ゆとり大学生noshiの日記

ゆとり大学生noshiの日記

ゆとりで文系大学生、それじゃ駄目ですか?
日々の自分の考えをつらつら書いていきます。

Amebaでブログを始めよう!
 お久しぶりです。noshiです。課題に追われて1週間以上ろくにパソコンに触れませんでした。笑
これからはこのぐらいの隔週ペースで記事を書くぐらいがちょうどいい気がしてきました。とりあえず気が向いたら更新することにします。

 ずいぶんと間が空いて僕も議題を忘れつつあるので振り返りも兼ねてさらっと復習したいと思います。前回の記事では

①高校までの英語の授業が実践的ではないから、生徒と保護者の危機感を煽って改革への意識を高めることが必要

という内容の事を書きました。なので今日の記事は

②大学の講義は授業型の講義が多すぎる

これについて考えます。

 事前に断っておきますが、僕が今から書く内容は文系の講義向けの内容です。理系の講義はどうしてもノートに書いて内容を理解するスタイルが必要になっているので・・・悪しからず。

 まず、大学の授業風景になじみのない方のために動画を紹介したいと思います。
小原克博「聖戦論(2)──近代日本の場合」(講義「宗教と平和」第11回、同志社大学)
これは関西の私立大学におけるトップ校である同志社大学の講義です。生徒の方にカメラが向けられていませんが、3分ほど見てもらえれば生徒の発言が無いのがわかると思います。
 これを見て、「これは生徒に予備知識を与える段階であって、講義が進むにつれて参加型になっていくのではないのか」と言う方がいるかもしれませんが、これは第11回目の講義です。大学の講義は基本的に15回で構成されています。11回まで予備知識のインプットに時間を割いて、残りの4回がディスカッションに充てられるとはちょっと考えにくいですね。
(あくまで大学の典型的な授業の一例として引用させていただきました。同志社大の講義や特定の教授を批判したいわけではありません。)



 では、一方で、欧米型の例を挙げてみましょう。以下のリンクは、日本で恐らく一番有名なアメリカ人教授のマイケル・サンデル教授が東北大学に来て講義をされた時の動画です。
マイケル・サンデルの白熱教室@東北大学 (1/4)
英語が聴衆にあまり伝わらなくて少し困っていますね(笑)それはともかくとして、彼は日本の講義とは対照的に、聴衆に積極的に意見を求めています。白と赤のカードを渡して意見を表明させたり、マイクを渡して自分の口で意見を出させています。


 今この記事を読まれている大学生の方、もしくは自分が大学生だと仮定して、どちらの授業を受けたいですか?国公立大学だと一回の講義は平均2300円、私立大学では3800円に昇ります。それだけのお金を支払って、受けたい講義はどちらですか?


 恐らくサンデル教授の講義の方が多いと思います。僕は少なくともサンデル教授の講義を選択します。だってそうでしょう?高い講義料、特に僕のような奨学金で4年間に400万の授業料を自分で支払う学生からすれば、どちらが有意義化は一目瞭然です。
 はっきり言って、日本で行われている講義は学校の図書館で借りられる本で内容が賄えてしまいます。実際にテストも一冊指定の教科書を読めば最低でも単位はもらえるようになっています。そんな教科書1冊分の講義よりも参加型の講義の方がよっぽど面白そうですし、大人数が一堂に会して同じことについて考える大学の講義は「自分の考えをきちんとまとめて人前で発表する」絶好の機会です。大学を卒業してから、100人以上が集まる部屋で自分の意見を話す場が他にありますか?貴重な4年間を無駄に過ごすわけにはいかないのです。


 また、上の動画を見ると、日本人が発言することに慣れていないのが浮き彫りになりますね。比較対象としてサンデル教授の2013年TEDトークの動画がいいでしょう。
(Michael Sandel: Why we shouldn't trust markets with our civic life)
 動画の7分ぐらいのところから聴衆の発言です。発言自体はそんなに長くないですが、自分の意見がはっきりしていて淀みなく喋っています。


