王監督、早い回復をお祈りします。
王監督が腫瘍手術で入院された。
1日も早い回復をお祈りします。
私は56歳、会社員です。昭和54年(1979年)月刊野球党(現在ホームラン)10月号が読者懸賞論文を募集し佳作に入賞しました。
昭和43年9月18日「阪神対巨人」バッキーと荒川コーチが乱闘した史上に残る試合の観戦記です。
選考された寺内大吉氏の選評と併せて紹介します。
御笑読下さい
感想を聞かせて頂ければ幸いです。
王の最期が近づいてきた。長島の時と同様に、マスコミは王引退について書くのはタブーである。それは来年であろうか。来年引退と仮定して、22年、約1万打席、数々の記録を作った。いつも温かい目で見守れてきた。だが、一度だけ罵声を浴びたことがある。
昭和43年9月18日。私は甲子園へ急いだ。前日、江夏で勝って、その差1ゲーム。今日のダブルヘッダーに連勝すれば、首位は入れ替わる。2時ごろ球場へ着いた。水曜日だというのに内野席は売切れ、外野席、スコアボード前に座った。
第一試合、堀内対村山、無得点のまま9回裏、辻佳がサヨナラ2ランホーマー。ちょうど私の前にボールが落ちた。驚いたような柴田の顔が印象的だった。
いよいよ第二試合が始まった。バッキー対金田――、歴史的なトラブルが刻々と迫っていることを55000人の観衆は知る由もなかった。
4回王がバッターボックス。バッキーが頭へ投げた。王が逃げた。2球目、またも頭へ、王がまたも逃げた。王がバッキーに向かって歩いた。ベンチから荒川コーチを先頭に全員がバッキーめがけて走った。甲子園のマウンドは、全選手入り乱れて修羅場と化した。
荒川は額から流血し、バッキーは右手小指骨折、野球生命を断たれてしまう。
球場は興奮した。阪神がリードされていたこともあって、球場はざわついていた。プレーが再開されようとした時、ライト後方のスタンドから一人の中年男が立ち上った。「今のは王が悪い。王が起こしたトラブルやないか――王、退場。王、退場。王、退場」声のとおったシュプレヒコールだった。一人また一人、ついには一塁側へ、ネット裏へ、声は大きくなった。
「王、退場。王、退場。王、退場」球場で起こる初めてのコールだった。王は一度も打席を外さなかった。権藤の1-3からの投球、こんどは本当に後頭部へデットボール。またも両軍がホームへ殺到した。「王が倒れた」このことで事態は変わった。もう乱闘もなかった。王がタンカで運ばれていった。この後、長島がホームラン。両手を上げたままベースを一周、その姿には鬼気迫るものがあった。
川上監督は「乱闘の責任は私にあります。あえて弁明させてもらうなら、両チームともこの勝負に命をかけて一生懸命やったことを認めて欲しい」と語った。
あれから11年の歳月がながれた。あの日、一緒に行こうといって行けなかった甥は、見そこなったことを、今でも悔やむ。その彼も大学4年。就職の話に余念がない。
あのシーンは7時30分すぎだった。当時テレビは8時からだったので、あのシーンを見れたのは、球場にいた55000人の人達だけだった。
今でも目を閉じれば「王、退場。王、退場。王、退場」のシュピレヒコールが聞こえてくるようだ。
王がバットを置く日が近づいてきた。できることなら、長島のように引退して欲しい。もし優勝が絶望だったら早目に発表して、各球場で別れて欲しい。そして最後に後楽園でファンと共に、また両親を招待して欲しいと思う。
最後にあの日「王、退場」のコールに和したことを、誌上をかりておわびしたい。でも、あのシーンに立ち合えたことは、プロ野球ファンにとって最高の幸せであったかもしれない。
「王 貞治」論 寺内大吉氏選評
打席に立っても、グランド外の態度でも「完全人間」に近い王貞治である。今回のテーマはたしかに難解であった。残念ながら当選作を選び出せなかった。
佳作の3篇、それぞれに美点があった。しかもその美点の部分が逆に欠点となっているのも不思議である。
<中略>
金岡君の「ただ一度の罵声」はなつかしかった。ぼく自身もあの晩、甲子園球場にいたからである。あのシュプレヒコールはいまだに耳底でこだましている。描写どおりであるが、あの苦境下での王貞治の人間分析に鋭利さがなかった。
選外となった奥村君が王の外国籍にふれて書いている。金岡君がそこまで筆を及ぼしていたら、と惜しまれた。
