「漠然と漫然と」もやもやするのです。

どうしたって人間をやっていれば気持ちの波やうねりに左右されるし、多くは周囲にある環境から生まれたさざ波が生活を通じて身体の中に入ってきて、気が付いたころには大波になっているものです。

 

どうも大変お久しぶりです、タクミです。

 

半年以上ぶりにいきなりとこんなことを書いて何を言いたいかといえば、今僕が感じている「漠然と漫然と」したもやもやというのは、”今”を生きるすべての人間が等しく感じているもやもやなんだろうな、ということを感じたもので、久しぶりに少し身体の外に感じたものを出したくなった、とそういうことなんです。

 

コロナ時代も気が付けば2回目の9月となり、状況はむしろ悪化。

ワクチンの登場によって大きく前進をした部分はあるんですが、本当に悪化したなと思うのは人の感情、感覚の世界。

 

コロナにつれて、人の本性、言い換えれば社会常識とかモラルという名前でうまく包まれていた動物性とか生物性みたいなものが少しずつ目に見えるようになってきた気がします。

誰かを思いやって、慮って生きることが「清く正しく美しい」とされた時代にはどんどんと戻りづらくなっているような空気感があります。

もっともその時代が本当に正しいのかはさておきますが。

 

大人も子供も男女も等しく、自分が自分が、という意識に気が付かないうちに寄っていっているし、それを「個の尊重だ、自由だ」とする流れの中でそうした意識が少しずつ少しずつ膨らんでいる。

気が付いたころには最小クラスのコミュニティしかキープが出来なくなっていくんではないかな、と感じたりしています。

 

どうしようもなく閉塞感があって、その鬱憤を晴らすための向き先はどんどんと他者に依存するようになりました。

名と顔しか知らない他人に向けて、もしくは名も顔も知らぬ誰かに向けて。

 

あなたの行いはどうかと思う!失望した!責任をとれ!顔も見たくない!

 

強烈で熾烈な悪意を、包み隠さず言葉に乗せて届けてしまう。

届け先に何があるのか、届けた後に何が変わるかまで想像をせずにお届けしちゃったプレゼントは、ただの憂さ晴らしなんではないかと思うのです。

 

ここまで書いたってもやもやは変わらないし、きっとまだまだ解消もしませんが。

それでも日本に生きる皆さんはもう少しグレーゾーンというものの便利さを思い出して頂きたいなぁ、と思っています。

とげとげした感情が世の中に溢れていると、直接触れてなくたって気が滅入っちまいますぜ。

またも大いにご無沙汰しております。

前回更新日付を見たら昨年の7月でございました。

 

時間の経過というものは誰にでも等しく訪れるもので、ここそこにある些事に気を取られているうちに

気が付けばもうコロナ禍に囚われてから一年が過ぎたというのだから驚きです。

 

2021年、令和3年という新しい年を迎えてすでに一か月と少し過ぎたわけですが皆さま如何お過ごしでしょうか。

 

不思議なものでいまだに時折本ブログをフォローしてくれる方がいるのだから驚きではありますが、こうしたご縁も何かの形。

とても久しぶりにではありますが、少しばかり筆を執ってみた所存でございます。

 

書きたいことと考えるとなかなかに筆が運ばない為、本日は日々感じている諸々を備忘録的に書き綴らせて頂こうかと思います。

 

~コロナで過ぎ去った一年について~

本当にいろいろなことが変わってしまった一年でした。生活基盤というか、心の拠り所というか、何か一つ今までの人生から軸がずれてしまった一年であったと感じております。

様々な制約に囚われることで人というものの本性があらわになったな、と感じたことも多々あります。

中でも特に強く感じた人の側面の一つが「はけ口の向け先」を求める性質でしょうか。

 

敢えて良し悪し問わない書き方をしますが、人はストレスを感じた時に、何かのはけ口を求めるものだと思います。

それは例えば飲み会のようなポジティブなものから、誰かを乏しめてあざ笑うといったネガティブなものまで様々でしょう。

はけ口と書くと少々ネガティブに見えるかもしれませんが、要は種々様々な方法でガス抜きをしてきていた、ということです。

 

