令和6年5月28日午後3時21分

母、逝去しました。

 

当日、僕は夢を見ていました。

場面は長く住んでいた大阪茨木の家の中。

母「このままじゃ、あの家持ってかれちゃうよ」

弟「‥」

僕「んっ?」

 

「あの家」とは今現在、僕が住んでいる函館の家の事。

持っていく人とは、叔母(血は繋がっていない。僕の祖母の養子になった人)の事。

 

今住んでいる僕の家の名義は母。

もしもの時、この家という遺産をどうするのか?

という僕の心境の現れでなのでしょう。

ただ(この夢じゃない現実の世界では)叔母が持っていくという事はありえない‥。

 

 

とにかく母が夢にはっきりと出てきたのでした。

 

 

そして夢から覚め、しばらくすると母の入院先の病院から電話が。

母に何かあれば電話をくれる、いつもお世話になっている看護師さんでした。

 

「お母さんですけど、息苦しくなってます」

 

 

 

そして病院へ。

 

 

心臓の動きを表すメーターは動いている。

が、母は動かない。

瞬き一つしませんでした。

 

「お看取りのお言葉を」

医師は言います。

 

 

ありきたりの言葉しか出てこない、まるでロールプレイングゲームのNPCの様な僕でした。

 

 

 

「午後3時21分。呼吸の様子が見られない為、お亡くなりになりました」

 

 

 

この日の前の日。

たまたま、と言ってはなんだけど、たまたま病院の面会の予約をしていた僕はまだ動いている母に会っていたのでした。

”動いている”と言っても、とっくに寝たきりの母。

体は皮と骨しかない状態。

口は動くが発生は出来ない。

まるで有名なアインシュタインの写真の様に舌を出してちょっとひょうきんな仕草をする母。

僕も舌を出して答える。

 

 

ほんとにとくになんでもない1時間半の時間でした。

 

 

そして今日(本日)を迎えたのでした。

 

”虫の知らせ”ってあるもんですね。

 

 

そこからはバタバタと‥。

 

葬儀屋に電話。

父(母とは離婚してるけど)に電話。

弟に電話。

 

しばらくして葬儀屋が霊きゅう車(と、いってもあまり霊きゅう車(霊柩車の「柩」は常用漢字に含まれない為、表記するには日本の法令的には「霊きゅう車」らしい)には見えない黒い縦長な車)でお出迎え。

 

霊きゅう車乗るなんて初めて。

 

K医師(母が15年は入院していた病院の、母の主治医になった参代目の先生。初代(壱代目)はT医師。10年ほど前「あと2週間ほどの命」と言われた事がある。であるが奇跡の復活!さすがは俺のオカン。弐代目は若い男の先生。すぐ辞めっちゃたのもあって名前忘れた。※なぜ「壱、弐、参」と表記するのかというと、お布施の袋にお金入れる時にこう書くから。ってこんなんどうでもいいか)と看護師達に見送られたのでした。

 

家に着いてからは葬儀屋と打ち合わせ。

この葬儀屋さん。ほんとお世話になりました。

お布施の袋まで準備してくれる。

評価、星五つ!

 

 

 

↑勝手にリンク貼ったけどいいのかな?だいじょぶよね。

 

 

さらにお寺さんに電話。

夕方には駆けつけてくれました。

 

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5月30日。お通夜。

 

火葬場の予約が31日になった為、30日にお通夜。

 

函館(調べると北海道と東北地方より北側では。らしいが)ではお通夜、お葬式の前に遺体を火葬してしまうのが一般的。

10年ほど前か、僕の祖父の葬式の時、お通夜に駆けつけた僕は最後に顔ぐらい見れると思ったら既に骨(灰)なっていた。

 

後でお寺さんに聞いてみると‥。

 

諸説あるが、一つは函館大火。

 

 

 
ご遺体を前に葬式をするも何も、既に焼けていた‥
 
 
 
もう一つは青函連絡船の沈没事故。
 

 

 

無惨な水死体は、まず焼くしかなかった‥。

そして青函トンネルが掘られたようですね。

発案はこの事故より前からあったそうですが。

 

 

 
↑これはこれで着工中、水没事故などあったようです。
 
そういえば青函トンネルって鉄道しか通ってないって(緊急車両道路はあるみたい)、こっち(北海道)に来て初めて知りました。
日本人なら知っておきましょう。
 

 

諸説あるが、こういった未曾有の事例があったから。

 

 

定刻より少し早めにお経を読んで頂きました。

 

参列者、僕一人。

 

母よ、寂しがらないでくれ!

俺は居る!

 

買ったばかりのスーツに身を包んだ僕でした。

 

 

 
 
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31日。
 
朝からお寺さんに来てもらいお見送りのお経を。
 
そして葬儀屋さんがこの後燃えてしまう母の入った棺桶にお供え物である餅とご飯、お花などをを入れていく。
餅もご飯もお花も葬儀屋さんが用意してくれた物、だったのだが‥。
もうとっくに冷めているそのご飯を取り替えようと、昨夜から米を炊いておき、朝一番に葬儀屋さんが用意したご飯とはとり替えていた僕でした。
 
せめてと思って。
 
そしてそのご飯は棺桶に入れられて一緒に燃やす事になるなんて知らなかった。
なんだかちょっとは親孝行した気分。
俺の炊いた飯でも食ってくれ。
って、ちょっと水多く入れすぎたのか柔らかすぎたけれど。
 
 
 
火葬場へ。
函館に来て三年。
その施設はそこにありました。
 
こんな立派な施設あるなんて知らなかった。
 
火葬は1時間半ぐらい掛かるという。
その間は待合室へ。
 
 
広い。
20人はくつろげる。
 
売店があるというので売店へ。
行ってみると缶ビールがあった。
今日ぐらい飲んでしまおうか?
お酒ばっかり飲んでいるあの頃なら、なんの躊躇もなく間違えなく飲んでいたであろうビールですが。
 
ノンアルコールビールを手に取りました。
 
やがて火葬が終わり遺骨を拾って、それ専用の箱に入れて行く。
こういう事するのも初めてで。
っていうか、こんなに燃え尽きるもんなのね。
細かい骨なんかは粉々に。灰になっていました。
 
その遺骨を持ってタクシーに乗り込み、家に帰ったのでした。
 
祭壇に遺骨と遺影を飾り。
 
 
とりあえずこれで今日のところは終了かな。
 
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人の言葉を借りますが、僕に人生を教えてくれた母。
 
女で一つで僕と弟を育ててくれた母。
 
あの世では
まあ好き勝手やって下はれや
 
 
じゃあね