今日は「わかり合い」について。

「私のことをわかる人の存在など、ありえない」

人と分かり合うことは原理的に不可能だ、ということを身に染みて感じるとき、

このつらさ自体、人と分かり合うことができないとも思い、私は惨めな思いがする。

「きっとあなたのことをわかってくれる人はいるよ」

という言葉はそもそも、問題をあまりにも誤解している。

そういう言葉を貰ったとき、私は

「そうだといいんだけど…」

と言い、いわゆる「普通の人」になって、その話題を切ろうとする。

普通の人は、

「親友は私の本当の辛さをわかってくれる」

「親は最後には自分のことをよく理解してくれている」

というけれど、

それは擬似のわかり合いなんだろうな、と私は感じる。

結局どっぷりと偽のわかり合いに浸かり込んで、その味しか知らない人は、

自分のそれが偽物だということに、気づきすらしないのだろうなと思う。

結局私が言いたいことは、いわゆる

「誰も私のことをわかってくれない!」

というようなレベルの話ではない。

「あなたが人に理解されないと感じるのは、あなた自身も人のことをしっかり理解しようとしていないからだよ」

というような、

問題の本質を全く見ずに出す、いわゆる「優等生の」発言を聞き、私は虚しくなる。

周りの人も

「そうだよ、みんなのことを心から考えてあげてないからそんな風に思うんだよ」

と、なんだか私を悪者にする。

ああ、このあまりにも何も考えずに字面だけに飛びついて、それは良いことだそれは悪いことだと、「感情的な」判断をし続ける動物たちよ。

あなたがたは、物事を味方と敵に分類せずにはいられないのか。

見渡す限り獣に溢れている。

そうでないものも、獣であることが求められているものだから、獣の皮を被っている。

私は、私の友をどう見つければよいのか。

獣の皮を被ることは、いわゆる「社会で生きるためのスキル」として賛美される。

このブログで、心の友に出会いたい。