『ため池は 草原だ』
3年前に ため池の護岸耐震工事が始まった。
夏になると水田への水が必要なために休工しなければならないので工期が長い。
工事が始まる前に、ため池周辺の植物調査が行われて、希少種が掘りあげられて昨年再度植え付けられた。
予定では今年の春に完了するはずが、少し遅れて秋まで延長になった。
ここのところ思い出話が多い自分で、どうもそういう齢になったというか
時々、じぶんが80代くらいに感じることがある。
体力的な問題もあるし、近隣の人たちがそういう年齢層なのでつい交じってしまうのかもw
でもちょっと待てよ?と思って 同年の友人に「60代てまだ若い?」と聞いてしまった。(若いらしい♪)
年齢とか、決まりとか、そういうものに縛られやすい。
そもそも生きてきた年数ってだけなんだから、その齢にふさわしいものなんて人それぞれなはず。
そこに「こうである」なんてものは何もない。
5年前の今日 病気がわかった。
その時の5年生存率が3%くらいで、おいおい、なんだよそのパーセンテージは・・と思ったっけ。
でもそれは分子標的薬が出る前の数字なので、いまなら相当上がってるのじゃないかな。
すごいね、医療技術は!
まあ、その頃はそういうことがわからずに3%を見せつけられて、ずいぶん落ち込んだ。
1年先がどうなっているのか? 考えないようにしてもどこか頭の隅にそれがある。
池の耐震工事完成が3年後と聞いた時も それはその完成は見れるのか?と思った。
数字が自分を縛ってしまったわけだけど、もう一つ縛った理由がある。
「教科書通りに死なないでください」
告知を知った人がラインで、そう励まして?くれて。 え?どういうこと?と固まってしまったw
余命を聞くと、いわれた通りにこの世を去る人がいるそうで、だから今のほとんどの医師は余命を言わない。
実際、やってみなけりゃわからないほど医療が進んだこともある。
まだ余命を言われていないのに、そのラインが逆に「余命」を意識づけさせることになってしまった
歴史でさえいつでもひっくり返る。明日の天気もわからない。昨日の約束は今日破られる。
世の中に教科書など無いと、わかって何十年と経つのにまだ教科書に縛られるとは・・(真面目だからなw)
『ため池は草原だ』といったのは、市内すべてのため池周辺の植物を調べていた教授の言葉で
ここの工事に入る前にも調査に来られて少し話したことがある
「30年前はここにキキョウもあったんです」とかいうと、とても関心を示してくれて話が弾んだ。
快活で目がキラキラと少年のような人だった。
今年5月 「日本アルプスで滑落」とニュースが流れた。
あの教授 まだ50代
ほぼ完成に近い堤防に立ちながら「この景色を見るのはあなただったはずでしょ!」 と 何度も思ってしまう。
人生の長さに 教科書なんてものはない。
教科書をなぞらう真面目さも 「もう」とか「まだ」とかの言葉も捨てて 6年目を生きてやる。