結婚前の私のことをふりかえってみてます。


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わたしのこと⑩  20代前半

福岡から東京に戻ってきて、最初はパチンコ屋で働いた。

けど、ちゃんとしたい気持ちがあって、結婚式場の契約社員になった。

結婚式の料理の配膳の仕事なので、研修ではテーブルマナーや、接客の心得を教えてもらえた。

パチンコ屋とは別世界。

一緒に働いていたバイトの子たちは同世代の子が多くて仲良くしていたけど、みんな就職活動して一流企業に就職しく姿をみて、格差を感じて惨めな気持ちになったけど、私のことを馬鹿にするような人はいなかったな。

でも、私はやっぱり惨めな気分があって、
高校中退がコンプレックスがずっとあって、
だれも私のことを馬鹿にしたりしていなかったと思うのに、
家庭環境が良くて、当たり前のように大学に行ってる人が羨ましくて、勝手に愚痴ってて。


そんな時、同僚のカメラマンが

いつもいつも同じような事愚痴ってんじゃねーよ。
学歴のコンプレックスは努力すれば改善できる。
これから通信でも、夜間でも高校卒業して、大学だって行きたければ行けばいい。
やれば絶対できることだ。

だけど、俺の彼女は女優目指してて、努力だけでは叶わないこともある。カメラマンもそう。
運やコネやいろいろな事があって、努力だけではどうにもならないこともある。

お前のは、やればいいだけだ。



と、説教されたことがあり、素直な私キラキラは、

あぁ、そうかチューリップ赤

と、素直に受け止めて、早速、夜間高校の見学に行ったり、通信高校のことを調べたりしました。

でも、結婚式場の仕事も好きだったから、それを辞めてまでする事かな。

何のために? ほかにやりたい仕事があるわけでもないのに、、、と悩み、

大検(現:高卒認定試験)を受けることにしました。

独学で勉強して合格し、これからは、高卒以上の仕事にも応募できるんだなって、自分の世界が少し広くなった気持ちになれました。


今まで、無理と思っていた事務職もやってみたい気持ちになりました。


説教してくれるのって、すごく有難い事だなって思います。イライラして言っただけかもしれないけど、ハッキリ言ってもらって本当によかった。



続く。


結婚前の私のことをふりかえってみてます。


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わたしのこと⑨ 18歳

美容室を辞めて彼氏のアパートに転がり込み、喫茶店でバイトを始めました。

彼氏は福岡出身で2歳年上。
航空整備の専門学校に通っていました。

でも、学校がつまらないから辞めたいと言いだし、親から福岡に戻るよういわれ、福岡に帰ることになり、私は彼と離れる事は考えられなかったし、家族はなんのたよりにもならないので、福岡へついていきました。

