40歳をすぎたあたりから、趣味の仲間と手紙やハガキのやりとりを続けている。
書き始めたころはもの珍しさもあり、ひと月のあいだ同じ人に二、三度書くこともあった。今では落ち着いて月に一度のペースになっている。
飽き性のわたしが何故17年ほども同じことを続けていられるのか。それは相手がいるからこそだと気がついた。
何か面白そうなことを思いついて始めたとしても、一年ももたず放置されていることが殆どだからだ。
ラインやメッセージで簡単に意思疎通ができるようになってもなお往復書簡は続く。
わたしに書く気がなくても相手から手紙がくれば返事を書く。
「書く気がない」というのは、その日そのときの「わたしの気分」であって、別の日になりペンを取れば筆が進む。そうやってやりとりは続いていく。
最速なことよりもノロノロ進めていくこと、そこに心地よさがある。
たとえば新幹線よりも鈍行列車、自動車よりも自転車や徒歩での移動。
時間のかかるもの、時間をかけたもの、その過程に行われている思考や想い、行動そのものが自分の体感となって心の記憶にじわじわ染み渡り、刷り込まれていく。
不便で時間のかかるもの、手間暇のかかるものに自分のエネルギーは注ぎこまれ愛着が湧いていく仕組み。
それは人間関係だって同じ。急速に近寄ってきた人は急速に離れていき、時間をかけ育てた関係は薄っすらしていても続いていく。
時間をかけることは、そのものを育てることであり、それ自体が自分にとって愛あるかけがいのない存在になっていくのだ。
2026年5月3日
蜘蛛女より
お変わりありませんか。久しぶりに投稿しました。ブログを書くことが自分の承認欲求を満たすためのものではないかと思いはじめ、それを確かめるためにしばらく離れていました。そんな自分への疑いがなくなったので再び書くことにしました。
このような場があり、読んでくださるかたがいることに感謝します。ありがとうございます。またよろしくお願いします。