 これは英語力がどうのという話ではなく、話を聞いて自分の意見を形成できるか、という話です。東北大での講義からでもわかる通り、私達の母語である日本語で意見を言う時でさえ詰まったり、意見があやふやになったりします。これは訓練が足りないからで、練習さえすれば誰でも出来ます。

 国際化の波が迫る現代、自分の意見を持つことの意味が急速に高まっています。人口減少への対策の一手として移民も今ホットな話題ですね。確実にこれから日本人が外国人と交流する機会は増えます。そんな中で、ちゃんと相手と議論する技術はマストになるのは目に見えているでしょう。


 将来には、それも遠くない未来に、完全自動翻訳機が開発されると言われています。恐らく僕たち10代20代が生きているうちに日本語⇔英語は完成するでしょう。ですから僕は英語や外国語が出来なくてもいいと思っています。しかし、未来のほんやくこんにゃくが僕たちの手に渡ったとして、今のままで外国の人達とまともに議論できるでしょうか?


 
 この記事を見て少しでも何か感じてもらえればいいなぁと思います。
 


  それでは!

   どうも!noshiです!ぼやぼやしてると三日も空いてしまいました。
 さて、前回の続きですね。と、後編に入る前にここで軽くネタばらしをしておきます。
ここまで語った前編のきっかけになったのは大学で僕が受講している英語の教授が講義のたびに僕たちに警告してくれている内容です。彼は大学を卒業後10年近くアメリカの大学と転々として心理カウンセラーの勉強をしていたそうです。アメリカでのキャンパスライフが長すぎた経験からか、僕たちの講義中、彼はいつも日本とアメリカの講義のギャップに怒って(?)います(笑) 「なぜ君たちは講義中そんなに静かなの!?」「もっと意見出してよ!?」という発言から始まり、毎回、長い時は30分近く使って僕が前回書いたような内容の話をします。
 
 正直に言うと、最初は僕もうんざりでした。というか、現在進行形でその講義を受けていますが、他の学生は今でもうんざりしていると思います。学生からしたらこんなややこしい話よりも1時間半淡々と講義をこなしてくれた方が楽ですからね。なので、およそ30人の学生のうち、教授の話をまともに聞いているのは僕を含め10人に満たないでしょう。ですが、何人かは先生の話に耳を傾け始めました。自覚と危機感を持ち始めたんだと思います。個人的には、ただ1時間半教科書の解説をする先生よりもよっぽど価値のある授業だと僕は思います。
 話が逸れましたね。とりあえず、この気付きやきっかけはこのヘンテコ教授によるところがほとんど大きいということだけお伝えします。


 軽く前回の振り返りをします。今まで皆さんが受けてこられた英語の授業は実用に足らず、大学まで含めると6年~10年の英語の授業を受けても話すことが出来る人はほんの一握りに過ぎない、ということと、高校までの授業スタイルで大学の講義を進めているために、生徒からの自発的な発言や思考が得られていない、この二つが問題だと述べました。
 順番に考えていきましょう。



①なぜ10年もの英語教育にも関わらず全く日本人は英語を話せないのか?
 ここは英語教育において日本よりも大きく先を行く同じアジア圏の中国を例にとって比較していきます。(中国のデータはここからとっています→英語教育エッセイ:中国の英語教育から見えてくるもの

 まず、英語に費やす時間と期間はどうでしょう?
先ほど10年もの、と述べましたが中国はもう少し長いですし、まず始めるのが早いです。日本では、2011年度より小学5年生から英語が必修科目化しました。一方で中国では小学3年生から英語が始まります。この差を僅か2年と捉えるか、2年も早いのか、と捉えるのでは大きく違います。一般に、外国語はその学習が早ければ早いほど習熟率が高くなると言われています。個人的には、今英語が出来ないのを早くから教育されなかったことのせいにしたくないので、完全に肯定はしませんが、早ければ早いほどいいというのは否定できません。