18歳の夏、フェリーで福岡に向かいました。

荷物は、洋服を少しだけ。

他に荷物なんて無かったのかな。私は、、キョロキョロ
あんまり記憶ないな。

福岡に到着したあと、彼は実家に帰れるけど私は行くあてなくて    笑

彼氏の友達の家に少しの間、居候させて頂きました。

求人雑誌をみて、寮のあるパチンコ屋に面接に行き、またもや、すぐ寮に入りたいと伝え、採用してもらいました  笑

パチンコ屋でも楽しく仕事しました。
食事係のおばちゃんがいて、朝食も昼食も夕食も手作りの家庭料理が食べれました。

1日にタバコ1箱とジュース1本の支給もありました。笑。

東京からきた18歳の女の子は、チヤホヤしてもらえました。

先輩のお姉さん達とも仲良くなれて、洋服を一緒に買いに行ったりしました。

そして、その洋服屋さんで気に入った洋服があって、それが5万円くらいで、こんな高いの買えないーってチラッと言ったら、

いいお店あるから紹介するって、夜のお店のママを紹介され、


ママさんが、
パチンコ屋なんかで働いてたらダメよ。
私が面倒みるから、うちにいらっしゃい。

と、パチンコ屋の寮にセルシオでお迎えきて、お水の世界に入る事になった、、、。

お店のちあきさんというお姉さんの家に一緒に住むよう言われて、毎日洋服もお化粧もしてもらい、ママのセルシオに乗ってお店に出た。

でも、灰皿洗いとお通しの盛りつけしかしてなかったけど、、。

ペットみたいに扱われてた、、、。

その頃、彼氏とはダメになっていた。


私、なんで福岡にいて、流され放題でなにやってんだろ、、、、。


そう思ってた矢先、親戚から連絡がきた。
父が入院したと。


父は私が福岡に行く事は反対していたけど
反対する資格ないし、、関係ないし。って勝手に出発したっきり。

入院した事を聞いて、福岡でお水やってる場合じゃないと思って、東京に帰る事にした。


ママにはその旨伝えたけど、ママも行ってお父さんにしっかり面倒みること挨拶するからって言ってくれた、、

けど、ずっと福岡にいたいって思えなくて、黙って、勝手に、飛行機乗って一人で東京に帰ってきてしまった。


家では、父も兄もちっとも可愛がってくれなかったけど、

美容室でも、パチンコ屋でも、夜のお店でも、大人の人達はみんな私を可愛がってくれた。








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わたしのこと⑧  17歳


高2の秋、高校中退。

美容室なら、手に職をつけられるし寮もあるかもと求人雑誌で探して、浅草にある美容室に面接に行った。


馬鹿正直に、家を出たいので寮がある仕事を探してます。すぐにでも寮に入りたい。

と伝えた。そして、受け入れてくれた。

たぶん、かわいそうと思ったんだと思う。


70代の先生と呼ばれているおばあさまと、40代のデブの息子と、30代の社員2人の美容室。

1階が店舗で
2階が先生と息子の住居
3階が従業員の寮

となっていた。

私は1人部屋をもらえた。
仕事は、タオルの洗濯、床はき、備品管理など。
先生も先輩も優しく教えてくれました。

仕事後はシャンプーの練習やロット巻きの練習を教えてもらいました。

寮にお風呂が無かったので、銭湯に行ってました。


平成だったけど、昭和な感じで、とっても良くしてもらっていたのに、

その頃付き合いはじめた彼氏と会える時間に制限があって、私は彼氏の家に転がり込んでしまい、美容室を半年で辞めてしまいました。



つづく。






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わたしのこと⑦  高校中退



1990年代前半ごろ。

コギャルが出てきた頃。

ポケベル使い始めた頃。

チーマーとか、パー券とか出てきた頃。


貧乏くさい私を知ってる人がいない遠い高校に通い始めました。

場所は都心だし、高校生からバイトもできる。

高校デビューキラキラって感じで、学校生活は楽しかった。

新しい友達とも仲良くできていた。


夕食は、ファミレスのバイトで賄いを食べれたので、仲間と平和に食事することができた。


家以外の場所はとても充実していた。

でも、家庭は相変わらず。

兄は理不尽。

バイトしている私にたかってくる。

私のお金で寿司の出前とったり、

マンガ本買って来いって、ろくでなしブルースとか全巻揃えてるまで帰ってくるなって本屋をはしごさせたり。(私のお金で、私がチャリで)


反論すると殴られるから泣きながら自転車こいだ。



あー。嫌な思い出。



ある日、パー券を買えと言ってきた。
5万円分。

ムリだと言ったら、
今、女子高生は身体売れるからやってこいって言われた。


もうムリ。ホントムリ。って思って、父に相談した。

(ずっと相談してたけど、父がいるときはそこまでひどくないから、信じてもらえてなかったのかも。私の言い方が悪いとか。そんな感じで流されてた気がする)


でも、今回は本気で相談した。

お父さんが家にいれば、お兄ちゃん殴らないしひどいことしないから、夜、飲みに行かないで家にいてほしい。


毎日殴られる訳じゃないんだろー。
それなのに毎日家にいろって言われてもなぁ。


売春しろって言ってきたんだよ。
殴ったり、そんなこと言ったり、お父さんが守ってくれないともう家にはいられないよ。


そんなこと本気で言うわけないだろ。
大げさにするなよ



という会話をした。

あまりに、真剣に聞いてくれない父に呆れて、
こんな家にいても仕方ない。
危険しかない。

そう思って、学校を辞めて寮のある仕事を探すの事にした。










結婚前の私のことをふりかえってみてます。


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わたしのこと⑥ 高校受験


中学時代は、吹奏楽部を頑張っていました。
楽器はトランペット。
先輩後輩関係が厳しい部活でした。
先輩怖かったけど、音楽好きだから楽しかったなルンルン

家に帰れば兄が怖かった。


成績はあまり良くなかった。
家庭環境が悪すぎた、、、(言い訳)


