イスラーム=テロではない。アメリカ合衆国やブルネイでは多くのムスリムは平和に暮らしている。ヨーロッパへの移民に比べて圧倒的に裕福だからである。



もともと、どのような宗教であろうが、人を殺せという宗教はない。そんな教えが数十億人もの信者を獲得するはずがない。



セム語族の宗教の最も古い根源的な教えはデカローグである。ここはっきりと(汝、人を殺すなかれ)と書いてある。



だが、一部の偏った解釈では 「人というのはどこまでをいうのか?」についての問題がある。



タナファでは天地創造で人間が作られた記述がある。


その際、アダムとイブの子孫が構成した民族名が書いてあるが、そこには東洋人も黒人もない。


映画スター・ウォーズでこのようなセリフがある。


「あなたは奴隷なの?」


「いえ、人間です。」








むろんイスラームが好戦的な宗教というわけではない。ほとんどのイスラム教徒はテロとは無関係である。十字軍の報復戦争を起こしていないことは、注目すべきである。

イスラームには、統一的な解釈を断定する聖職者がいない。

仏教ではなおさらのことである。私は仏陀の血筋を引くものであり。すべての仏教徒は自分の教えに従いなさい。というサンガの指導者が存在しないのである。

人間である仏陀ははっきりと血を分けた子供がいる。妻もいる。親もいるし、親族もいるはずであるが、探せばブッダの子孫もいるはず。、一切、自分の教えを子孫に委ねたり後継者に指名していない。

もともと、ブッダは普通名詞で「真理に目覚めたもの」であるから、万人が、民族や血筋に関係なく、仏教徒になれるわけで。仏教徒になるためには、何か特別な権威者の許可は必要がない。

僧を敬えというのも、サンガという小さなグループの集まりの中でケンカをするなという言う意味であって、戒も律も普遍的に全人類を強制的に束縛するものではない。

死に即して。法輪を回すべき後継者に託した言葉は残っているが。「法輪を回すべき」後継者というのは「すべての後の仏教徒」を支配し命令を下せという意味ではないし、歴史的にそうなっている。

仏教というのは

・誰もが納得する「人生って思いどおりにならないし。人間が死んだり、病に苦しんだり、年をとって。不自由するのは、しょうがないから永遠の真理として積極的に受け止めようよね。せめて。生きていうる間は人を気づつけたり、悪いこととをしたりしたらだめだよね。特にゆがんだ見方から、ゆがんだ心が生まれ、ゆがんだ言葉が生まれ、ゆがんだ行動がうまれるんだよね。ゆがんだって何?今の世の中を見ればわかるじゃないですか。こんなことで殺し合いをしているじゃない。すべての生きとし生けるものが安楽に暮らせることがすべてじゃないの!」

というそれだけ。でも実現するは困難に過ぎる。




一方でムハンマドの血筋は、カリフとして存在し正当性をめぐって殺しあっている。今でもヨルダン国王のハシム家やサウジ・アラビアのサウド家はムハンマドの子孫と言われている。

これがカリフの正当性の問題である。



極端な解釈から争いは生じる。

仏陀は当初から偏った解釈を否定している。実体験として。極端な解釈の怖さを知っていたのであろう。

以下は、解釈の例を示すためのあくまでも例えである。

・なぜ、罪のない異教徒を殺すのか?といえば人間をおつくりになった神を信じないことほどの罪があろうか?

