NHKBS奇皇后 | 気になる映画とドラマノート

気になる映画とドラマノート

厳選名作映画とドラマを中心に、映画、テレビ番組について、思いついたこと、美麗な場面、ちょっと気になる場面に注目していきたいと思います。

 



だいぶ前から、わたしはNHKは、アメリカのCNNのように、天気予報や現場ニュースに特化して、芸能、ドラマ、歌、などはやめて、古典芸能は教育テレビでやればそれでいいではないか、と思ってきた。
 NHKのやり口は汚い。AKBのドキュメンタリーや錦織のテニスなど、コストのかかる事を厭わず、民放に勝って、好視聴率番組を作り上げるのだが、それは、国民に高い視聴料を払わせて、潤沢に予算があっての事なのである。
それでいて、番組をDVD化して売って、小会社を作り、社員を天下りさせる機転はきくのだから、あきれる。

 現在、NHKはBSで奇皇后を放送しているが、この放送、まずおかしいのは、
1.民放が予算を惜しんで買えない高値で、韓国放送界の最も視聴率のよかった番組を買い上げていること。
2.日本のNHK有料放送BSを見ることのできない環境の家庭の奥様が、韓国ドラマファンの場合、NHK有料放送BSに加入したくなるのを見越して、わざとBSで先行放送する。
3.退職して、こがねのある老人向けにDVD化して韓国ドラマを売って、さらに庶民のふところをかすめとる。こすっからい事おびただしい。
4.「ドラゴン怒りの鉄拳」で、日本人を成敗したブルース・リーでも、大ファンの日本人は多いように、韓国好きな日本人は多いのだから、なんぼでも再放送してやればよいではないか。だが、NHKはそうはしない。オンデマンドで金を要求し、DVDを大枚、なにしろ、韓国ドラマは、50話がざらなので、全巻そろえれば、20万円もするが、それをNHKは平気で老人に売る。


1200年ころ、当時100万人の人口だったモンゴル帝国はインド、朝鮮半島、南宋、ヨーロッパの順に統合することを決定する。

 


 

 1231年、モンゴルに征服された高麗王は、代々、モンゴル王族の娘を妻として、名をモンゴル式にあらため、夏は草原のテントで暮らし、冬はモンゴル式の暮らしをするようになった。

 


 

 韓国の歴史では、韓国ドラマ「武神」にも描かれるように、「勇猛な武人が雄々しくモンゴルに抵抗した」とされる。実際には、当時渦潮に閉ざされた江華島、に立てこもっただけでのことで、祖国は蹂躙されるのに、まかせたのが事実だった。

 


 

 この江華島に立てこもった武人の長が、「武班・文班」の両班制度を半島に創始した。

 

 その後、儒学者は、両班と奴隷の存在の起源を、奴隷の先祖は、盗人、両班はまっうとうな人間の先祖、とこう解釈して、奴隷制を正当化した。

 


 

 モンゴルから逃げた武人たちは、命を永らえるために、江華島、珍島、と逃げて最後に済州島に逃げた。だが、この武人たちは、モンゴルに制圧されて、済州島はモンゴル草原から運び込まれた。馬の生産地になる。これが、韓国ドラマ「馬医」のモデルになっている。その後、済州島は元の直轄地になっために、人びとは、長く、モンゴルの元に対する服属意識が強くなり、高麗、明を嫌ったために、やがてこれが韓国人の済州島の人びとへの地域差別の遠因になる。

 


 

 「高麗」の版図は、現在の南朝鮮、韓国の地図にほぼ等しい。北部はモンゴル帝国の領土になっていた。ちょうど、日本の鎌倉時代あたりに、日本の福島あたりまでが、ロシアの領土に一度、なったような、そういう状況が生じた。日本の場合は、そういう歴史はないが、高麗は一度、現在の韓国と同じ地域までの国になった。

 


 

 その上で、モンゴルは高麗をモンゴルに服属する国、として、姻戚関係を結んだ。

 


 

 こうして、韓国ドラマ「善徳女王」や国営KBS局「大王の夢」に描かれる「三韓統一の夢」は、無惨にモンゴルに服属し、モンゴル人の妻を迎えることを義務づけられ、領土は、南朝鮮まで、という時代を迎える。

 


 