ところがコロナ禍に生活が制限されることで、慢性的な閉塞感を感じるようになる。

しかもどこにはけ口を求めても解消する目途が立たない。

 

そうした状況が続くとはけ口の向き先はやはり「他者」になるわけです。

 

マスクをしてない誰々が…

ウレタンマスクの誰々が…

自粛をしない誰々が…

 

そこにはもちろん事実として正しい見解も多分に含まれていますが、他者批判をすることが恒常的になってしまった結果、

人を責める、批判をする、認めない、受け入れないというネガティブな循環が出来上がってきているのではないでしょうか。

 

また以前にも書いた通りですが、日本人にとって同調圧力というものは悪い意味で親和性が高すぎるのです。

あくまで私の肌感覚ですが個々の尊重、自由の保障という感覚が以前よりも希薄になっている印象があるのです。

ニューノーマルという言葉が生まれましたが、結局は政治家が音頭を取った言葉遊び。

 

やはり皆心も体も疲弊しているんだなと感じつつ、結局そこかしこに溢れるリスクに対して自営をしていくということが唯一解なのかなとも感じている今日この頃です。

 

~労働について~

多くの企業がその行く先に影を感じていることでしょう。

私の職場も多分に漏れず、といった状況です。

 

そうした中で、今まで多くの人が疑問を持たずに遂行していた「労働」というまやかし神話に陰りが見えてきたような気がしています。

そもそもなぜ働いているのか。

誰の為なのか、何の為なのか。

 

労働をし、より多くのお金を稼ぐことを人生だと考えていた多くの日本人にとって、一つの転換点なのかもしれません。

 

家族を大事にしたい、自分の人生を大事にしたい。

そうした個々人の本質的な欲求が表面化してきたのかなとも感じます。

 

ただこれも一つ怖いことですが、日本人にとってそうした個人が権利を主張するという価値観は新しすぎるものです。

昔ホリエモンが自己の正当性を主張して他者を顧みず突き進んだ結果、多くの困難に見舞われたことを覚えているかたもいるでしょう。

 

それこそ善かれ悪しかれですが、日本人にとってはまだまだ「和を貴ぶ」という意識が根底に根強いわけです。

そうした中で、自分が稼ぐ、自分の為だけにという行動はどうしても非難される対象となりやすい。

 

また、非難されることで間違った反骨心が芽生えてしまった結果「自分が良ければそれで良い」というような自己愛が溢れてしまう人も少なくはないでしょう。

 

これもバランスではないでしょうか。

 

自分が良ければそれで良い、という考え方は行き過ぎればただの思考停止だと思うのです。

想像力が欠落ともいえるかもしれません。

 

何も「和を最上のものとせよ」というわけではないのです。

バランスを見て、自分の行動を第三者的に引いた目で見てみてはどうなのかな、と感じるわけです。

 

こうした側面も、悪い意味で非常に人間味あふれていて、少々さもしい印象を受けるものです。

 

~明日はどうなるんだろう~

結局ここに行きつくわけですが、やはりコロナ禍というものは真剣に考えるべき課題だと思います。

それも個々人が考えて考えて、そのアイデアと知を終結して人類としての解となすべきものだと思います。

 

ただ、これだけは忘れるまいと思い続けている点が一つだけ。

 

のめり込まない、ということです。

 

のめり込んで考えて解法が見つかるものであれば力と気持ちの赴くままに身を乗り出せばよいと思います。

ただどうにもならない、のめり込んで真正面から見続けていたら気がくるってしまうという性質のものもあると知ってほしい。

 

ゴールが見える、ゴールの想像ができるものかどうかを見定めてください。

ゴールも見えずに漫然と漠然と走り続けることは残念ながらほぼすべての人間にとっては不可能です。

 