 しかし、いくら小児期の2年の隔たりが両国の教育の間にあったとしても、それだけが原因でしょうか?他にも原因がありそうですね。国の教育指導案については僕よりも本職の方が大変詳しい記事を書かれているので、少し見方を変えてみましょう。


 日本人が英語を使う機会が少なく、必要に迫られていない、ということです。僕たちのような学生ならまだしも、普段日本の会社で働くサラリーマンやOLの方はどうでしょう?一年間を通しても、英語を使うことは両手で収まるでしょう。それも、しっかりとした会話やディスカッションを英語で、といったことではなく、外国人に道を聞かれて片言で説明した、ぐらいがせいぜいだと思います。このような生活では英語を頑張ってみようという意識が生まれないのは当たり前です。日常で使う機会のない勉強は誰だってしたくありませんからね。一部の人以外は高等な数学や物理の勉強にやる気が湧かないのと同じです。(僕が根っからの理数系ダメ人間からかもしれません!好きな方がいたらごめんなさい!)


 ではなぜ、そのような状況になったのでしょうか?
 これまで、日本は戦後から右肩上がりの経済的成長を遂げてきました。その成長ぶりは一連の経済成長が「東洋の奇跡」と呼ばれるほどです。このように経済が発展し続けたかつての日本で、海外に市場を持つ(持とうとする)日本の企業以外に、英語を必要とする流れは生まれなかったことでしょう。国内で働き続ければ、日本も自分も豊かになると誰もが信じ切っていた時代です。(当時の潮流を批判したいわけではありません。このような時代に生まれていたら僕も間違いなく同じようにしていたと思います。あくまでそういう時代だったということです。)


 しかし、ここ10年か20年ぐらいで日本を取り巻く状況は大きく変わりました。バブルは弾け、日本以外のアジア諸国、それもこれまで後進国と呼ばれてきた国々の台頭や、日本の企業の海外での苦戦、海の外では他の国が着々と力をつけつつあり、じりじりと海の向こうから追い詰められています。



 
 それに、僕はこれが一番大きいと考えていますが、日本国内の内需の縮小です。戦後日本の経済成長は戦後すぐの第一次第二次ベビーブームによる人口の爆発的増加に裏付けられています。朝鮮特需による外需とベビーブームによって生まれた内需が重なって経済が爆発的に成長しました。俗に言う団塊世代の方たちですね。今でこそ僕らゆとり世代と同じくらいの頻度で槍玉にあがる団塊の方々ですが、彼らは戦後の日本の経済成長に大きく貢献しました。


 今はご存じの通り超高齢化社会であり少子化社会です。今や65歳以上の人口は総人口の25%を占め、2035年には日本人の3人に1人が65歳以上の高齢者になると言われています。さらに人口の減少もひどく、平成25年12月1日付けの総務省の記録では1億2565万4千人の総人口が、2048年には1億人を割って9913万人になる計算です。これらは政府の平成24年版 高齢社会白書から数字を取っています。国が公式に出した試算ということです。未だ国が少子化対策に具体的な対策を見いだせていない今、改善は絶望的と言えます。



 今、このような状況をどのくらいの日本人が理解できているかはわかりません。でも、少しずつ若い世代を中心に危機感を覚え始めているように感じます。電車の広告一つとっても、英会話や、TOEIC、TOFLEなどの英語系資格のビジネスマン向け広告の数は、僕が本当に小さな子供の頃よりも増えたように思います。といっても直接数を取って確認したわけではありませんし、思い込みかもしれませんが(笑)
 ですが、まだまだ意識は低いように思います。その広告のメッセージの大半が、さらなるスキルアップ、とか、もっと出来る人に、だとか、興味がある一部の人間に対してだけ発信しています。「今のままの日本じゃ食ってけないから、英語を勉強しなきゃヤバイ!」というような危機感あふれるメッセージを持った広告を僕は見たことがありません。