 1272年、北条時宗は、反対勢力を殺して、対モンゴル勢力への備えを固める。

 


 

 現在の在日コリアンの幻想である「朝鮮人は平和穏健で、侵略したことがない上品な人びと」というのは、間違いであるのは、この時、モンゴル軍の軍服を着て、日本に襲来したのが、実際には、モンゴルに服属した高麗軍だったからである。

 

 高麗軍8千人。北に連れて行かれてモンゴル人化したモンゴル人1万8千人が、日本を侵略した。

 


 

 その高麗人がモンゴル化して、残酷な手口を覚えて、対馬の女性たちをつかまえては、手の甲に穴をあけて、縄を通して、連れて行き、奴隷として売られてしまった。

 


 

 その後、日本の東北地方にまで、対馬の人びとが襲われた恐怖が語り伝えられ、悪さをするこどもをしつける時、「アモコ(蒙古)が来るぞ」「ムクリ、コクリが来るぞ」と様々なバリエーションで、当時の日本人の、次はこっちの沿岸に高麗、モンゴルが来るのではないか、という恐れが記憶として残る。

 


 

 そして、この時の、対馬の人びとの怒りが、倭寇という武力に長けた集団形成につながる。

 


 

 1276年、南宋がモンゴルにほろぼされて、いったん支那は、モンゴル人の支配する地域に変わる。中国人は、政治指導者の歴史をたどると、途中で、満州族の後金、チンギス・ハーンのモンゴルにたどっていかざるをえず、それはたとえば、フィリピン人が、スペインをフィリピンの祖国というようなおかしさになるのだが、中国人は気づかない。

 


 

 これを例えていえば、日本の江戸幕府がすべて、異国の人間によって占められたとか、日本の内閣が全員アメリカ人になって、地方の知事は、アメリカ人が指名される、といったような状況が、支那に生じた。

 


 

 北条時宗は弘安の役から三年して、三十三歳で亡くなる。

 


 

 高麗の1337年の王の名前は、パドマルドルジ、その次の第三十代王は、ミスキャブドルジであり、次は、バヤンテムルというように、露骨にモンゴル名を名乗っていたが、この名前を韓国ドラマで連呼すると、あまりにも、民族的にみじめであるためか、韓国歴史ドラマで、当時の呼び名、モンゴル名を使うのは、タブーであるかのように、隠蔽される。

 


 

 NHKは、潤沢な予算を韓国ドラマ輸入につぎ込み、日本の民間放送局に絶対負けない高値で、韓国ドラマの高資料率番組を買い付けて、BS、地上波、と再三再放送する。

 


 

 2015年のそれは、「奇皇后」であり、これは、元朝最後の皇帝トゴン・テムル・ハーンが、高麗の貴族の娘を側室にして、その息子アーユリシューダラを皇太子にしたという史実をふくらませたフィクションで、ドラマでは、盗賊でも貴族でもなく、義賊の娘という設定になっている。

 


 

 李氏朝鮮の開祖、イ・ソンゲの父は、李ウルスブハという名前の女真人だった。

 


 

 イ・ソンゲの父親の暮らしている場所というのは、ちょうど、高麗が元に侵入されて、高麗の版図が現在の韓国に匹敵する版図になり、北側がモンゴルの直轄地になっていた当時の、その北側、元の遼陽行省に住んでいた。

 


 

 奇皇后と奇皇后の兄が元の最後の皇帝を擁立したうえで、力を持ち始め、モンゴルの統治能力が崩壊しはじめた時、半島の南側の「モンゴルかぶれした高麗」と高麗の北方の元の遼陽行省の勢力との間に、衝突が起こり、女真人の李ウルスブハが降伏して、高麗に降伏する。この女真人の息子、イ・ソンゲが高麗の将軍としてなりあがり、やがてクーデターを起こす。

 


 

 一方、奇皇后は、元々自分の生家が半島の南の高麗にあり、実家の兄が、自分の娘は元の皇后になって、その息子は元の世継ぎになった、と威張り、権勢をふるい出したために、高麗の内部で殺されてしまう。兄が殺された事を知った奇皇后は怒って、出身地の高麗に元軍の遼陽兵一万を高麗に送って、攻めこませるが、遼陽兵は敗れる。

 


 