・ジハードは心の弱さと戦うことで。聖戦(大ジハードという解釈も)ではない。ただ、内面の弱さと戦い死を恐れず異教徒を殺す・・・

という解釈を勝手にする人もいる。


もともと、ユダヤ人に対する迫害・差別でも人類史上最も有名な冤罪事件・難民であるイエスを磔にしたのはユダヤ人であり、その罪はユダヤ人が負うべきだとも・・・

しかし、すべての人間の罪を贖うために十字架を背負ったわけであるから。そして神のもとに座して復活されたのだから、すべての人類の罪は過去も未来もリセットされたはずとの解釈も・・・

宗教の争いは過去の解釈を消去して、時代に合わせた解釈の上書き保存ができないことによる。

卑近な例。

「馬鹿は死ななきゃ治らない。」という言葉を聞いて「かわいそうなバカを治してあげたい。救ってあげたい」。

「馬鹿は死ななきゃ治らない。」ていうことは「死ねば馬鹿はなおるってことだよね、それに、死ぬ以外の方法がないっていうのだから、殺してあげるのが唯一の方法だよね」

これは極端な例ではない。現実に、神の命令としていて、過去から現在まで今の殺しあっている事実がある。




宗教戦争というのは宗教と宗教が教義をめぐって争うことです。だから、島原の乱・比叡山の焼き討ちは国家権力と宗教弾圧との戦いですから宗教戦争とは言えません。


しかし、特にグローバル化した現代においては「純粋に教義をめぐっての戦い」というのはありえません。中東紛争でも、昔のように肉弾戦をしているわけではありません。高価な武器を使っています。資金が必要です。様々な利権や大国のエゴ・民族問題・政治的駆け引きが一層。問題を複雑にしているのです。

宗教戦争という言葉も変わってきているのです。


一方でブッダという人間は、自分が生まれる前の事、特に宇宙全体の成り立ちについては言及していません。奇跡も起こしていませんし、起こせるはずがありません。

人間の内面の苦悩を見つめ、それを克服する方法を説いただけです。その方法を絶対の神に委ねませんでした。常に「心のありかた」について考えたのです。

パレスチナ問題で、国際政治学者の高橋和夫先生が、ユダヤ教とイスラム教の2000年以上における争いというのは全くの誤りである。


なぜならば、イスラム教が誕生したのは、6世紀から7世紀にかけてのことだから、単純な引き算・算数をすればわかるはずだとのことである。


本当にそうだろうか?


宗教はその解釈をさかのぼる。


特に宇宙の始まりを絶対の神にゆだねれば解釈は時間も歴史も超える。宇宙の創造神は時間も作っているからだ。


コプト教徒は豚を飼育するから、イスラームとの齟齬が生じる。だが歴史的にどっちが古いのかは宗教では顧慮されない。


簡単なたとえをしよう。


もし、日本に観光に来たムスリムに、神社仏閣を案内したら、それはイスラームの教えに反することであるから、と言われて次のように反論できるだろうか?



いえ、日本の神道はイスラム教より古いのです。仏像が作られたのもムハンマドの生誕前です。平安時代にもイスラームの教えは日本には入っていません。


納得するかは相手次第。


ユダヤ教よりも、古代エジプトの信仰の方が古い。


ISが遺跡を破壊している古代のバァル信仰はもっと古い。タリバンが破壊したバーミヤンの仏像も信仰としての仏像は、ムハンマドの生誕前だ。



だから、パレスチナ問題でも、全智全能の神の約束まで正当性はさかのぼる。

全智全能の神がカナンの地を永遠に子々孫々まで与えると約束したのはタナファーに書かれた時ではない。ユダヤ人に約束したものでもない。


宇宙誕生の前から、未来永劫に決まっていたとの解釈となる。


宗教は個々の教えを完全消去して上書きできない。



元に戻って


本当にそうだろうか?


というところの結論。確かにイスラム教徒が剣をもって、戦ったということは2000年前にはありえない。


しかし。クルアーン写本にはムハンマド生誕以前の事柄についても書かれている。イエス・(キリスト)についても書かれている。(聖母)マリアについても書かれている。


現今の争いに数千年前の神の啓示を持って複雑化・混迷を深らしめているという点では単純な引き算ではない。















先ほどから、厳密に決めたものほど、かえって争いが起きるものであると申し上げております。


もう一度申し上げますと、最近の憲法解釈であるとか、国際法の解釈であるとかで、様々な反論がなされています。

ここで仏教とか神道とかいうより、単純なたとえを申し上げます。

塩ラーメンとは何でしょうか?