 ここまで偉そうに話しましたが、このあたりに気付いたのはほんのここ最近です。僕はこのような事実を知ってから、すぐ英語の勉強に取り組み始めました。受験以外でほぼ勉強しなかった僕が、本気で勉強に取り組めているのは本当に危機感を覚えたからです。大人たちの勝手な都合で「ゆとり」呼ばれるのは悔しいですが、今後の日本がまずい状況なら、然るべき手を打っておかなくてはなりません。

 話を戻します。英語が出来るようになるためには、文科省の方々が頭をひねって考えている政策や指導案による授業の質の向上もちろんですが、生徒、および保護者の意識改革が不可欠です。僕が今こうして感じている事実や危機感を持って世の中に警鐘を鳴らすことで、子供のみならず、大人たちにも少しは英語の必要さを実感してもらえるのではないでしょうか。



すみません・・・予想外に長くなってしまったので、ここでいったん終わりにしたいと思います・・・
次の「大学の講義について」は次の記事で書きます・・・申し訳ありません!



それでは!
どうも、こんばんは。noshiです。
 

 突然ですが、この記事を読んでらっしゃる方は、昔自分が受けた(もしくは今現在受けているのも含め)英語の授業を思い浮かべてどんな印象を抱きますか?もちろん一人の先生に6年以上の英語の授業を持ってもらったわけではないですから、思いつく限り当時の様子を想像してみてください。習ったのであれば予備校や塾の先生も含めてもらって結構です。


 どうでしょうか?あの先生嫌だったなぁ、とか、あの先生は生徒のこと考えてくれてたなぁ好きだったなぁとか、様々だと思います。では、その中で、よい先生、もっと言えばこの先生に教わって良かった!と思えるような先生は何人いるでしょうか?僕は中高6年間の学校生活でざっと数えて15~20人程度の英語の先生に教わってきましたが、本当にこの人で良かったと思えるような人は3人しかませんでした。
 
 では、先ほど思い浮かべてもらった授業の様子ですが、どんなものだったでしょう?おそらく日本で教育を受けた方ならばほとんどが授業中はイスに座って静かに先生の話を聞いていたと思います。もちろん僕もそうです。

 そして最後に、そのような学校の授業で、何か得るものはあったでしょうか?英語が話せるようになったのであれば大成功ですし、それでなくても、発言する力や、他人とうまくコミュニケーションをとれるようになったならば大きな価値のある授業だと思います。
 ですが、ほぼ確実に中高の教育で得たものは受験用に詰め込んだ文法や単語で、実生活に役立てるようなスキルは身につかなかったでしょう。


 これは、由々しき事態です。もちろん現場レベルでの批判をしているわけではありません。教師の方がもしいらっしゃれば、「私たちには教えなきゃならない文法ややらなきゃいけないことが決まってるんだ!いちいち脱線してたら指導要領に載ってる分が終わらなくて叱られる!」と怒るでしょう。むしろ今の現状で生徒から素晴らしい授業だったという評価を受ける先生を褒めるべきでしょう。
 

私が言いたいのは、学校での授業が受験に特化しすぎていて、ほとんど実生活に役立っていないし、それの改善のためにはもっと上からの改革が必要だということです。
 例えば、英語教育では成功を収めていると言っていい中国、上海のある高校(偏差値的には中程度)では、授業が全て英語で行われており、自分の意見を述べることを生徒にさせています。もちろん生徒もちゃんと英語で意見を発表しています。これは現在大阪府の教育長をされている中原徹氏の意見発表に詳しく述べられています。少し分量は多いですが文科省のリンクを載せておきます。
現大阪府教育長・中原徹氏の意見発表
(これで張れてるのか・・・?わからないですがもしちゃんとリンクできてなかったら「中原徹 意見発表」でググってもらえれば一番上にヒットします)

