NEW HORIZON 3
Sato Mami
Making the Best of Life
Only then did I see the true power of sports - To create new dreams and smiles
(そのとき初めて私はスポーツの真の力を目の当たりにしました。新たな夢と笑顔を育む力)
(そのとき初めて私はスポーツの真の力を目の当たりにしました。新たな夢と笑顔を育む力)
2020年東京五輪・パラリンピック開催の最後の決め手となったのは、招致プレゼンテーションでした。トップバッターをつとめたのが、宮城県気仙沼市出身のパラリンピック選手、佐藤真海さん。病気で片足を失うも再起した自身の経験や、東日本大震災後に感じたスポーツの力について語り、以下は、そんな佐藤真海さんの半生の物語です。
佐藤真海さんは少女時代からずっとスポーツが大好きです。6歳のとき、彼女はスイミングに通い始め、毎日泳ぎました。練習はきつかったですが、目標を設定し、それをクリアすることを楽しみました。
中学生時代、真海さんは陸上競技に転向しました。高校時代は長距離ランナーとして競争しました。スポーツは真海さんに一生懸命努力することの大切さを教えてくれました。彼女が努力すればするほどよい結果が得られました。
真海さんは高い期待と希望を胸に東京での大学生活を始めました。すぐに彼女はチアリーディング部に入りました。そして19歳のときに突然彼女の人生がガラッと変わってしまいました。ある日、真海さんは足首に痛みを感じました。それは骨のガンで、右足の切断手術を受けなければなりませんでした。スポーツをとても楽しんでいた若い女性にとって、脚を失うことは命を失うようなものでした。真海さんは絶望しましたが、彼女のお母さまが彼女を抱きしめながら『大好きな真海、神様は乗り越えられない試練を与えはしないよ』と励ましました。
手術から10か月後、真海さんは大学に戻りました。彼女のお友だちは彼女の帰りを快く迎えましたが、真海さんは障がいをつらく思うあまり、みんなに対して自然に笑ったり微笑んだりすることがなかなかできませんでした。彼女はみんなとの違いを感じ、孤独でした。ですが真海さんは、今の状態は私がのぞむ人生ではなく、また自分の本当のスタイルではないことに気づきました。”手術が私の命を救ってくれた。だから人生をもっと前向きにする宝としよう”
真海さんは勇気を奮い立たせて再びスイミングに行きました。驚いたことに、幼かった頃のスイミングでの喜びの感覚が彼女に戻ってきました。これが彼女に希望を与えました。真海さんは新しい義足で他のスポーツをやってみようと思いました。彼女は陸上競技に戻り、走り幅跳びを始めました。
再び、真海さんは目標を設定してそれをクリアするのを楽しむことに気が付きました。彼女は新たな自信を生み、有望なパラリンピック選手としての第二の人生をスタートさせました。これまで真海さんは三つのパラリンピックに連続で出場しています。2004年のアテネで、彼女は日本人で初めての女性義足選手になり、3.95メートルを記録しました。2008年の北京では4.28メート飛びました。2012年のロンドンでは自身の記録を4.70メートルにまでのばしました。
真海さんは追い求める目標がまだまだあります。彼女はスポーツを通じて障がい者と健常者との間の架け橋を務めたいと思っています。真海さんは宮城県出身です。彼女と他のアスリートたちは、つらい目にあった東北の人々を励ますためにスポーツイベントを企画しました。『そのとき初めて私は真のスポーツの力を目の当たりにしました。新たな夢と笑顔を育む力。希望をもたらす力。人々を結びつける力。』と真海さんは言いました。
真海さんは障がいがあるにもかかわらず、自分の人生を楽しむ道をつくってきました。彼女は、状況がどんなに困難であっても、自分の目標を設定し、それに向かって一生懸命努力する大切さを他の人たちに教えてくれています。彼女は『スポーツの力に心を動かされることができて恵まれていると思います』と謙虚に言っています。ひょっとすると、私たちは真海さんという模範があって恵まれているのかもしれませんね。