醤油ラーメンとは何でしょうか?

こういった場合。


これが「塩ラーメン」、これが「醤油ラーメン」という議論が起こることはまず考えられません。


そこで、塩ラーメンや醤油ラーメンの定義に関して、宗教的・神学的な議論が起こることもありません。


ところが、イスラームにおいては、豚肉を食べてはいけないという「クルアーン写本」の教えから、もちろん当時直接豚由来の調味料というのはありませんでしたが、しかしながら、インドネシアの味の素の問題で生じるように、ある調味料が豚由来の原料を使ったということで、大問題が起こるわけです。

非常に複雑な工程において生じたアミノ酸であるとか、こういうものは食べてはいけないのでしょうか。あるいは、食べていけないがそれを一時的な原料として調味料にしてはいけないのか、と、様々な問題が生じてくるわけです。

要するに、すべては解釈の問題なのです。

ですから、もともと解釈を拒否する、あるいは解釈をゆるやかにする仏教の教えというのは、(これは人間ブッダが意図していたのかどうかはわかりませんが)、かえって争いの生じない教えなのではないでしょうか。



このことを知ったうえでブッダが単に人生とか人間の知恵として悪いことはするな、人を傷つけるな、こういったあいまいな言い方をして、様々なブッダの教えが東アジア、南アジアを中心に広がっている。

だからこそ、争いがないということであれば、これは、人間ブッダの慧眼だと思います。


なお、ここでの慧眼というのは、あくまでも人間としての知恵であるという意味です。

「正しいことを成せ」とブッダは言っています。


その中で、正しいこととは何か。

例えば、朝早く起きることは正しいことなのか。


酒を飲むことは正しいのか。



こういうことは、あまり言及していないように思われます。


要するに、細かいことは何も言っておらず、「大雑把なルール。そしてそのルールは、人間だれしも認められるようなルール」を言っているわけです。

例えば、


「悪いことをするな」

「人を傷つけるようなことをするな」


ということは、キリスト教でもムスリムでも、ヒンディー教徒でも、当たり前のことです。

ブッダが意図してやったことかどうかはわかりませんが、結果として、2600年ほどたって、このことの意義は、今、見つめ直す必要があることだと思います。


ある宗教なり、ある国家の憲法や法律であれ、国家同士の条約、そして国際法であれ、細かく決めれば決めるほど、そこでトラブルが起こっていることが現状です。

だから、仏教はあいまいだとか、いろいろな解釈がされるということを批判されますが、その結果、かえって争いが起こらないということで、


それこそが実は、ブッダの意図していたことかもしれません。


そもそも1000年以上前に書かれたものを、現代から見れば、「神のお告げ」として、絶対的な真理として認めると、解釈の問題が生じます。

究極的には一部の過激なイスラームの教義を曲解した人であって、テロリストにおいては、なんで罪のない人間を殺すのかについて、「神を信じないことが人間として最も重い罪である」と言っていると聞いております。

こういう解釈をめぐっての話ですが、昨今の憲法解釈とか、様々な法律の解釈や国際法の解釈を見ていると、同じ憲法なのに、学者であっても、様々な意見があり、中には全く正反対の意見を述べる例もあるようです。

