朴裕河パクユハ著 「帝国の慰安婦」を読む 7 | 気になる映画とドラマノート

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いま、テレビでは、安保法制は違憲だと、「憲法学者の多くが」言っている、という主張が飛び交っている。

 


 

 まず、大前提として、他国では、「憲法学者の多数意見と少数意見」は、何の参考にもされない。なぜかといえば、「決着をつける機関」が明白にさだまっているからだ。

 


 

 たとえば、ドイツ、イタリア、フランス、韓国には、憲法裁判所があるので、マスコミはこの機関の出した結論を紹介すればよく、憲法学者の多数意見と少数意見を紹介する意味がない。

 


 

 アメリカと日本の場合には、「憲法裁判所」という違憲審査に専門化した機関は設置されておらず、通常の裁判の三審制の過程で、違憲制も判断される。

 


 

 「憲法学者の多数意見」という機関が決定的意味を持つ国はなく、日本、アメリカも「憲法学者の多数意見」に重みはないのだが、なぜか、日本のマスコミはこれを言い出す。

 


 

 では、日本の場合、どういう仕組になっているかというと、

 

1.内閣の提出する法案を、憲法と法案の整合性を研究する専門家集団としての「内閣法制局」が事前審査するのが、第一段階の審査。

 


 

2.法案成立後に國民の誰かから、裁判所に訴えが起こされ、次のような判決が出た例がある。

 


 

東京地方裁判所 (裁判長判事・伊達秋雄 )は、1959 3 30 、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9 2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。

 


 

 ただし、これは、三審制によって、最高裁判所がちがう見解を出す場合がある。

 

独裁制ではない、民主制では、用心して、三審制をとって、即断を避ける。

 

 朝鮮は、民主主義人民共和国とは、自称するが、三権分立もなければ、三審制もない。

 


 

 つまり、少なくとも、法律の違憲か否かを判断するのは、日本においては、裁判所か、内閣法制局であって、「憲法学者の多数意見」ではない。

 


 

3.これは次の事を意味する。

 

内閣法制局で違憲と判断すれば、政府は、その段階で法案を断念する。

 

内閣法制局で合憲でも、「合憲ではあるが、情勢判断からして、立法を差し控えるほうがいい」と言う議論を国会の多数側が受け入れれば、断念。

 


 

 そして、合憲でもあり、必要性があると、多数派が判断を維持すれば、多数決によって、立法化される。

 


 

 つぎに、「二つの弁護士グループが全295小選挙区 を対象に14高裁・支部で起こした計17件の訴訟で、「違憲」判決は初めて。この日はほかに5高裁・支部で判決があり、2高裁が「合憲」、3高裁・支部が「違憲状態」とした。 」と言ったふうに、訴訟がなされて、裁判所が判断する段階になる。

 


 

 いずれにしても、「憲法学者の多数意見アンケート」が結論根拠とはなりえない。

 

 マスコミがかなりな禁じ手をしているといえるのは、視聴者國民に以上の過程が本来の判断基準だという事を知らせていないことで、上記の基本を知らないままに、「憲法学の多数意見のアンケート結果」という基準を頭の中に大きくイメージして考えている國民が少なからずいるという事はかなり愚劣な状況だ。

 


 

 憲法学者の多数意見アンケートを最終結論に反映しなければならない、という法律を制定するならして、その上で、「憲法学者の多数意見アンケート」を出せばよいのである。

 


 

 たとえば、「新聞各社は國民に世論調査をして、国会議員の支持率が10%を割れば、議員辞職しなければならない、なあんて法律はなく、あくまでも、選挙が基準だが、マスコミというのは、実際は、報道ディレクターの事であり、彼らの意見を押し通すためには、「正規の基準を國民に隠して、別な基準を國民に示して意見誘導をするという」手法が取られている。

 


 

ところで、では「憲法学者の多数意見」と反する法律を立法化してもよいのか、という疑問については、どうするのだろうか。

 


 

