よく行く喫茶店に、言葉遣いと接客態度がやたら丁寧なスタッフがいて、その人に当たるといつもとても疲労感を感じていた。私は大雑把だから、そういう丁寧さがむず痒く感じてしまうのだ。要するにこういうことでしょ?と結論を早くしたい。客だからといってそんなに丁寧にしなくてもいいし、要は意味と行動が通じていればいいのだ。私がそのスタッフの接客態度が気になると夫に話した時に、丁寧すぎるのは慇懃無礼と言ってそれはそれで相手を馬鹿にしているようなことになるから良くない、という話をされた。慇懃無礼と言うのか。私は語彙力が少ないから、そういうことにいちいち感心する。小さい頃は本を読むのが嫌いだったから、語彙力が少ないのだ。当てはまる言葉が見つからないことがある。言葉とは関係なく、私には必要以上に丁寧にされると苛々するという性質があり、それはすぐに感じる。蕁麻疹ものだ。私と夫は喫茶店で慇懃無礼さんに会うと、慇懃無礼だね、と言い合っていた。慇懃無礼さんは頑張りすぎて丁寧にしているんだろうけど、それがおかしなことになっていることに気が付かないのだろうか。失礼があっても丁寧なら許されるのだろうか。懸命な努力だと思うのだが、無駄になってしまわないか心配した。私は慇懃無礼さんにはそう思うが、私だって他の人から見れば、何でそんな無駄なことをしているんだろうか、と思われているのかもしれない。私は動作がのろいし、何考えているか分からないように見えることがある。わりと脳みそハイスピードで働いているのだが、それは外には見えないようにする。行動を起こす前に考え切ってしまっておく。ピリピリしていると周りがピリピリするからピリピリしないようにする。そういうリフレクションを考えないで行動するのは大人げないと感じる。それでも子どもじみた言動をすることもある。それもそのくらいいいであろうと計算している。そういったことが私の価値を下げていることに気づくのに時間がかかった。慇懃無礼さんも私も周りの人に認めてもらえるだろうと、その行動を続ける。永遠と届かないラブレターみたいだ。もしかして苛々を伝えるためだけに私たちは生きているのか?それは不毛だ。