こうしてみると、細かく解釈を制限するようなものは、かえって解釈の相違を産むようになるのではないでしょうか。


例えば、周辺有事というのは何を指すか、となればそれは非常に難しい問題で、いくらでも解釈できます。


もう一度申し上げますと、様々なことに関して細かく規定する以上、かえって、解釈の相違は起こり、それが争いの種になっているのではないか。

これは皮肉なことですが、細かい解釈をすれば、それだけ、学者や宗教指導者が細かい反論をし、細かい解釈に基づいて争うことになるのではないでしょうか。

ところが仏教では、生きているうちからブッダ自らが細かい解釈を否定しているように思われます。

想像ですが、当時のインド哲学を知っていた仏陀は、細かい解釈をすればするほど人間は苦しみ、争いが生じるということを知っていたのかもしれません。

例えば、当時のインド哲学において、唯物論を中心とした哲学がありました。

もしこれを認めるならば、どうなるか。

「人間がナイフで刺されて殺されたとしても、人間という物質にナイフという物質が入っただけだから、何の罪にもならない」

という解釈が、当時あったそうです。

仏教においては、玉虫色のあらゆる解釈があるから、欧米の人から見ると、仏教というのは何のことかわからない。


ある宗派では魂の存在を認めているのに、別の宗派では一切認めていない。

いうなら、宗派の数だけ仏教があると非難されるのです。

しかし結果的に見て、仏教の経典の些細な教義による大規模な殺し合いは起きていないのではないでしょうか。

なお、ここでもう一度念のため申し上げておきますが、宗教戦争というのは、宗教同士が教義の違いをめぐって争うことであり、宗教対世俗権力、あるいは世俗権力に宗教が乗った形のものは、「宗教戦争」ではありません。

学校の教師をしていると、さまざまな小学生や中学生から、昨今の中東情勢(主にIS)に関して、

「なぜイスラーム同士で争うのか、殺しあうのか」

という、素朴かつ極めて重要な質問をされることがあります。

この答えについて、仏教との比較で、あくまでも私見を申し上げます。

まず、現在のISの問題については、その背景に様々な歴史的な問題及び現在のロシア、アメリカ合衆国などのパワーバランスがあります。

さらに、「キリスト教徒同士で殺し合いをしていないのか」ということに関しては、それはまた事実に反するわけで、様々な殺し合いがあったことは事実です。

ですからここにおいては、大きな政治的問題、資源、エネルギー貧困の問題があることは事実です。

しかしながら、純粋に(「純粋に」宗教的な問題を論ずるのは不可能です)、

「なぜ同じイスラーム同士で争うのか」

ということについて、一つの個人的見解を申し上げます。

それはなんといっても、解釈の問題であります。

宗教というのが恐ろしいのは、それをどのようにでも解釈することができることです。特にイスラームにおいては、アラビア語の「クルアーン写本」を聖典としておりますから、なかなか外部の人間には理解しづらいのです。

私が唯一知っている日本人イスラーム教徒(ムスリム)に聞いたところ、アラビア語のクルアーン写本を日本語に訳すのは、万葉集を日本語に訳すようなものであり、不可能だ、ということでした。

つまり、聖書でもクルアーン写本にしても、今から1000年以上前に書かれたものであり、当時の時代背景や風習などを抜きには語れないわけです。

その中で最も難しいのは、クルアーン写本で、それは極めて特殊な文体で書かれています(ここで特殊というのは、聖書に比べて、です)。

ですから、クルアーン写本というのは、日本語に訳しにくい(もっとも、日本語であれ多国語であれ、訳してしまえば、これはクルアーン写本として認められないという見解もあります)。

そこには例えば、女性は保護すべきだということが書かれていますが、これは見方によれば、「女性の保護規定である」とも、また別に、「女には教育は要らない、子どもを産めばよいのだ」、とも解釈されます。

旧約聖書でも、「人を殺してはいけない」ということが十戒に書かれていますが、その前に、「神は自分のお姿を似せて人間を作った」と書かれています。

そこで、自分に似ていない人、例えば、肌の色が違う人は、人間ではないから殺してもかまわないという極端な解釈も出てきます。

さて、クルアーン写本においては、様々なことが比喩で書かれています。

たとえば、「異教徒は死ぬほど後悔しろ」と書かれているとします。

これを解釈すると、死ぬほど後悔しろということは、「殺してもいい」という解釈も成り立ちます。

ハムラビ法典においては「目には目を、歯には歯を」という言葉は、行き過ぎた復讐をしてはならない、寛容であれという意味であると聞いております。しかしながら現在において、この復讐法というのは通じない。

これはあくまでも、当時の行き過ぎた言動を戒めることである、と解釈できるわけです。

たとえば、「馬鹿は死ななきゃ治らない」という言葉が例えばあるとするなら、「馬鹿は殺してもいい」ということなのでしょうか?