 センター試験や2次試験という受験の突破が主眼になっているために、実際の英語コミュニケーション能力が全くと言っていいほど養われていない、ということです。それは日本で英語教育を受けてきた皆さんが一番わかっていると思います。
 さらに、問題はこれだけではありません。主体的に意見を言う能力が学生に備わっていない、養われていないという問題です。


 これは英語教育に限った話ではありませんが、今の学校教育のスタイルは、生徒は先生の話を黙ってじっと聞いているのをよしとされる傾向があります。むろん、積極的な授業参加を生徒に促している先生もいらっしゃいます。ですが、私達にとって、授業中みんながそれぞれに思ったことや自分の答えを積極的に発言する光景は非常に珍しいでしょう。
 まぁ、それでも高校までの授業では仕方ないとしましょう。現状では如何ともしがたいのは確かです。では、大学ではどうでしょうか?
 私にとって大学は自由な場です。学生は自分の好きな事をして、様々な、それぞれの意見が自由に飛び交う場所、このようにあるべきだと考えています。事実、学生はアルバイトやサークルに励んだり、思い思いのことをしています。恋愛するのもいいですし、ひたすら勉強に打ち込むのも一つだと思います。しかし、教育機関である大学としての面はどうでしょう?

 よく今の大学は、モラトリアム期間だとか就職予備校だとか揶揄されます。大学生の僕に言わせてもらえるならば非常に的を射た表現だと思います。なぜかと言うと、今や大学全入時代だと言われるほど大学の進学率は高まっており、高卒の2人に1人が大学に入学します。就職が困難なこの時代、一種の社会的ステータスとして大卒が扱われ、猫も杓子も大学に入って大卒の肩書だけ手に入れて社会に出ていきます。大卒が社会的なステータスであることには間違いありませんが、こうまで人数が多くなると大卒としての社会的信用度は相対的に下がってしまいます。
 こうした「ただ大卒の肩書が欲しい人達」はもちろん講義を受けるためではなくて、単位を貰って大学を卒業することを第一として在籍します。これは一部の低偏差値大学の話ではなく、ほぼ全ての大学に言えることだと僕は考えています。
 このような人達を生んでしまっている原因はここで私が一口に言えるほど単純ではないので書けませんが、その一つに「大学の講義のスタイルが高校までの授業スタイルに引っ張られていること」が挙げられます。
 今日も大学で講義を受けてきた僕ですが、これは本当にどの講義にも言えることです。僕の通う大学は、特に偏差値が高いといったことはなく、普通の大学ですが、名前を出せばほとんどの人が名前を聞いたことはあるぐらいの大学です。教授が教壇に立ち、だらだらと話をして、ホワイトボードかプロジェクタに映る文字をレジュメやノートに写すのは日常です。これでは高校までの授業となんら変わりません。大学は社会人になるための準備だとするならば、それなりの講義をすべきです。学生と教授の思考がもっと活発に交流するような、簡単に言うとアメリカ的講義スタイルです。今はyoutubeで「大学 講義」と検索をかければ様々な大学の講義がアップロードされていますし、アメリカ式の講義で最もわかりやすく認知されているのはマイケル・サンデル教授の講義でしょう。ハーバード大の名物教授であり、東京大学に講義に来られたこともあります。講義の中では生徒は投げかけられた質問に自分で考え、挙手し、マイクを持って自分の考えを毅然として発表しています。
 
 僕は今の日本の大学に圧倒的に足りないのはこの力だと思います。自分で考えて、大勢の前で意見を発表する。言うのは簡単ですが、行動は難しい。ここまで偉そうに語っていてなんですが、私もほとんどできていません。人前で発言するのは苦手ですし、プレゼンなど発言の舞台ではいつもアガりっぱなしです。