短いゴールを設定し、時々よそ見をしながら、それでも足取りだけは前を向いているというくらいの姿勢が、この時代を生きる我々には丁度良いのではないか、とそう思っています。

 

また気が向いた際には駄文散文をしたためてみようと思っています。

何かのご縁でこんなものを目にしていただいた方だいれば、それはとても喜ばしいことです。

困難に見舞われた今を生きる、多くの方にほんの少しでも幸があらんことを願っています。

どうもこんばんわ、タクミです。

おさぼりでしたね。ずっと。

気が付けばもう二か月そこら何にも書いておりませんでした。

とはいえ時間は進むし、僕の日常もなんだかんだと変化をもって過ぎていたわけです。

書きたいことがたまってきた、といえば聞こえは良いのですが書かなきゃならないくらいにため込んでしまったとも言えますね。

 

さて、コロナです。コロナ。

前回更新のころでも充分にコロナの脅威が目の前にありました。

二か月過ぎてみて、世の中何が変わったのかといえばコロナの脅威が正面から真横にうつって来たようなものだと思います。

 

こわいものが来たぞ、大変だぞ、と世界中が慌てふためいた第一期。

大変なのは分かるけど、それでも生活があるし。自分のまわりでは何だかんだ亡くなった人もいないし、という第二期。

 

今は第二期なんだと思うわけです。

 

2020年が始まってはや半年ですが、今年は随分と、本当に随分といろんなことがある年になりました。

最近では地震が頻発、九州では豪雨の脅威、千葉でも台風による被害、そしてコロナ。

 

人が試されているな、なんて思ってしまうくらいですね。

 

ただ人類が試されているとかそういうことは特に思っておりませんで。

こうした環境、状況下に人の本質が見えるな、ということを日々考えています。

 

これは僕が勝手に色眼鏡で見ている世界かもしれませんが、

随分とギスギスしてしまったな、と思います。

 

人は思ったより優しくなかったし、思ったより我慢弱かった。

思ったより自己中心的だったし、思ったより楽観的だった。

 

コロナの前の世の中って、他者に対して向ける目線の意味合いが違った気がします。

コロナ前は、多くの他者に対して無関心だったと思うのです。

良くも悪くも無関心だった為、そこには興味がなかった。

 

自分の面白いこと、自分の楽しいこと。

程度の差はあれ意識は自分の世界に向っていたと思うのです。

 

ところがこのコロナウイルス後には、他者に対して不信の目を向けるようになった点が沢山あるような気がします。

自己防衛のために敵を作るようになったのではないでしょうか。

 

もちろん、上にあげた例は極端だし、皆が皆そうではないことは事実だと思います。

ただ、敵を作り自分を正当化することで自分の心を守ろうとしている人がいることも、やはり事実だと思うのです。

 

今が第二期だと思います。

この先に、経済的な格差が生まれ生活に困窮する人たちが鮮明に見えてくる第三期があるのでしょう。

 

この先に生まれる多くの混乱は、きっと「人」由来のものになるのでしょう。

考えなきゃいけないタイミング、来ている気がします。

 

もっと面白い話が書ければと思ったのですが、それはまた次回にでも。

それでは次回もどうぞ、よろしくお願いします。

どうもこんばんわ、タクミです。

じしゅく、自粛、ジシュクの日々ですが皆さんどのようにお過ごしでしょうか。

皆が初めての体験をに戸惑いつつもなんとか抗戦体制をはじめてはいますが、東京のコロナウイルスの感染者数は日増しに増加lしていくというなんとも厳しいぎりぎりの戦いですね。

 

在宅勤務という言葉も耳慣れてきたように思いますが、果たして何が正解なのだろうかと日々感じている次第です。

世の中の風潮として、休むことを半ば強制するところまでは正解な気がするのですが、その環境下で学ぶも休むも個人の自由ではないのかと思うわけです。

 

今日の話は僕の妻に端を発するのですが、 在宅勤務という名の自宅待機を命じられたものの何をして良いのかわからず、結果として私生活を送るに過ぎない日常を数日過ごしていました。そこに、SNSを経由したある種の警鐘が届いたと言って、妻が少々しょげていたわけです。