このように、宗教そのものが悪いわけではなく、あくまでも、後世の人間が自分の好き勝手に、都合よく解釈しているというわけです。

ヨーロッパの避暑地には、日本人にはあまり知られていないけれども、非常に素晴らしく風光明媚な場所があります。

個人旅行で何度か訪れたことがありますが、いわゆる観光ツアーで行くことはまずありません。

そういった保養地には、ほとんど日本人はいないわけです。

湖や山、自然に囲まれた森林の中の高級ホテル、別荘地のような、本当にいいところがあるのです。

本当に旅慣れた方は、ホテルを上手に使います。



ホテルに荷物をすべて置いて、そのホテルを予約したまま、気の向くまま、ヨーロッパの保養地からイタリアの海辺やスベインのバルセロナやギリシア周辺のクルーズ旅行に参加したりするわけです。

ホテルの使い方が非常に上手なわけです。

ホテルからすべて予約し、ホテルをまるで自宅のように使っているのです。

こういった本当に高級なホテルにおいては、ほとんどの要望はかなえられるそうです。

もちろん、それなりのお金はかかります。

もっとも、一般の人から見たら、びっくりするほどの金額だと思いますが。

さて、個人旅行でそのような保養地に行ったときのことです。


そこには、日本人の老夫妻がおられました。

どちらも60代の夫婦だと思いますが、おそらく、日本人と会うのは久々だと思われました。

だからか、日本人のいない保養地で、たまたま迷い込んだような私に、声をかけて、少し身の上話のようなことをしたかったのだと思います。

当然、ちょっと見ればご夫婦とも大変な資産家で、教養もあるお方だということはわかりました。


その方がおっしゃるには、お二人とも東京で大きな病院を経営していた医師だそうです。

そして、そのご夫婦には、自慢の息子さんがおられたそうです。


有名小学校から中学、高校を経て、いわゆる一流大学の医学部を卒業し、その一人息子を自分が経営する病院の跡取りにするという予定だったそうです。

そして、自宅も大きな家を建て、子供の跡継ぎである息子の部屋も作り、何不自由ない幸せな老後を送る予定だったのです。

ところが、その自慢の息子さんが、不慮の事故で亡くなられたのだそうです。


東京の有名な病院の院長先生でしたし、また、さまざまな医学界の要職に就いておられましたから、有名人だったわけですね。

だから、自慢の跡取りの息子さんが亡くなられたことも、関係者にはみなさん口には出さないが知っているわけです。


そうすると、そのご夫妻は、あまりにも立派な家を建てて、これからここに息子と嫁と、孫とともに住むわけでしたが、そこで、かえってその大きな家を見ると、辛くなったそうです。

これから、老夫婦2人で住むにはあまりにも広すぎる、そして病院に行ってもやはり、ほかの方が気を使って下さる、あまりにも有名な医師だったから、かえってそれが苦しかったそうです。