中学は小学校の延長で、私は小汚く、ちょっとしたイジメの対象というか、友達とあまり上手くいっていなかった。

だから、高校は私を知ってる人がいないところに行きたいなって気持ちと

吹奏楽を頑張りたいから、吹奏楽部が強いところに行きたいって気持ちがあった。

都立はあまり部活に力を入れてるところはなくて、全国大会に行くようなところは私立ばかりで。

父に相談したら、私立は無理って言われた。

でも、滑り止めで私立も受けさせてくれた。

都立は、商業科なら遠い学区も選べたから、同じ中学の子がいないところを選んだ。

たしか、
都立の発表の前に、私立の受付の締切があって、
私はやっぱり吹奏楽がやりたくて、父にお願いしたけど、簡単に、ムリに決まってるだろって言われた。

そして、兄に、私が私立に行きたいと言っていることがバレて、すっごい殴られた。

家が貧乏ってわかってて言ってるのかっ!
親父を困らせるなって。


おいっ!どの口が言うんじゃいっ!
って思ってた。


都立も無事受かって、渋谷に近い高校に通うことになった。


大学について、父はいつも

防衛大学なら行ってもいい。
防衛大学以外は無理だ。

って言ってた。


素直でかわいい私は、

防衛大学は給料もらえるんだー。それならいいねっ

言ってた。


でも、商業科を選んだのは、大学進学しないで高卒で就職する気だった。

就職はデパートとかホテルとか出来たらいいなって、ふわっと思っていた。たしか。







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わたしのこと⑤ 中学時代

父と兄と私の3人家族。
父子家庭の我が家。


私が中学生になると、ますます放任主義になっていました。

父は仕事後、毎日呑みに行ってた。
近所の赤提灯の居酒屋のはしご。

たまに、夕食食べに来るか?って呼ばれてよく行ってた。
へったくそな親父達のカラオケを聞きながら、1人でちびちびつまみを食べてた。

夕食代をもらっても、友人はみんな家庭で食事してるから誰も一緒に食べてくれない。

いつも、適当なものを制服も着替えずゴロゴロしながら、テレビをみながら食べてたな。

兄は2歳上だから、私が中1のとき、中3。
学校にはほとんど行ってなくて、悪い友達とつるんでた。

高校には進学せず、父の知り合いのタイル屋さんに就職したけど、3ヶ月くらいでやめた。たしか。

それから兄はますます荒れていって、悪い友達と悪いことばかりしてた。

盗んだバイクで、無免許で事故ったり、

近所の家に泥棒に入ってたり。
その時は、警察が事情を聞きにきて、
父は、

「うちの息子を疑うのかっ!うちのはそんな事する奴じゃない。」

って言って怒ってたけど、
私は、絶対クロだし、、、って思ってた。

その後、指紋で兄が犯人って確定したえー

ほらね。




私は、吹奏楽部に入って、勉強もまずまず頑張っていた。
とにかくふつうの生活を送りたかった。

でも、兄が常にイライラしていて、理不尽な事で怒って。

多分私は正論で反論してて、暴力で返されて。

そんな感じだったんだろう。


狭い家で、兄と同じ部屋だったから、
テスト前に遅くまで電気をつけて勉強してると怒られたし、

朝ドライヤーを使えば、学校に行かないで寝ている兄にうるさいと殴られた。

いつもいつも泣いていて、いつもいつも眼を腫らしてた。


私は女の子なのにさ、

みぞおちを殴られたり、蹴られたりしたときの、やばい痛さを何回も経験したことがある。

それが当たり前の毎日だった。

よく耐えていたな。。

何度も家を飛び出したけど。
おばあちゃんちに逃げ込んだりしたこともあるけど、ずっといるわけには行かなくて、兄が怒られて家に帰され、また兄に殴られる。

抜け出せないイジメじゃんね…。

誰かもっと、助けてくれる人がいなかったんだろうかえー



でも、大人になってから思うのは、

兄も私も、学校での出来事や困ったことなど、家庭で話す事が出来なくて、

(いつも父は呑みにいってていないから。)