僕にしてみれば、そうした際の報告になんの意味があるのかまるでわからないのですが、お給与をもらって休んでいるのだから学ばないことは不道徳だ、という考え方は世の中に広く浅く存在するようですね。

 

それでもあえて書くのであれば、この状況下で一心に学ぶ姿勢を見出すような人は、こんな状況下でなくとも学んでいるのではないか、とおもうのです。こういうことを書くと気分を害する方もいるかと思いますが、僕を含めた大多数の人間が勤勉ではないし、余暇を仕事のために充てようと思わないだろうと思うのです。

 

これは3.11の時にも感じたことですが、自粛という言葉は非常に日本人的だなと思うわけです。

責任はあなたのものだ、と個々人に責任を転嫁することで集団存続を図るという日本人的な集団心理ありきの言葉だと思いますし、その指針の上で行動をしようがしまいが誰も益を得ないわけです。

 

ちゃんとやっていれば「それが当たり前」

やらなければ「なんて罰当たり」

 

でもこういう経験をした事がある人間なんて現実的にはほとんどいないわけです。

少なくとも日本人の、それも労働生産人口の世代にとっては未経験で初めてづくしではないでしょうか。

そうした環境下で何が正解か不正解かなんてわからないでしょう。

 

少なくとも僕はわからないし、知ったかぶりたくもないわけです。

 

個々人に責を求めている場合でしょうか。

経済活動が致命的な打撃を受ける、おそらく残念ながらこれはもう避けようがないでしょう。

でも立て直しを考えることが得意な人間と、そうではなく純然たる労働力としての人間がいます。

 

いつだって最後には現場ありきです。

こういう状況だからこそ、現場の人間が離れない関係を作ろうと、考えるべきではないのかなと思います。

 

こうした状況でこそなお感じますが、日本人の管理職は部下との関係構築が本当に下手糞だなと思います。

いち企業人ではなく、いち現場仲間として言うべきことと、【言わざるべきこと】を見極めてほしいものだなと思います。

 

危機を前に、人間はいかに弱いのかを日々痛感する次第です。

人を生かすも殺すも、「人」ですね、本当に。

どうもこんばんわ、タクミです。

緊急事態宣言から25時間とちょっとでしょうか。

TVをつければ緊急事態宣言やそもそもコロナ騒動に対してのニュースが目白押しで、全く見るものには困りませんね。

誰がなにを喋っていようと、自分が危機感をもって情報の選択を行っていくという姿勢が個々人の行動にフィードバックされていくのであれば、ある意味此度の事態も、皆が自主的に能動的に生きるということの意識づけになるのかもしれません。

 

さて、そういう次第で我が家でも妻が昨日より臨時で仕事終いとなりました。

自己都合で4月いっぱいほどお休みの僕と、急遽の長期休暇の妻ということで、付き合っていた自分にも経験したことのない時間をともにすることとなりました。約一か月、ほぼほぼ外出もせずに一緒ということで大丈夫かななんてことも少なからず心配していましたが、なんてことはありませんでした。

 

同じ家の中でだれかと時間をともにするということは存外面白く、またそういった中でも各々自分の時間を見つけていけば苦たり得ないもののようですね。

 

家がワンルームなので一人の時間を持ちようがないなんて声も聞こえてきそうですが、自分都合で何をするか、ということが自分の時間づくりだと思います。

 

普段奥様に食事の用意を任せきりの旦那さんなら、いっそ自分が食事作りをしてみたら良いかもしれません。

普段子育てを一手に担う奥様であれば、いっそのことお子さんの面倒をまるっと旦那様に任せてみても良いかもしれません。

 

またその際に大事なのは、相手のやることに文句を言ってはいけないということです。

やってみよう、任せてみようということはある程度時間に余裕がないとできないことなので、こういう時にこそ挑戦してみる価値のあることかもしれません。

 