 憲法学というのは、科学ではないというのがこの点の困るところなのだ。

 

 社会の多数が出した結論である「天動説」に少数派のガリレオは「地動説」を唱えてゆずらず、投獄された。

 


 

 ヒトラーは多数決で選ばれた。

 


 

 この場合、間違っていたのは、多数決で、少数派のほうが正しかった。

 

 が、逆に少数派がおうおうにして間違っている場合もある。

 

 いずれにしても、多数派が真理の基準にならない事は確実なのだから、「憲法学の多数派」と合わない事は何の引け目にもならない。

 


 

 内閣法制局の見解が露骨に屁理屈の場合は、その露骨さを議論すればよかろうし、政府見解の矛盾があらわならば、それをつけばよい。

 


 

 そして、裁判所の判断が最高裁であっても、なお、違憲だというなら、いかに、国会が承認しても、違憲なのである。それさえも、最高裁の限られたメンバーの判断だから、真実はわからない。だから、結局は、あらかじめ、決められた権限のある機関の判断に従うしかないのが、民主主義社会のルールなのだ。

 


 

 一党独裁とちがうのは、いくつかの関門が設けられていて、一定の独立制がある事が大事で、真実性の保証は、もとからないのである。

 

 85.2001年の国際労働基準、ILO条約勧告適用委員会は、日本の

 

「日韓基本条約によって、すべて解決済みという主張を認める、とした。

 


 

 そして、2012年秋のジュネーブで開かれた国連人権委員会では、「日本政府の非人権的態度について日本を名指しで批判した国は、七カ国だった。

 

韓国、北朝鮮、中国、オランダ、コスタリカ、東チモール、ベラルーシである。

 


 

 これは見方を帰れば、190以上の国のうち、強力に非難するのは、七カ国のみということになるが、一方、EU、アメリカの歴史教科書、ニューヨークタイムスなどで、韓国の支援団体のプロパガンダは完全に浸透しているとも言える。

 


 

 86.慰安婦を単に金儲け目当ての娼婦とするのは、実態とちがうし、20万人性奴隷もウソだという。

 


 

 ただし、朴裕河は、トゲを刺すのも忘れていない。朝鮮人女性とちがって、オランダ人、中國人は敵国女性は敵国女性だったからこそ、残酷なことをした蓋然性が高い、と。日本人としては、日本兵は、故郷に帰っていいふらされるのが、イヤだから、あまり残酷なことは自制したはず。そして、平和時でも、いる不届き者は、戦時にいた事は否定できないとする。

 


 

 朴裕河は、中国、オランダについては、疑問だが、むしろ、朝鮮人強制連行はない、と断言している。

 


 

 朴裕河は、慰安婦を単なる娼婦と解釈するのはダメだという理由を次の様に言う。

 

1.慰安所の外で安易に強姦された場合があったこと。

 

2.本国から遠い占領地に行って商売をする境涯のつらさは、平時の遊郭で働く寂しさ、つらさとは格別の心細さがあり、単なる商売と言いきるには、あまりにも無情であること。

 


 

3.貧困ゆえにそのような場所で働くことになり、当時の衛生状況の悪さを伴う過酷な環境を考慮にいれると、簡単に金儲け目的の商売と言い切るのはおかしい。

 


 

87.朴裕河は執筆のさなかにも、迷いながら考えていたらしく、時にこちらが驚くほど日本の立場を弁護し、朝鮮の立場を辛辣に批判したかとおもえば、実はそれが一貫した姿勢ともいえなくて、224ページの「否定者を支える植民地認識」になると、激烈に植民地支配の糾弾をはじめる。

 

また、娼婦というが、娼婦でありながらも、彼女らは時には、(休日に文字とおりの)強姦されていた場合もある、なぜなら、家族の中で暮らしていないのだから、犯罪の被害者になる機会が通常よりも多くあった、と言う。

 


 

