大須の神楽部その2 | 雄勝法印神楽師のブログ

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 因みに雄勝町では、大浜と大須に神楽面が保管されているが、大浜保管の神楽面の中に後藤作の面は存在していない。
 東日本大震災以前の大浜の面は、雄勝町雄勝地区や明神地区の作がほとんどなのだ。
 作者が後藤となっている面については、震災前は戸倉や北上町に多く存在したらしいので、やはり大須と結びついたのは斎藤宮司が斡旋したと考える根拠でもある。
 なお、大浜の面の多くは神社に奉納されたものであることから葉山神社所有の道具となり、大須のは地区の神楽部所有の道具である。
 雄勝と戸倉方面との交流が盛んだったと思われる理由が、昭和初めの本田安治著書「陸前浜乃法印神楽」の中にあり、その本の中で戸倉の古老の言葉が記されていて、桃生町永井、倉埣、寺崎、樫崎、河北町皿貝、大谷地、原で舞われている神楽は、それぞれの法印が今(著書の時代)より三代前(1850年頃)に気仙沼で学んだもので(実際は1750年代のようだ。)、雄勝のは戸倉と一続きと証言しているところである。
 これは、戸倉と雄勝は同じ神楽を舞っているとしっかりと認識しているからこその証言だと私は思うのだ。
 また、戸倉と同じように河北町長面の高橋宮司とも交流があった。
 まだ「いつ頃からか」までは不明であるが、確実なのは時代が昭和に移り、第二次世界大戦終戦後には関りも深くなっていたようだ。
 高橋宮司は、大須の例大祭となると3~4日宮守に滞在し神楽を舞っていたようであり、荒型舞を得意としていたとのことである。
 また、高橋宮司は「えらいさん」と呼ばれ地域と密着していた様子がうかがえる。
 今80代の大須の神楽師は、「えらいさんに大須地区は大変世話になったんだ。」と話してくれた。
 この流れから釜谷尾ノ崎長面の神楽団体、北上町の神楽団体と大須神楽部の交流は深まっていったようである。
 昭和中期から後半の大須の例大祭になると、宮司は雄勝(金剛院)の小田宮司と補佐は長面の高橋宮司、神楽師は地元大須(大性院)と大浜(市明院)、釜谷尾ノ崎長面と北上町の神楽団体で構成され奉納するようになった。
 この時代の大須の宮司が雄勝(金剛院)なのに雄勝地区の神楽師が来ていないというのも面白い話である。これは、大須の例大祭2日目と隣の熊沢地区の例大祭が重なるので雄勝の神楽師と大浜の大半の神楽師は熊沢に行くのが理由の一つでもある。

(つづく・・・たぶん。)