 アツく語りすぎましたね。調子に乗って書くとここまで長くなってしまいました(笑)ともかく僕が言いたいのは、
①高校までの英語教育では、ただ座ってノートに書き込む授業が多すぎて、実際的な英語を使えていない
②大学の講義でも、教授が言うことをメモするだけの一方的な講義になってしまっていて、学生が主体的に考える力が全く培われていない
この2つです。


これを変えるにはどうしたら良いでしょうか?また僕たち学生が、今からできることとは何か?今回のこの記事では問題提起だけに終わってしまったので、次の記事で僕の考えを書きたいと思います。
大変長くなってしまいましたが、読んでいただいた方ありがとうございます!

それでは!
初めまして!
僕はnoshiといいます。どこにでもいるような普通の大学生をしています。

 まず、このブログを開設するに至った経緯を書きたいと思います。
これまで、ブログというのは芸能人の方や一部のとんでもない学歴や実績を持った人間が書く、とても面白い記事の集まりだと考えていました(笑)もちろん、プレビューがとても少なくても、自分の日記として書いてらっしゃる方も多くいます(絶対数では後者の方が多いとは思いますが)。
 それに、僕の中では、自分の顔や名前を全く知らない、ネット上でしか自分のことを知らない人が一定以上見てくれて、ブログは初めて価値を持つものだと考えているところがあります。
 つまり、極端に言うと、面白い記事を書けないブログは存在している意味がないと考えていました。なので、たまに面白い記事を見ても、自分にはこんな興味のわく内容は書けないだろうと思うので、ブログを書こうという気はほとんど起こらなかったんですね。


 これがつい2月ほど前までの僕の頭の中でグルグル回っていたことです。しかしある時、偶然にある一つのブログを目にしました。ここで名前を出すことは控えますが、その方は40代の普通の女性でした。彼女は、ニュースや普段感じたことを自分の独自の視点で考え、誰も思いつかないような結論にたどりついていました。ある時はコメントやメールなどで真っ向から彼女の意見を否定する読者もいましたが、毅然として自分の論調を崩さずに論理的に議論を交わしていました。これに僕は甚く衝撃を受けました。一般の女性にこんな面白い記事を書く人がいるなんて、思ってもみなかったし、文章の筋が非常にちゃんと通っていたのにただ驚くばかりでした。なんというか僕は偏見が物凄く強いので、心のどこかで女性は論理だてて話したり書くのが苦手だという印象がありました。しかし、彼女の文章はその印象を一瞬でブチ壊しました。
 本当のことを言うと後で確認したプロフィールには彼女がMBAを持っていることが書かれていました。一般40代女性とは少し違いましたね(笑) ともかく、その時彼女のブログに衝撃を受けた僕は記事を読み漁りました。その中で、彼女の著書について書かれた記事があり、それはそれは僕の興味をそそりました。 こんな記事を書ける人が一つのテーマについて一冊の本にまとめたら、どんな面白い、自分の知らない内容になるのか、気が付いたらアマゾンでポチっていました(笑)
 本が家に届いてからすぐに読み始め、半日程度で読み終わりました。内容は、自分の知識と、思考を分離して、本当の意味で『自分の頭で考える』ことについて書いていました。与えられたデータ、情報に対する考えは僕たちの頭の中に既にある先入観によって歪められている。純粋に自分なりの結論を出す方法、平たく言えば彼女の思考メソッドが著されていました。この本を読んでまた私は衝撃とか感動とか言ったものを覚えました。普段あまり感動した!とか泣いた!だとか感情の起伏が激しくない方なのですが、この方の文章にはそんな僕の感情をゆすぶって、常識を根底から覆すような力がありました。