 では、何を根拠に、法的補償は必要ないが、謝罪は必要だと言っているのだろうか。<日本内地の女性の、売春前歴のない女性、21裁未満の女性の渡航を禁止して、日本人女性を保護していたのに、日本の売春経験者、および、朝鮮女性には渡航禁止命令を出さなかった。つまり、保護を放棄していた。>からだという。

 


 

 これは、かなり説得力があるが、わたしは、それでも、一抹の疑念がぬぐえないのは、朝鮮、韓国人が日本に責任を問い、謝罪を要求できるのは、大韓帝国自身が国家運営を放棄して、責任主体たることを放棄したからで、もし、大韓帝国が存続していれば、半島内の冤罪も、キーセンハウスも、犯罪の多発も、大韓帝国の国家責任が問われて当然のところのものを、国がなくなっているがゆえに、国家悪の不始末をすべて日本政府におしつけてすましていられるのではないか、という疑問だ。日韓併合とは、国家運営の放棄でもあった。

 


 

 女性の人権を軽んじたのは、韓国人も長い伝統においても、そうなのではないか、と言う事だ。

 


 

 慰安所の利用を常識としてきた異常性と朴裕河は言うのだが、韓国社会もまた、仮に日本とは、まったく隔絶した国であったとしても、韓国は韓国で男性中心社会で、キーセンの猖獗を極める、女性抑圧社会であったことは、日本の吉原などと負けず劣らずのものだった。戦時の日本を非難するなら、李氏朝鮮から

 

朝鮮戦争以後、現代まで韓国のほうが、よほど悪質な女性蔑視国なのである。

 

 現実に、韓国KBSテレビは、最近、韓国女性が10万人、カナダ、オーストラリア、アメリカ、日本に風俗業のために出国して、他国の顰蹙を買っている。韓国政府は苦慮しています、としました顔で、報道している。

 

朴裕河のようなきわめて誠実な学者でさえ、このことを忘れている。

 


 

たとえば、不倫して父親であり夫である男が、子どもを置いて出て行ったあとの母子家庭をひとりきりもりする女性が疲れ果てて、幼児虐待をしたり、覚せい剤をやれば、逮捕され、裁判にかけられれば、法はその女性ひとりを罪に問う。だが、真実はどうなのか。その母子を無責任に捨てた父親がのうのうとしているのは、おかしかろう。つまり、慰安婦を地獄の境涯においた責任は、本当は日本帝国主義ばかりの責任ではなく、大韓帝国リーダーの無責任性にもある。

 


 

 それは、けっして日本の強圧に屈したからしかたがないとは、言えない。

 

 中華文明の優越性を過信して、率直に文明開化を急がなかった暗愚が、朝鮮の停滞と財政破綻をいっそう早めた。日本がテコ入れしても、いっかな貧困を極めるほどで、なかなか回復しなかったのは、日本がおさえつけたのではなく、助けても助けてもたちあがれなかったのが、大韓帝国だった。それは、併合前の韓国が王と王妃の支配する、憲法の無い国だった事からも、わかりそうなものではないか。

 


 

 当時の韓国は、農民の叛乱をやさしく、宥和するかといえば、強行に弾圧しようとして、その能力もなくて、清國に弾圧の加勢をたのむほどだった。

 

 その果ての日本にすべてを放り出しての亡国だったのである。

 


 

 その後の朝鮮女性の悲劇を皆、日本の責任と云われてもたまったものではない。

 

 それは、逃げた片親が、その後の家庭の悲惨な成り行きに知らんぷりしてホッカムリをきめこんでいるようなものだ。日本が多少とも、内地びいきだったと言うなら、そうならないように、死ぬ気でがんばって、日本の明治のリーダーのように、西欧に多数の青年が留学するべきだったが、朝鮮の人々は、儒学にこだわって、開化を拒んだ。

 


 

 わたしは、憲法学者の木村草太、作家の大江健三郎、自称知識人の野田正彰などのような、なにかを「国民全員で考えるべき」という発想は、いっさい、それこそ国民全員が捨て去るべきだと思う。国民全員が持っていい態度は、国民全員が考えるべきことなどない、という事だ。

