雄勝法印神楽師のブログ

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大須浜の人々の間に受け継がれている口伝によると、奥州藤原氏が滅亡した文治五年(1189年)に、平泉を追われた落人が大須浜に辿り着き、「切り開きの五軒」と呼ばれる旧家によって集落が開かれたとされています。


大須浜の開拓者として伝えられる藤原俵部は、奥州藤原系統に連なる人物、あるいはその家系の祖格と考えられる。延文五年(1360)の墓石に藤原俵部の名が刻まれていることから、南北朝期にはすでに当地において藤原系武士層が在地化していたことがうかがえます。


その後、子孫は在地社会に適応する過程で佐藤姓を名乗るようになったとみられるが、祖系譜としての藤原俵部の名は、現在に至るまで伝承されています。


また、同じく「切り開きの五軒」に数えられる阿部姓の家系についても、藤原俵部を祖格とする一族と同様に、浜の草創期から当地に根を下ろした在地層であったと考えられる。これら複数の旧家が相互に関わり合いながら生活基盤を築いたことが、大須浜集落形成の基層をなしたとみられます。

【藤原俵部が藤原兵部の可能性】
兵部(ひょうぶ)とは本来、律令制の官司「兵部省」である。そこに連なる官途名・通称である。
つまり、藤原兵部 = 藤原氏で、兵部系官途を称した人物と解釈できます。
 大須浜の開拓期は、文書化されにくい口承中心であることや、藤原秀郷(俵藤太)の一字を採用した可能性、時代的に音が優先され漢字は当て字であることが多い時代と考えれば十分に整理できる内容だと思います。
 つまり、「藤原一族で兵部(武的役割)を司った家の者なり」との解釈となり、武家守護である岩清水八幡宮から分霊し大須に八幡神社を祀ったと考えられるのではないだろうか。