そこで、その広すぎる家を処分し、病院の権利を他人に譲ったそうです。


当然、東京都内の豪邸を売り払い、大病院の権利を譲れば、相当なお金が入ります。

それで、ヨーロッパの保養地でずっとそれから暮らしているとのことでした。


次に聞いた話です。


あるところに、お年を召したご夫婦がいました。

いつも喧嘩ばかりしていたそうです。

特に、御主人のほうは、奥さんの料理に不満でした。


奥さんは、カレーしか作れなかったのです。

いつもこんなまずいカレーが食えるかと言っては、怒鳴っていたそうです。


奥さんは、何の反論もせず、黙って聞いていた。

ところがその奥さんがなくなってしまいました。


一人残された御主人は、とりあえず葬式や初七日や、あわただしい日々を過ごしてしばらくして、自宅で一人、ぽつねんと過ごしていました。

その時に、ふと、冷蔵庫を開けてみると、そこに、奥様の作られたカレーが冷凍して凍った状態で保存されていました。



それを見た御主人は、それを解凍して、泣きながら食べたそうです。

半年ぶりに食べる、死んだ奥さんの作ったカレー。

泣きながら食べるしかなかった。


今までさんざん、こんなまずいカレーはないと言っていたカレーが、これはもう最後だと思うと、こんなおいしいカレーはないと思って、泣きながら食べたそうです。

さて、今の2つの話を聞いて、どう思われるでしょうか。


この話は、事実でしょうか?

もしかしたら、私が創作した話かもしれません。


そうだったら、どう考えるのでしょうか。


要するに、ある現象(人間の振る舞い)を見たときに、それをどう解釈するかというのは、人間次第なのです。

解釈という言葉が難しければ、ものの見方と言い換えればいいと思います。

例えば、50代や60代の人に対して、80代や90代の親がぶつくさ文句を言う、腹が立ってしょうがない、そうはいっても、文句が言える内がまだ元気なのだと解釈することもできます。


要は、仏教の教えというのは、「ものの見方の革命」だと思います。


人間が死ぬとか生きるとか、病気になる、別れる、こういったものは、変えることはできません。

しかし、その解釈やものの見方を変えることはできるのです。


これが、ブッダの教えだと思います。

結局、自分の生まれから死ぬまでの苦しみやさまざまなことがらを対処しようというのが、仏教のオリジナルの教えです。


そうすれば、これはどのようなことになるかというと、自分が死んだ後について、自分の遺志なり希望を言う必要はないということになるわけです。



このことがいかに重要かといえば、多くの争い事、テロであるとか戦争であるとか、いわゆるイスラームのジハード(もっとも、「ジハード」というのは本来、「大ジハード」と「小ジハード」とがあり、必ずしも反対者を殺すというものではなく、本来は自分の内面の弱さと戦うことです)の名のもとにに、多くの人の命が宗教の名のもとに殺されてきたということは、歴史上事実であります。


その際、相手を殺すことが正当であるとの解釈に立てば、相手(ここでは異教徒なり宗教に反対する立場なり、自分の信じる宗教と相反する教えを説く人)を殺害しても、自分が死んでも、天国に行ける、と考えるからこそ、自爆テロなり戦争が起こるわけです。


そもそも、誰だって自分が死ぬのは嫌なわけです。


ところが、もし自分が死んだあとの世界というのを決められてしまい、それを信じ切ってしまえば、自分が死んでもテロを起こしかねない。

ある宗教の教えに従って、ある集団を殺害しても、自分は永遠に天国で暮らせる、一方、その教えに従わなければ永遠に地獄の業火で苦しむ、こう考える人がいたならばどうでしょう。


もちろん、社会の貧困とか政治の不安定さといった社会のシステムは無視できませんが、今この現実の世界で貧困や飢えに苦しんでいる人間にとっては、自分が今生きているということよりは、死んだ後に永遠に素晴らしい世界で救われるか、それとも、永遠に苦しむか、ということが、はるかに大きな問題となるわけです。



もちろん、人を殺すことを肯定する宗教というのは基本的にはありません。


だから、宗教における様々な争いは、政治的体制、貧困、政治的対立…このような者から起こっているわけです。


とはいえ、これまたおかしなことであって、1000年前、2000年前には、たしかにその教えは正しかったかもしれない。


しかし現在のような複雑な社会、あるいは植民地化により非常に貧しい生活、貧困や失業に苦しんでいる人、こういった人においては、自爆テロのようなことも思いつかざるを得ないのではないでしょうか。

時代が変わったことによって教えを変えられない。


これが宗教の最大の問題だと思います。