母は精神的にも弱い人間だった。そのため、私に依存したがった。休日、友達に遊びに誘われることもあったが、母は自分が一人になることを拒み、出かけることを許されなかった。ただ母の買い物に付き合わされ、残りの内職をこなす休日だった。

 たまには友達と出かけたいと言うと、「子どもは親を幸せにするためにうまれてくるもの。だから私の言うことを聞きなさい」「どうして反抗するの。こんな子になるのなら産まなきゃよかった」「施設に預けずに、病気の私が面倒みてあげているだけありがたいと思いなさい」…。ここまで言われると自分の存在価値を見失い、母のために生きるしかないと思うようになっていた。

 中学校の宿泊を伴う行事には、しぶしぶ参加させてくれていた。ただ、私は行きたいとは微塵も思っていなかった。荷造りをしている時から母は不機嫌になるし、そもそも着ていく服がなかった。中学生の私は、制服かジャージを着ていれば学校生活を送れたので、私服をほとんど持っていなかった。家では母の着古した洋服を部屋着にし、外に出るときはぼろぼろのいつも同じ格好をしていた。だから、数日間友達と過ごすための洋服がなかったのだ。

 なんとか準備して参加していたが、とにかく今の母の機嫌はどうなのかと、そればかりが気になって楽しめなかった。また、行った先で公衆電話があったら、母を安心させるために連絡するように命じられていた。

 

 テレビすら「電気代がかかるから」「勉強の妨げになるから」と見せてはもらえなかった。雑誌も漫画も買ってもらえなかった。私の日々に娯楽と呼べるものはなかった。だから、学校で友達の話に合わせるのが大変だった。知ったかぶりをし、自ら話題を提供はせず、ただ相槌を打ってその場をしのいでいた。

 部活にもろくに参加しない、遊びの誘いにも乗ってこない、そもそも話が合わない。そう思われたからだろうか。いつの間にか私は一人でいることが多くなった。休み時間に話す人がいなくなった。移動教室は一人ぼっちだった。

 でも仕方なかったのだと思う。周りのみんなが何かを感じ取る以上に、私が壁を作り、その中に閉じこもっていたのだ。「辛い」「苦しい」「助けて」と言えたら何か違っていたのかもしれない。でも当時の私にそんな勇気はなかったし、そもそも人生を諦めていた私は、行動を起こす気力すらなかった。