いきなり正解を求めずに、少しずつ成長を促していくのも面白い時間の使い方かもしれませんね。

 

さて、明日は何を書こうかなぁ。

 

どうもこんばんわ、タクミです。

ついにというかやっとというか、緊急事態宣言が発令されましたね。

まぁ個人的には会見を見ていて思うことは多々あるのですが、それぞれ思うことが山ほどある状況だと思いますし、僕の感想を書いたところで事態は何も変わらないので敢えて感想はなしでいこうかなと思っています。

 

昨年の12月時点で、今後世の中がこうなることを誰が想像したのかなと考えていまして。

おそらく日本に住む99.99999999999%くらいの人は想像していなかったと思うのです。もちろん僕も想像していない側の人間でした。

誰にとってもウイルスによる外出自粛なんて人生初のことだと思いますし、世の中を見回すとマスクをつけた人だらけになったなくらいの違いしか目では見えないわけです。

 

今年は桜が長く見れてよかったな、なんてくらいに風景は変わっていないのです。

70年後の日本人が2020年の日本の写真を見ても、きっとここまでの世の中の状況は想像できないだろうなと思います。

 

僕を含めたほとんどの人間にとって、地球とは、世界とは人間のものであり、口ではそうじゃないと言っていた人だって根本的には人間が世界の中心なんだと感じていたと思います。ところがこうした環境になって始めて、人間は地球の中心ではないということが見えたような気がしますね。

人間の築いた文化や文明だって、このままコロナウイルスが変異拡大を続けていけばそう遠くない命になるかもしれません。

 

それくらいの局面にいるのかもしれないと思うと、今何をしたら良いのかなと改めて考える機会になりそうです。

幸いかどうかはわかりませんが、時間はあります。

 

なにかできることを考えてみても良いのかもしれませんね。

どうもこんばんわ、タクミです。

引っ越しをしてから向こう、ネット回線がやっと開通いたしました。

ネット環境がない、それだけのことで随分と生活が不便になったような気がするのですから困ったものです。

こうしてネット環境が整ったことで、やっとPCから投稿ができるようになりました。

 

というわけで、約10日ぶり程度でしょうか。

「楽生変話」再開いたします。

 

一身上の都合で4月を迎えてからこっち、基本的には在宅で生活をしています。

世の中のコロナ騒動や自粛要請などは過熱する一方ですし、実際に今回の危機が「ウイルス」によるものなんだなと強く感じるような機会にも残念ながら多くの日本人が触れる結果となったように感じます。

 

今日少しばかり食料品の買い出しに出た際に、近所の小学校で入学式を終えてにこにこする新一年生が目に入ったのですが、みな一様に笑顔なわけです。そりゃあそうでしょう。僕があたしが主役だよ!って気持ちで入学式の看板の横で写真を撮っているわけですから。

それでもこうした状況下であれば明日以降の学校再開の見通しは立たないのが正直なところでしょうし、個人的には今無理をして学校を再開することが正解とは思えないような気もしてしまうわけです。

 

子供にとっては何が危険かはきっと理解できるものではないでしょう。

僕が子供だった自分に、地下鉄サリン事件がありましたが、夜にデモ行進をする大人を見ても何のことやらわかりませんでした。

 

子供にとっては、日常に不便を感じることの本当の理由はきっとわからないのではないかと思います。

こういう言い方をすると誤解を招くかもしれませんが、それでも子供はきっとそれで良いのです。

 

大人が、僕らが、どうやって日々を過ごしていくかが問題だと思います。

環境と情報に振り回されています。何も日本人に限らず、世界中の人間すべてが振り回されている状況です。

徐々に心に余裕がなくなってくることは自明ではあるかもしれませんが、排他的になり他者をさげすみ陥れるようなところに皆が向かえばそれこそ崩壊です。人類文明の崩壊だと思います。

 