 


 

 原発運動の当事者は、原発を国民全員で考えるべき、と言い、慰安婦の問題を論じるものは、国民全員で考えるべき、といい、温暖化、環境問題を言うものも、同じ。護憲も、改憲もそうなのだ。だが、人間というものは、昆虫の研究に一生を終えても、宇宙の起源を考えることに専念しても、万葉集のことのみ、考えてもいいに決まっているではないか。

 


 

 国家謝罪の発想それ自体が、すでに朴裕河自身がしきりに言う、トータルな戦時中の女性の本当の思いを型にはめてしまうことになるのである。

 

 私たちが時に思い起こして見たほうがよい人間像は、あまりに、無数かつ多様で、謝罪してほしいと声をあげた人に皆が注目して謝罪と賠償をすることは、声なき声、声のとどかぬ場所で死んだ行った人々、旅芸人、瞽女さん、満洲に残って一生を終えた人々、空襲で焼け出された人々、戦災孤児になって、長い戦後を生き抜いた人々、あまりに思い起こすべきことがある。

 


 

 ただ、朴裕河の著書にとても良い点があることは、こうした事を考えさせるきっかけになるような論じ方が、朴裕河にはあった。というのは、朴裕河は、慰安婦の実像へひたすら迫ろうとしている事がわかる。

 

 けっして、日本帝国主義にひどい目にあった、やられた、とばかり思うわけではなく、時に、誇りを持ったり、失望したり揺れ動く、明日死ぬかもしれない兵士をはげましたり、また、貯めた金で、自分で小さな慰安所を経営して儲け、一転、日本敗戦で、財産を失ったりする彼女たち。病気で亡くなった人もいたろう。

 


 

 韓国が好きな日本の資産家はいくらでも、いるのだから、謝罪だの民間基金だのいわずに、そうした韓国好きな資産家が金を出し合って、ナヌムの家を1億円で、建て直しましょう、と言って、話しあえばいいではないか。謝罪がないなら、いらないだなんて言うはずがない。建て直しましょう、という人間の顔つき、態度次第だ。

 


 

 作家の高橋源一郎は、慰安婦の存在を否定するな、日本文學にいくらでも、書かれている、というが、問題は、謝罪するかしないかなのである。

 


 

 朴裕河の提示した資料の中の慰安婦像には、次ようなものがある。

 

「軍人たちが出ていくと、観送迎会を開き、帰ってくると、歓迎に出向いた。たまに時間ができると、消防隊訓練をしたり、米俵に砂を入れて、やりで刺す訓練もした。訓練は黒いモンペをはいて、黒い帽子をかぶった。」

 

「こういう人もいれば、病気で苦しんで死んだ人もいる。中にはちゃっかり金を貯めて家を建てた人もいる。」

 


 

 シム・ミジャという女性は、自分と一緒にいた慰安婦が、ほんとうの慰安婦で、ほかの人達は、業者の元で営業した女だ。被害者は自分たちだけだ。」と言ったという。239ページ

 


 


 


 

 戦死した日本の軍人朝鮮半島出身の軍人に謝罪しようと思って、靖国に行く人はいない。

 


 

 同じなのだ。謝罪というのは、加害被害関係におくものだ。人間の人生は、謝罪を受けたいという、思いを中心にして生きるべきものではない。

 


 

 88.朴裕河は、河野談話の言う「強制性」は、軍の強制ではなく、朝鮮人業者の強制だから、正しい、というのだが、一般にはそうは解釈されないからこそ、政治家が、謝罪の儀式なんぞ、もうしないほうがいいのである。

 


 

 朴裕河があの談話は、国家と軍の強制性を認めたものではなく、朝鮮人業者の強制の事だと言っても、じゃあ、なんで業者を非難せず、自分がお詫びするんだ、という事になる、と多くの人がそう思うしかないのが、「談話」「声明」「決議」の本質なのである。