本文は、山上の垂訓の実践部分。単なる口の告白は、人を天国に入れない。
「イエスは主です。」と言っても、イエスが主であることが生活の中で見えなければ、矛盾している。心から「イエスは主です。」と告白しているなら、自分の生活における主導権をイエスに明け渡し、イエスを第一として生きることを求めるはず。その結果、その人は父のみこころを行っている。私たちと神との関係は、私たちが父の願われていることを行うところに現れ出る。行いによって救われるのではなく、信仰のみによって救われるのだが、信仰は行いによって現れるのです。 イエスの名によって超自然的な働きをしたとしても、それによって天の御国に入れません。イエスは彼らに、「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言われています。これは、あなたとは何の関係も持っていない、ということ。イエスが主であり私たちが弟子であり、イエスに愛されてイエスを愛するという関係が存在していない。だから、イエスという名を使っていても、イエスと人格的な関係を持たないことがあります。そこでイエスは、「不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われました。
結論部分:これは逆境に直面した私たちの姿を描いています。土台を何にしているかによって結果が変わります。イエスはまず、「わたしのこれらのことばを聞いて」と言われました。みことばに根ざした信仰が大切です。私たちの生活は、いつも順調だとは限りません。もし、自分の感情や気持ちを信仰の土台にしていれば、何か逆境的なことが起こったとき倒れてしまいます。キリストのみことばに根ざす信仰生活を送ることが、逆境の中に耐えることのできる方法です。
そしてイエスは、「わたしのことばを聞いて行う者は」と言われました。聞くだけではなく、自分の生活に適用させていくことが大切です。私たちは聖書を学んでいますが、ここは知識の蓄積の場ではありません。聖霊の導きによって、学んだことを生活の中で具体的に実行しなければなりません。それによって、逆境の時に、動じることのない信仰が生まれるのです。主は、権威をもって語られました。律法学者は、「あのラビは、この律法について、こうこう解釈しています。」というふうに、他人の意見ばかりを引用していました。ちょうど大学の研究生が、自分の研究の成果を発表するように語ったのです。自分の生活には特に関わりを持っていません。しかしイエスは、判決を下す裁判官のように、その教えは確信に満ち、その命令は絶対でした。なぜなら、イエスご自身が最終的な権威だからです。仏陀も、モハメットも、「ここに道がある。」と教えましたが、イエスは、「わたしが道です。」と言われました。イエスは律法学者のひとりでもなければ、他の預言者の一人でもありません。むしろ、イエスご自身が律法の目的であり、イエスご自身が、預言者たちが預言していた対象だったのです。ただ、本当に権威をもっているかは、そのことばに従う者が出てくることによって確かめられます。そこで8章と9章には、イエスの話されることばによって、さまざまな人の病気が治り、死人までが命を吹き返す記述がある。
信仰はある。強い信仰がある。しかし生活化するために(信仰が行いによって立証されるために)どのような変化、成長が求められているのか?