本来、親からもらえるアドバイスもフォローも全然なくて、

私はまぁまぁ上手く出来ちゃう子だったけど、

兄は不器用だし、学校て上手くいかなくて、気持ちの持っていく場所がなくて、怒りの矛先が私にきちゃったのかなって思う。

兄の事、ひどいと思うけど、

父がひどいからだったんだ。









結婚前の私のことをふりかえってみてます。


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わたしのこと④ 小学校高学年時代

4年生になったら、おばあちゃんちでの夕食食べるのは終わり。と、取り決めしていたらしく、4年生からおばあちゃんちに通わなくなりました。

おばあちゃんちでは、いつも違うメニューで、肉や魚のメインに加え、漬物、副菜、食後に果物も食べさせてもらっていました。

いとこ3人と、兄と私とおばあちゃんでちゃぶ台で食べていました。
食べ終わったら、自分の食器を洗って、自分の場所をふきんで拭くようしつけられていました。

おばあちゃんは、私に母がいないぶん、しっかりするように、ほかのいとこよりも私に厳しかったです。

お米のとぎ方や簡単な料理や、ラーメンつくるときは野菜や卵を入れるようになど、教えてもらいました。


3年生までの、おばあちゃんちでの夕食の風景はすごく覚えているのに、4年生からの夕食の事はほとんど覚えていないです。

父がカレー、素麺、みそ汁を作ってくれた事、何度もあったような気もするけど、大きくなるにつれ、お金をもらって、勝手にたべるって事になっていきました。

私もカレーやシチューは作れたと思う。




かおその他の記憶
・洋服をほとんど買ってもらえず、いつも小汚い格好。

・朝は自分で起きる。朝食なしで学校。

・宿題やプリント提出は忘れ物ばかり。

・仲良しグループに所属できず、遊んでくれる人がいない。私も行きたい。いれてー。と言っても、「私わからないから◯◯ちゃんに聞いてー」とたらい回しされて、OKがもらえないまま、待ち合わせ場所にいくけど入れてもらえず遠目で見てる、、、笑い泣き(か、、かなしぃ、、笑)


・兄がどんどん不良化。私が奴隷化。

・宿題や家庭学習はしてなかったのに、成績はよかった。それで父に褒められると、そのあと兄に調子にのるなと殴られる。

・遠足の時のお弁当は自分で作っていた。

・運動会の時は父が来なくて、昼にほか弁だけ届けにきたこともあった、、。
恥ずかしくて食べれなかったけど、せっかく買って来てくれたのに申し訳ないって気持ちだった。



ドキドキよかった思い出
・音楽が好きで、音楽クラブに所属。
休み時間はいつも音楽室でトランペットやユーフォニアムを練習してた。
リコーダーもメロディオンも大好きだった。

ピアノを習いたいとなんとかお願いして、習い始めたけど、メロディオンでの練習に限界があったので辞める方向に、、、。


・区の合唱団に所属。
毎週土曜日に通っていた。いろいろなイベントに参加して楽しかった。
ディズニーランドでも舞台に立って歌った音符



辛い事がすごく多かったけど、好きな事があってほんとよかったニコ






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わたしのこと③小学校時代


小学校の入学式なんて、ぜーんぜん記憶にありませんキョロキョロ

みんなそんなもんかな?

小学校は3年生まで学童に通っていました。

学童の後、おばあちゃんちに帰るので、帰り道に考慮してなのか、通っている小学校に学童がなかったのか、おばあちゃんちの地区の学童に通っていたので、学校から学童まで徒歩30分くらい掛かりました。

