今日はあまりスピリチュアルには関係がない話。

 

私は中・高の時はずっと成績が悪くて、レベル分けのある科目は割と高い確率で下のクラスにいた記憶がある。でも、英語だけはずっと得意だった。マイケル・ジャクソンと結婚したい、結婚できなくてもどうにか近づきたい!と本気で思っていたから(笑)、かなりモチベーションが高かった。私が大学に入学できたのも、英語一本で入れる大学だったから。浪人せずに入れたけれど、他の教科はボロボロだった。そんなわけで、私は英語だけは得意だと自負していたのだが、スウェーデンに来たときに、頭に入っている知識が全然使えないことに驚いた。単語も文法も頭にいっぱい入っているのに、実際話すとなると全然言葉が出てこない…。頭と口が全然繋がっていないことにビックリしたし、自負していた英語力の低さにショックを受けた。

 

日本の教育というのは、基本的には大学に入るための教育、ペーパー試験に合格するための教育なので、私が英語を習った時は、とにかく読み書きの力が重視され、話す力はほとんど授業では習わなかった。私たちの高校の先生も、ちゃんと英語を話せる先生は英語科にどのぐらいいただろうか?だから、This is a penから始まる教科書べったりのような教育では、使える言語力は育たない…と思った。(そもそも、this is a pen, is this a pen? なんて、誰がどんな状況で使うのか!?笑)そんなこともあって、縁があって日本語教師になった時(日本語教師になった経緯はこちら)、私が受けてきたような教育は絶対にしないと決めた。

 

言語教育も色々な歴史を経てきたのだが、1960年代から80年代は、知識は教師にあり、学習者は教師から与えられた知識をひたすら暗記し、再生することが求められた。教室は外部から閉ざされた特殊な環境で、限られた時間の中でどれだけ機械的/効率的に知識を詰め込み、(実際の社会と定義された)外の世界で使える能力をいかに育てるかが教師の役割だった。つまり、教室は外の社会のための練習の場だった。1990年代に入ってから、人は社会の中で他者とのやり取りの中から学んでいくという教育観に変わり、教室自体が社会である、教室でのやり取りも「今ここ」の意味のあるやり取りでなければならないと考えられるようになった。教師の役割は、学習環境を整えることで、学習者の学びを最大限に引き出すために、どう環境を整えるかという方向にシフトした。

 

世界の言語教育の背景や、自分の経験から、私が心がけていることは、「教科書からの解放」と、「いま、ここ」のやり取りだ。つまり、教科書は、学生の自習のために使用し、教室内では教科書は開かない。その代わり、教科書の文法を使っての、お互いの自己表現、他者理解に徹するということだ。このことを意識するだけで、言語学習が拡大するんだ…というのは、学生を見ていて毎回思う。

 

例えば、「~に、~があります」という文法項目で、教科書の〇〇ページに載っているメアリーさんの家を描写しましょうという活動をやったって、さほど学生の学びが拡大することはないのだが、「あなたの家に、何がありますか」という質問に変えるだけで、教室のやり取りは全然違うものになる。例えば、私の家には日本のウィスキーがあります。と学生が答えれば、その学生がお酒が好きなことがわかるし、どこで買ったのか、高かったか、他の国のウィスキーと何が違うのか、どのぐらいの頻度でお酒を飲むか、よく一人で飲むのか、家で飲むのが好きか、外で飲むのが好きか、などなど、色々な話題に発展する。学生もたいてい表現したいことがあるから、「こういう時に何て言えばいいのだろう?」というモチベーションから、語彙も増えるし、新しい文法も自然な形で導入できたりする。クラスの雰囲気もとても穏やかになるし、笑いもあるし、いいこと尽くし!

 

少しだけスピリチュアルな話につなげるとすると、学生の言語力の伸びを促すには、教師が「枠を外す」ということがとても大事だ。「教育とはこうあるべき」という考え方を持って、古いやり方に固執していると、学生もその枠に閉じ込められて、学習は枠内だけでとどまってしまう。語彙も文法も「教科書に出てくるもののみ」といったコントロールされた中では、学習の広がりも見せない。だから、本当に学生の言語力を伸ばしたいなら、教師がまず枠を外し、学生を解放してあげるということが大事になる。学生の力を信じるというのも、教師の役割だ。本人の力を信じ、解放する、これってスピリチュアル系のセラピストさんとスタンスが似ていないだろうか?そして、本人の自律的な学びや気づきを促すサポートはするけれど、余計な干渉はしない、というのも、セラピストさんと共通点があるような気がする。

 

学生の力を信じる…と言えば、楽器を習得するためのメソッドで、スズキ・メソードというものがある。鈴木慎一さんという方が開発したメソッドで、世界中でとても有名だ。鈴木先生は「どんな子どもでも楽器を弾くことができるようになる」という信念があり、「ten thousand times!」というのが口癖だったそうだ。1万回練習すれば誰だってできるようになる…ということだ。ポテンシャルを信じるということは、言語教育でも同じだと思った。多少の才能の違いはあるけれど、誰だって練習すればできるようになる。教師が「この子は才能がないから…」とあきらめてしまえば、能力は伸びないが、教師の学生への信頼があれば、いくらでも伸びを見せたりする。

 

そして、瞑想も、チャネリングも、みんなトレーニングだと言っている。私は未だに瞑想15~20分で寝ちゃうのだけれど、「1万回やれば」できるようにはなるだろう…。だから、それをやるか、やらないかのみ!私もわかっちゃいるんだけど。。苦笑。だらだらして真剣に取り組まない自分、これも向き合うといいのかもなーと思う今日この頃。