明日には東京、大阪を中心に緊急事態宣言が発令される見通しですね。

自分は大丈夫などと考えないこと。自分の周りは大丈夫かな、と考えてあげること。

こんな時だからこそ、少しだけでも引いた目線で世の中を見てみると良いかもしれないですね。

どうもこんばんわ、タクミです。
大きな環境の変化というものは良し悪しを抜きにして何かしらの影響を与えるものだなと感じる今日この頃です。
巷を騒がすコロナウイルス騒動は終息を見せる気配がなく、次から次へとあらゆる文化的活動に影響を与えて回っていますね。我が家も例にもれず、マスクがない、紙がない、あれがなければこれもないなんて事態にてんやわんやな日常となってしまいました。

思い起こせば3.11東日本大震災の時もこんな状況でした。
ガソリンがない、電池がない。町中を駆け回っては必要物資をそろえなきゃいけないなんてことになっていたような気がします。それでも大きく違う状況だったなと思うのは、どこか一か所に被害が集中していたという事実ではないでしょうか

東北所県の方にとっては同情されたいわけではないという思いがあったかと思いますが、それでも地続きのどこかで苦しんでいる人がいるという事実は多くの人の心をある程度一つにまとめてくれたような気がしています。それに比べて今回の状況というものはすべての人が等しく危険に晒されており、多くの人の思いが自分や近しいコミュニティに向きがちである、という傾向にあるのかなと思います。

必然多くの人が利己的思想や行動に傾倒しがちであり、伴い排他的になっていくということは想像されます。
マスクに始まり、ティッシュやトイレットペーパー、食料品などの買い占め現象もこうした状況に端を発したものだとすれば、困っている人がいるのは知っています、でも私だって困ってるんです!!という思考回路によって正当化されがちですね。

状況はナーバスで、世の空気は日増しに悪くなっているような気がしています。
ロックダウンとか、オーバーシュートとか、わかりづらいカタカナ言葉は抜きにしても、懸念材料は日々そこかしこに転がっていますが、それと同じくらいに今を生きる人間の感情が爆発手前に来ているんではないかなと、そういった点にももう少し目と意識を向ける必要があるのではないかな、と感じる次第ですね。

僕個人としては今日が一つの人生の節目になりました。節目といっても非常に小さく、そこから太い枝葉が伸びるほどの節ではないかもしれませんが、それでも環境が変わる一つの転換点でした。
転換期の只中にいる時というのは、目の前のことで視界が埋まりがちであり先に対する展望はなかなか思い描けないものだと思います。

それでも今僕らができることは目の前の惨状にため息を漏らすことではなく、先をどうして行こうかという意識の転換かもしれません。
思考するということは、親兄弟から人類すべて含めた誰にも制限できない究極の自由な行動です。日々思考をする時間や体力がなく、目の前の出来事に反射的に生きている現代人だからこそ、こうした機会を次に生かすための思考の旅に出かけられるとよいのかな、と思います。

外出自粛の要請がどんなに出ようが、思考の旅への自粛は要請されませんから。
どうもこんばんわ、タクミです。
例によって何を書くか迷ってしまったので今日は映画館について書いてみようと思います。
僕は無類の映画好きというわけではないのですが、それでも何本かは深い深い思い入れを持った映画があったりします
だいぶ昔にも一度書いた気がしますが、僕はっバックトゥザフューチャーが人生で一番好きな映画でして、それこそパト1~3までをそれぞれ100回以上は見ていると思います。子供のころにはどうしてもデロリアンが見たいといって親を困らせた挙句にロスにまで連れて行かせるというほどの熱狂ぶりでした。当時はレーザーディスクとVHS全盛期でしたが、どちらもおよそ擦り切れるのではないかというほどに見た記憶があります。

これだけ好きな映画に出あえた僕は大層幸せものなのですが、映画の第一作公開が1985年であり映画館でリアルタイムに鑑賞することは叶わない世代でした。これまで長らく映画館で映画をみることの良さ、意味というものを理解していなかったのですが、つい先日「午前十時の映画祭」という催しのグランドフィナーレとして同作が公開されるということで、妻にも背中を押されつつ、100十数回目にして生まれて初めての映画館でのバックトゥザフューチャー鑑賞をさせていただきました。

