またも大いにご無沙汰しております。
前回更新日付を見たら昨年の7月でございました。
時間の経過というものは誰にでも等しく訪れるもので、ここそこにある些事に気を取られているうちに
気が付けばもうコロナ禍に囚われてから一年が過ぎたというのだから驚きです。
2021年、令和3年という新しい年を迎えてすでに一か月と少し過ぎたわけですが皆さま如何お過ごしでしょうか。
不思議なものでいまだに時折本ブログをフォローしてくれる方がいるのだから驚きではありますが、こうしたご縁も何かの形。
とても久しぶりにではありますが、少しばかり筆を執ってみた所存でございます。
書きたいことと考えるとなかなかに筆が運ばない為、本日は日々感じている諸々を備忘録的に書き綴らせて頂こうかと思います。
~コロナで過ぎ去った一年について~
本当にいろいろなことが変わってしまった一年でした。生活基盤というか、心の拠り所というか、何か一つ今までの人生から軸がずれてしまった一年であったと感じております。
様々な制約に囚われることで人というものの本性があらわになったな、と感じたことも多々あります。
中でも特に強く感じた人の側面の一つが「はけ口の向け先」を求める性質でしょうか。
敢えて良し悪し問わない書き方をしますが、人はストレスを感じた時に、何かのはけ口を求めるものだと思います。
それは例えば飲み会のようなポジティブなものから、誰かを乏しめてあざ笑うといったネガティブなものまで様々でしょう。
はけ口と書くと少々ネガティブに見えるかもしれませんが、要は種々様々な方法でガス抜きをしてきていた、ということです。
ところがコロナ禍に生活が制限されることで、慢性的な閉塞感を感じるようになる。
しかもどこにはけ口を求めても解消する目途が立たない。
そうした状況が続くとはけ口の向き先はやはり「他者」になるわけです。
マスクをしてない誰々が…
ウレタンマスクの誰々が…
自粛をしない誰々が…
そこにはもちろん事実として正しい見解も多分に含まれていますが、他者批判をすることが恒常的になってしまった結果、
人を責める、批判をする、認めない、受け入れないというネガティブな循環が出来上がってきているのではないでしょうか。
また以前にも書いた通りですが、日本人にとって同調圧力というものは悪い意味で親和性が高すぎるのです。
あくまで私の肌感覚ですが個々の尊重、自由の保障という感覚が以前よりも希薄になっている印象があるのです。
ニューノーマルという言葉が生まれましたが、結局は政治家が音頭を取った言葉遊び。
やはり皆心も体も疲弊しているんだなと感じつつ、結局そこかしこに溢れるリスクに対して自営をしていくということが唯一解なのかなとも感じている今日この頃です。
~労働について~
多くの企業がその行く先に影を感じていることでしょう。
私の職場も多分に漏れず、といった状況です。
そうした中で、今まで多くの人が疑問を持たずに遂行していた「労働」というまやかし神話に陰りが見えてきたような気がしています。
そもそもなぜ働いているのか。
誰の為なのか、何の為なのか。
労働をし、より多くのお金を稼ぐことを人生だと考えていた多くの日本人にとって、一つの転換点なのかもしれません。
家族を大事にしたい、自分の人生を大事にしたい。
そうした個々人の本質的な欲求が表面化してきたのかなとも感じます。
ただこれも一つ怖いことですが、日本人にとってそうした個人が権利を主張するという価値観は新しすぎるものです。
昔ホリエモンが自己の正当性を主張して他者を顧みず突き進んだ結果、多くの困難に見舞われたことを覚えているかたもいるでしょう。
それこそ善かれ悪しかれですが、日本人にとってはまだまだ「和を貴ぶ」という意識が根底に根強いわけです。
そうした中で、自分が稼ぐ、自分の為だけにという行動はどうしても非難される対象となりやすい。
また、非難されることで間違った反骨心が芽生えてしまった結果「自分が良ければそれで良い」というような自己愛が溢れてしまう人も少なくはないでしょう。
これもバランスではないでしょうか。
自分が良ければそれで良い、という考え方は行き過ぎればただの思考停止だと思うのです。
想像力が欠落ともいえるかもしれません。
何も「和を最上のものとせよ」というわけではないのです。
バランスを見て、自分の行動を第三者的に引いた目で見てみてはどうなのかな、と感じるわけです。
こうした側面も、悪い意味で非常に人間味あふれていて、少々さもしい印象を受けるものです。
~明日はどうなるんだろう~
結局ここに行きつくわけですが、やはりコロナ禍というものは真剣に考えるべき課題だと思います。
それも個々人が考えて考えて、そのアイデアと知を終結して人類としての解となすべきものだと思います。
ただ、これだけは忘れるまいと思い続けている点が一つだけ。
のめり込まない、ということです。
のめり込んで考えて解法が見つかるものであれば力と気持ちの赴くままに身を乗り出せばよいと思います。
ただどうにもならない、のめり込んで真正面から見続けていたら気がくるってしまうという性質のものもあると知ってほしい。
ゴールが見える、ゴールの想像ができるものかどうかを見定めてください。
ゴールも見えずに漫然と漠然と走り続けることは残念ながらほぼすべての人間にとっては不可能です。
短いゴールを設定し、時々よそ見をしながら、それでも足取りだけは前を向いているというくらいの姿勢が、この時代を生きる我々には丁度良いのではないか、とそう思っています。
また気が向いた際には駄文散文をしたためてみようと思っています。
何かのご縁でこんなものを目にしていただいた方だいれば、それはとても喜ばしいことです。
困難に見舞われた今を生きる、多くの方にほんの少しでも幸があらんことを願っています。