姉弟子の宮川嘉有子先生から衛藤先生との思い出をご寄稿いただきました。戦前から戦中の思い出話を抜粋してご紹介いたします。当時はまだ戦局が色濃く、国と国の為に戦う人たちのことを思う衛藤先生の強いお気持ちが伝わってくる内容です。(若干、補足を書かせていただいています。)

 
--- ここから ---
衛藤先生は立て続けに作品を発表されました。
  • 昭和16年(1941)秋、17歳の時に日本三曲協会主催、文部省後援の第一回作曲コンクールで『箏尺八二重奏曲』(副題『祝典』)が1位入選
  • 翌年(1942)には勝利への曲(現題『希望の曲』)で2位入賞し、文部大臣賞を受賞。キングレコードより文部省推選レコードとして収録された。
  • さらにその翌年(1943)には『建設のひびき』で再度1位入賞。

このように、華々しくデビューを飾られました。

 

ところが丁度、1941年から勃発した太平洋戦争の戦局がだんだん厳しくなってまいりました。当時を思い出して大塩先生(衛藤先生の姉、箏曲家)が「先生がどうしても慰問に行くと言ってきかないものだから、お箏を抱えた先生と一緒に、私も命がけで焼夷弾の中を行ったのよ。」と話されると、衛藤先生も言葉を続けられました。「目が不自由だった為に戦争に行くことが出来なかったので、私も自分に出来る何かをしてお役に立ちたかったのです。」

 

先生はやり場のない思いを作曲に傾けて、『勲の曲(現題 『宴の華』)『岐阜提灯』『母を讃える歌』『月見草』『みどりの朝』『湧き出づる力』『村の秋』『そよ風と共に』を次々と作曲。疎開で家族と共に北海道に行かなくてはならなくなった愛弟子に『すずらんの歌』(現題『薫る花』)を作曲して別れに贈ったのでした。
----ここまで---
私は戦争時代のことは親の話やTVからしか知りません。大変な時代だったのだなあ、と思います。そんな中、日本の為に自分に何ができるのか、と真剣に考えられ行動される衛藤先生のお姿が目に浮かびます。
 
今の私は、、、その衛藤先生の精神や音楽を後世につなげて行きたいと思っています。写真は私の箏教室の看板。年始にはケーブルTVで紹介されます。。。その話は次回。