遠くて嫌だった思い出があります。

でも行くしかない。とぼとぼとぼとぼ歩いて、ついて宿題したら、また歩いて帰る。

そんな感じだったような。

おばあちゃんちに同居している叔父夫婦には子供ができて、私のいとこにあたりますが、兄妹のように過ごしていましたニコニコ


しかし、

父は呑んべいで、、、日本酒得意げ

だんだん迎えに来なくなりました。

おばあちゃんちで夕食を食べたあと迎えにくる約束でしたが、仕事帰りにそのまま呑みにいってしまい、兄と私は2人で家に帰るようになりました。

兄は、私の記憶があるところからずっと乱暴で暴言暴力的で、よく叩かれてり蹴られたりしてましたが、

父がきちんとしないこと、私と違って母の記憶があるためさみしい気持ちがあること、甘える人がいないことなど、怒りを私に向けてくるようになっていました。


仲が良い日もあれば、ちょっとしたことでキレる日もあって、止める人もいなくて、みたいな日々でした。


日曜日は、父の仕事は休みだったので家族で夕食を食べてましたが、父は21時頃に兄とわたしを寝かせてから呑みに出かけてしまって、

23時頃目が覚めて父がいないと、

兄が「探しに行こう。俺らがケンカばかりしてるからお父さん出て行っちゃったのかも。」

と、2人で真夜中に、父が行きそうなお店を探して歩いたりしまして。

警察に補導されて、父を探してると言って、一緒に探したこともありましたキョロキョロ



つづく。

結婚前の私のことをふりかえってみてます。


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わたしのこと② 保育園時代

両親が離婚し、父子家庭が始まります。

東京の父の実家の近くに引っ越してきたのは、たぶん、年少の終わりくらいかな。

2歳上の兄が、小学校入学前の健康診断は千葉で受けたけど、小学校は最初から東京だったから、入学前に合わせて引っ越したのかも。


私は年中から、東京の保育園に通ったのですねー。

父は運送の仕事をしていました。

祖父母の家は理髪店で、祖父と父の弟とそのお嫁さんがお店に出ていました。

父が離婚して、これからの相談を祖父母にしたとき、祖父母は、もちろん協力したい気持ちはあるけど、祖父母の家は、父の弟が理髪店を継いでお嫁さんをもらってこれから子供も産まれる環境の中、私たちを受け入れる事ができないから、施設も視野に入れて考える、、、、という感じになっていたそうなんですが、

父の弟の奥さんが、

せっかく近くに引っ越してきたのに、施設なんてそんなこと、、、。
協力してみんなで育てていけばいい。出来る限りのことはします。

というようなことを言ってくれたそうで、
祖父母と叔父夫婦の力を借りて大きくなりましたキラキラ


父と兄と私の3人は、おばあちゃんの家から徒歩10分くらいのところに住んでいました。

平屋のオンボロの借家です。
6畳と4畳半と小さな台所。お風呂とトイレは一応ありました。


朝、兄は家から小学校へ。
私はおばあちゃんの家に父が送っていって、おばあちゃんの家で少し待ってからおばあちゃんが保育園へ送ってくれてました。

お迎えもおばあちゃん。
兄も小学校が終わったらおばあちゃんの家に帰ってきて、夕食を食べて、父が迎えにきて家に帰る。

という感じでした。


つづくー。







結婚7年目。

結婚はゴールじゃないってよく言うし、結婚してから大変な人も多いと思うけども。

おとぎ話では「結婚して幸せに暮らしました」で話が終わる。

私はそんな感じで、結婚前はいろいろ大変だったけど、今は幸せにに暮らしています。


結婚前の私のことをふりかえってみようと思います。


犬しっぽ犬からだ犬からだ犬からだ犬からだ犬からだ犬からだ犬からだ犬からだ犬からだ犬あたま

幼少時代

ほとんど覚えてないけど、、

父は東京出身
母は千葉出身
2歳上の兄がいます。

母の実家の近くで暮らしていたんだと思います。

私が生まれた頃からか、その前かよくわからないけど、母が精神的な病気で入院していたらしく、私は母の実家でお婆ちゃんにみてもらっていたらしいです。

兄は父がみていたようですが、保育園の送迎や食事などがちゃんとできていたのか、今考えると不思議です。

母は、育児ノイローゼだったのか、躁鬱病だったのかわかりません。

でも、部屋の隅で震えてたり、たくさん高級なものを買いまくったりおかしくなっていたんだ。という話を父に聞きいていました。

写真では、保育園の運動会で家族4人でお弁当を食べていたり、遊園地に行ったり、土手でピクニックしていたりする写真がありますが、私は全然覚えていなくて、母と一緒にいたことや母の事を何も覚えていないです。

保育園の運動会の写真があるってことは、年少まで千葉にいたのかな。


父は医師から、母の病気は治ることは無いと言われたと言っていました。

父は母の事が大好きで、毎日病院に行っていたけど、医師から治らないと診断され、母の実家からは、母の面倒はみるから子供を責任持って育ててくれと言われ、泣く泣く離婚した。

と父から聞いてますが、本当かどうか、、真顔


離婚し、父の実家の近くに引っ越して、父方の祖父母の力を借りながら生活していくことになりました。


つづくー。