそれ以下でもないのだから、みんなが信じられるものには自分にとっても利益があることを期待します。)
ここまで、「わたしが信じられるもの」の難しさにばかり触れてきたので、そうではない部分、つまり、いつの間にか受け入れていることについても触れておきます。
ただ、それらはあまりにも当然であるがゆえに、言葉にしても逆に意図が伝わらないことが多くあります。
なのでここでは、俳句を通して、この世界に言及することにします。
俳句は、物や風景を描写することでそこに伴う心情を伝えますが、短い詩なので、読み手が既に受け入れている心情しか伝えることができない、という特徴があります。
ただし、それは決して、自分が体験したこと以外は理解できない、ということを意味していません。これから3つの句を取り上げますが、後の句ほど自分の体験から遠のくものを選んでいます。それでも、そこから読み取れる何かは、既に別のどこかで感じた心情であることがわかるはずです。
(一応、読み方は『入門歳時記』という本を参考にしていますが、ぼくは俳句に詳しいわけではないので、なにかを誤解している可能性があることを申し添えます。)
三日坊主承知の上の日記買ふ 渋沢渋亭
「日記買ふ」は、冬の季語。新年を迎える前に、翌年の日記帳を買うこと。新しく始まる一年への期待があるとしたら、それは、日記が三日坊主となることを予想してもなお、減るものではないのでしょう。もっとも、物事は、実際に始まってしまえば様々な煩いが生じるものです。新しい年が始まる前の、まだ無責任な期待をもつことができる、モラトリアムな時間を味わっているように読めます。
畦を塗る心になりて見てをりぬ 清崎敏郎
「畦を塗る」が、春の季語。畦は、田んぼの周りの、土が盛り上がっている道のことです。田んぼの土を使って畦を丁寧に塗り固めるのが「畦塗」で、今は機械を使うようですが、この句では、農家が鍬を使って畦塗をしています。ひたすら作業を続ける姿と、それに伴い整っていく畦。塗り終わったばかりの畦には湿気があり、光に照らされ輝くそうです。そんな光景を見ると、見る側の心も澄んでいくのでしょう。
方丈の大庇より春の蝶 高野素十
「蝶」は、春の季語。「方丈」は、お寺の石庭を指しています。「庇」は、外壁の外に伸びる屋根のことです。この句は、春ののどかさを詠んでおり、「静と動」がポイントになるそうですが、それはどういうことでしょうか。まず、お寺の石庭が「静」にあたります。静かな美しさもつものです。しかし完全な「静」を伴う美しさは、現にあるもの以外のすべてを拒絶するような印象を与えます。次に「庇」を見ると、これは建物の一部なので当然動くものではありませんが、お寺の外に“伸びている”のであり、視覚的にいくらかの「動」をもたらします。そこから、蝶がふわふわと現れる光景。わずかな「動」により、静か過ぎない美しさが描写され、春ののどかさを感じ取れます。
ちなみに、高野素十は、客観写生という俳句の理論を実践した人と言われています。客観写生とは、「俳句は短いため直接主観を述べる余地がなく、事物を客観的に描写することによって、そのうしろに主観を滲ませるほうがいい」という考え方、だそうです。
本当に伝えたいのは主観の方でしょうから、これは逆説的な手法といえます。この考え方も、主観=人の心(感情)が、容易に言語化できないことを示していると言えます。
今回の投稿は以上です。
長文となり申し訳ありません。