1.考え方―心の一新によって、自分を変える。神の御言葉に立ち返る。
2.言葉使いー人を起こす言葉を使う
3.態度、姿勢―自分の感情、体験、知識ではなく、神の言葉に従おうとする態度、姿勢。自分の内なる声に正直に、とか? 嘘ですよ。騙されないで。
4.行動―神の言葉を生きようとする
神に依り頼み、日々祈る。急には変わらない。赤ちゃんが大人に成長していく健康な過程を考えてみる。一杯失敗しながら、繰り返し繰り返し練習して、ゴールを達成していくように。カナンという乳と蜜の流れる豊かな地は神の約束の地であったにも拘らず、約束の地に入ることができなかったのは、頭の中で繰り返された考え方だった。否定的な言葉だった。恐れて、神の約束を疑った態度であり、行動しなかったから。ウエストミンスター信仰告白第1条 人間の生きる目的は神を礼拝することと神の栄光を表すこと。神の栄光を表すことは今日できる。
フォードの車、洗濯機、、、実は、周りの人のことを思い、願う中で与えられた。教会開拓で一杯失敗し教えられた。信徒セミナー始め結婚や子育てセミナ‐、親の介護の中で、、行動して教えられた。
「イエスは主です。」と言っても、イエスが主であることが生活の中で見えなければ、矛盾している。心から「イエスは主です。」と告白しているなら、自分の生活における主導権をイエスに明け渡し、イエスを第一として生きることを求めるはず。その結果、その人は父のみこころを行っている。私たちと神との関係は、私たちが父の願われていることを行うところに現れ出る。行いによって救われるのではなく、信仰のみによって救われるのだが、信仰は行いによって現れるのです。 イエスの名によって超自然的な働きをしたとしても、それによって天の御国に入れません。イエスは彼らに、「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言われています。これは、あなたとは何の関係も持っていない、ということ。イエスが主であり私たちが弟子であり、イエスに愛されてイエスを愛するという関係が存在していない。だから、イエスという名を使っていても、イエスと人格的な関係を持たないことがあります。そこでイエスは、「不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われました。
結論部分:これは逆境に直面した私たちの姿を描いています。土台を何にしているかによって結果が変わります。イエスはまず、「わたしのこれらのことばを聞いて」と言われました。みことばに根ざした信仰が大切です。私たちの生活は、いつも順調だとは限りません。もし、自分の感情や気持ちを信仰の土台にしていれば、何か逆境的なことが起こったとき倒れてしまいます。キリストのみことばに根ざす信仰生活を送ることが、逆境の中に耐えることのできる方法です。
そしてイエスは、「わたしのことばを聞いて行う者は」と言われました。聞くだけではなく、自分の生活に適用させていくことが大切です。私たちは聖書を学んでいますが、ここは知識の蓄積の場ではありません。聖霊の導きによって、学んだことを生活の中で具体的に実行しなければなりません。それによって、逆境の時に、動じることのない信仰が生まれるのです。主は、権威をもって語られました。律法学者は、「あのラビは、この律法について、こうこう解釈しています。」というふうに、他人の意見ばかりを引用していました。ちょうど大学の研究生が、自分の研究の成果を発表するように語ったのです。自分の生活には特に関わりを持っていません。しかしイエスは、判決を下す裁判官のように、その教えは確信に満ち、その命令は絶対でした。なぜなら、イエスご自身が最終的な権威だからです。仏陀も、モハメットも、「ここに道がある。」と教えましたが、イエスは、「わたしが道です。」と言われました。イエスは律法学者のひとりでもなければ、他の預言者の一人でもありません。むしろ、イエスご自身が律法の目的であり、イエスご自身が、預言者たちが預言していた対象だったのです。ただ、本当に権威をもっているかは、そのことばに従う者が出てくることによって確かめられます。そこで8章と9章には、イエスの話されることばによって、さまざまな人の病気が治り、死人までが命を吹き返す記述がある。
信仰はある。強い信仰がある。しかし生活化するために(信仰が行いによって立証されるために)どのような変化、成長が求められているのか?
1.考え方―心の一新によって、自分を変える。神の御言葉に立ち返る。
2.言葉使いー人を起こす言葉を使う
3.態度、姿勢―自分の感情、体験、知識ではなく、神の言葉に従おうとする態度、姿勢。自分の内なる声に正直に、とか? 嘘ですよ。騙されないで。
4.行動―神の言葉を生きようとする
神に依り頼み、日々祈る。急には変わらない。赤ちゃんが大人に成長していく健康な過程を考えてみる。一杯失敗しながら、繰り返し繰り返し練習して、ゴールを達成していくように。カナンという乳と蜜の流れる豊かな地は神の約束の地であったにも拘らず、約束の地に入ることができなかったのは、頭の中で繰り返された考え方だった。否定的な言葉だった。恐れて、神の約束を疑った態度であり、行動しなかったから。ウエストミンスター信仰告白第1条 人間の生きる目的は神を礼拝することと神の栄光を表すこと。神の栄光を表すことは今日できる。
フォードの車、洗濯機、、、実は、周りの人のことを思い、願う中で与えられた。教会開拓で一杯失敗し教えられた。信徒セミナー始め結婚や子育てセミナ‐、親の介護の中で、、行動して教えられた。