結論を書きます。
映画館で見る映画はやはり一つの完成形でした。
物語が良い、演者が良い、音楽が良い、様々な要素が絡まりあって映画という一つの作品が仕上がるわけですが、それらは映画館で見るようにパッケージされているわけです。当然といえば当然ですが。
映画館で見る際に一番感じたものが静寂の意味、良さでした。

劇中で暗転し、音響が一斉に止んだ時というものは世界から音がなくなったように感じるほどの静寂なのです。
熱中していればいるほど、そのスクリーンの世界が自分の目の前、すぐ横に感じられるようになるものなのだと思いました。

どこでだって映画は見れる、今やそれが当然の時代ですが、あえて映画館でオールドムービーを観劇できる機会というものは本当にありがたく価値ある時間でした。
午前十時の映画祭、来年もやるそうです。

お気に入りのオールドムービーがある方はぜひ一度足を運んでみてほしい。
時間も場所も限定されおよそ便利ではない、それでも敢えてその時間を選んでスクリーンとシアターから漏れ出る世界に浸ってみてほしいなと思います。
もちろんコロナ騒動が落ち着いてから、という宿題付きですが。
どうもこんばんわ、タクミです。
随分更新が滞っておりました。ここ2週に渡って引っ越しやら仕事上の環境整理やらとなんだかバタバタしてばかりの時間を過ごしておりました。
やっとこさ三連休で一応のひと段落となったのでこうしてまた書きだしてみた次第です。

春は出会いと別れの季節だ、なんてことを言いますがこれは何も悪に限った話ではないですね。いつだって出会いを求めれば出会いのチャンスは訪れるし、前触れなく唐突な別離の機会だって人生長く生きてればあちらこちらに転がっているものです。
こんなことを言うとほらまた屁理屈をこねていると言われるのは分かっているのですが、出会いも別れも別に特別な事でもなんでもない、という事を書きたかっただけなのです。
少々語弊ありきで言えば、どの季節に出会いどの季節に分かれたか、という思い出はイメージとして春に帰着しやすいだけなのではないか、と思うのですよ。

日本人を云十年やってきた多くの人はその人生において一度や二度は学生をした経験がおありかと思いますが、多くの方にとってはその経験が春という季節をイメージ付けているだけなのではないかな、と思うのです。ゆえにこの時期に経験した出会いや別れは色濃く記憶に刷り込まれるのではないか、と。

また少し違うアプローチで考えてみれば、春は匂いに満ちた時期である、という点なんだと思います。
長い冬の時期というものは世の中から匂いが薄れる時期でもあります。これが3月頃から梅や桜、様々な草木と土埃のにおいなどが空気中に一斉に漂い始めます。
記憶というものは何も視覚的なものに限らず、その時に得た情報量の多さで定着率が変わるなんてことを言いますが、たくさんの匂いとともに春という季節の出来事がより印象深く記憶に残るのかもしれません。

あれこれと理屈をつけてみましたが、皆様の周りには出会いや別れはありましたでしょうか。

僕にとっても今年は出会いと別れの春でした。
特に引っ越しをするとどうにも感傷的になってしまいますね。
いまひとつ共感を得られないんですが、僕は引っ越しの最後にもぬけの空になった部屋を見回した時に得も言われぬさみしさに襲われる質なのです。
今回の引っ越しも最後に家を離れる時に、この家で妻とこんなことがあったな、とか思い出すと涙が出そうになりました。別に妻がいなくなるわけでもなんでもないんですがね。
妻と一緒に歩いた道を一人で歩いたりした時にもそうですね、いろんな話をしながらここを毎日歩いたな、なんて考えるとどうにもしんみりして少しばかり苦しくなってみたりします。

それでも、そういう些細な感情の揺れが結構好きだったりするのです。

何かと出会う、何かと別れる。
少しばかりの痛みと興奮を胸に少しだけ足を前に進めて行きたいなと思います。