 それからは、僕の文系大学生という社会的な地位に対する焦りも手伝って、色々な本や勉強に対して一気に興味が湧いてきました。
 どういうことかというと、まず、これまで何も考えずにのうのうと生きてきた自分の20年ほどの生涯に、もったいなさを感じました。恥ずかしい話、今まで本を読んだ経験といえば小学校の時に三国志や南総里見八犬伝、後はマンガを読みあさっていたぐらいで読書らしい読書の経験がほとんどありませんでした。もっと早くこの人の文章に出会ったら、もっと早く自分の無知さに気付いていたら、もっと人生が変わっていたんじゃないか。そう考えると今からでも遅くはないから頑張ってみようと思いました。
 それに、就職に関する焦りです。僕たちはいわゆる「ゆとり」世代です。おそらく今大学生の人たちはゆとりが最盛期の、言うならばゆとりのエリート世代です。そんな僕らは今、就職の場面でとても厳しい時代にいると思っています。戦後の高度経済成長期、バブルの頃の就職事情とはワケが違います。今は就活生がエントリーシートを50以上出すのはもはや当たり前に近い超買い手市場です。大手企業に就職するのであれば100倍以上の倍率を潜り抜けなければなりません。このように就職が厳しいと言われる時代、将来について焦りを感じるのは当たり前です。今や終身雇用制度も維持が難しくなっています。苦労して企業に入ったところで、会社が今後の一生を保証してくれるわけではありません。今こんな状況で、僕たちが会社に入るころには改善しているようには思えません。だから、将来に向けて何かしなければならない、という焦燥感は僕だけではなく、今の若い世代のほぼ全員がヒリヒリと肌で感じていることだと思います。
 しかし、すべきことが何なのかわからずに、結局何もせずに学生時代を過ごしてしまう人が大多数なのも事実です。他の人間と差をつけて、困難な就職活動を乗り越えるための、あるいはもっと別の方法で食っていくための方法が僕たち学生にはわかりません。
 しかしここで、なんとなく時間を浪費することに対して危機感をより募らせて、行動に移せるまでにさせてくれたブログに出会えたのは僕にとって幸運です。具体的に将来に向けて何をしろ、と書かれていたわけではありません。ただ、自分の頭でモノを考えて行動しろ、と書かれていただけです。
 それがここ最近の僕のエネルギーになっています。色々と考えた結果、今の自分には、
①まず知らないことが多すぎる。知っている事に対しても考えていない。
②客観的に見て、自分の能力や付加価値と言えるものがほとんどない。
この二つに落ち着きました。

 ブログ解説に至った原因に近いのは①になります。
これに加えて、色々な記事や本を読むうちに自分に欠けているのが、自分の中で処理した考えを言葉や文字にして出すことです。簡単に言うとアウトプットですね。(個人的に僕はこの言葉はあまり好きではないです。なんだか気取ってるような気がして(笑))ニュースや出来事を見た時、頭の中ではなんとなく考えています。考えたことに対して深く突っ込まないので、後で思い返すと忘れているので、あぁ何も考えていないんだなという風になるわけです。他の人に伝えるためには考えたことをすみずみまで輪郭がはっきりするように考えなくてはいけません。知らないことよりも、自分の考えをきっちりと示せないことに強い危機感を覚えました。

 前置きが大変長くなりましたが、この出力のための手段としてブログを始めてみよう、と思ったわけです。友人に話してアウトプットすることも考えましたが、こんなことを大真面目に語ったら煙たがられるのが目に見えているのですぐにやめました。はっきり言うととても残念ですが…。周りにあまり本気で将来について考えている友人がいないのは事実なので、ブログ上で記録をつけて、あわよくば意見交換できれば良いなと思っています。

 なので、このブログの趣旨は僕の考えをまとめた記録になります。普段感じたこと、考えたこと、見た聞いたものに対しての僕なりの、(どれだけ拙くて間違っているか想像もつきませんが)意見をここにつらつらと書いていきたいと思っています。
 コメント等もしてくだされば当然僕の励みになりますので、よろしければお願いします。
初めての記事で張り切って書いてしまいましたが、せめて三日坊主にはならないように頑張りたいと思います(笑)

それでは!