 奇皇后は、現在の北京、当時の大都に住んで、南朝鮮の生家の事を思っていた。

 


 

 高麗の王とは、元の王族の娘を代々、妻としており、その高麗が、もともと、高麗から嫁いだ女の命令によって、攻めこまれた。

 


 

 奇皇后の夫、トゴン・テムル・ハーンは、大都(現在の北京)から、内モンゴルの祖先の故郷に逃げてしまう。1368年

 


 

 そして、元の衰退とともに、元来、モンゴル人の女を王の妻としてきた高麗も統治能力が衰退して、女真族出身の将軍イ・ソンゲのクーデターにより、ワン一族が皆殺しになって、李氏朝鮮が、明国に服属する・・すなわち、李一族が国内の反乱により危機に陥った時は、明国が支援するという約束の確立のもと、朝鮮を建国する。この時、支那には、衰えた北元と勃興した明が併立しており、高麗の王族は、衰えた元を恋したって、明国の威勢を恐れる将軍たちと対立しはじめる。

 


 

 自分の命を永らえると同時に、衰えた元にしがみつく高麗王を殺して、高麗地域の最高権力者の地位を奪取しようとしたのが、将軍李ソンゲとその支持者たちだった。

 


 

 イ・ソンゲの孫にあたる大王世宗は、1419年、倭寇征伐を目的として、10日間、対馬攻撃をして、「対馬の宗氏家譜」は、日本側戦死123人、朝鮮兵戦死2500人としている。

 


 

 これを見た当時の支那人が朝鮮軍のふがいなさをあきれたとされている。

 

 平和な民族で、征伐しないなら、ともかく、征伐しようとして返り討ちにあったのが、「大王世宗」の対馬征伐だった。

 


 

秀吉の時代、すでにスペインの東南アジア進出がはじまっており、モンゴルが日本を侵略しようとしたという時代の趨勢を見据えて、秀吉は、明、そしてインドの制覇を構想して朝鮮をその途次として、朝鮮侵攻を開始した。それは、突然の侵略ではなく、朝鮮の王宮二大派閥官僚の代表二名を呼び寄せて、これから日本は、明を攻めるから、朝鮮は日本の道案内をせよ、と通告してのものだった。

 


 

 李氏朝鮮の王宮官僚ははじめから最後まで延々と内部抗争を続けた。 祖国を守る事でさえも、派閥抗争に夢中で、秀吉の通告内容についての解釈について、意見がわかれて、二人は帰国後、「日本は実際には明への攻撃を仕掛けないから、朝鮮もまた、あわてて、軍事に支出する必要はない」という見解と、「秀吉は本気であり、軍事に予算を支出して、備えを固めなければならない」という異なる見解を王に提出して、宣祖と側近は、「日本は実際には、来ない」という見解を採用して、対策を取ろうとはしなかった。

 


 

 秀吉軍の侵攻がはじまると、秀吉の通告にかかわらず、あえて「秀吉軍は来ない」と誤った判断をしていた宣祖と首脳たちは、都を捨てて、国境まで逃げた。

 

 民衆は民を棄てて逃げた王族と側近たちをうらんで、宮廷に火を放った。

 


 

 宣祖の息子たちは、加藤清正の捕虜になって、大きな屈辱を味わうという一幕もあった。

 


 

 秀吉の朝鮮侵攻は、秀吉自身の病没にともなって、終焉し、日本と明国のい間で和議を結んだが、韓国は、朝鮮のイ・スンシン将軍を救国の英雄として褒め称え、高校用国定教科書には、

 

「倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族が持っていた潜在的力量がすぐれていたためである。

 


 

 わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識を持っていた。」と書いている。

 


 

 ここには、ふたつの大きな矛盾がある。

 

 1.現在の在日朝鮮・韓国人の青年層には、朝鮮民族は「平和で穏健な民族だ」という考えが根強いが、韓国国定教科書の説明では、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識を持っていた、とある。平和を愛する民族だから、おしまくられた、というのなら、わかるが、自発的な戦闘意識を持っていたから、撃退できた、と国民に教育している。

 


 

 2.教科書では、「わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識を持っていた。」と言いながら、韓国ドラマは再三再四、当時の王、宣祖が女好きで、「犬のクソ」とアダ名のある女官に籠絡される愚王だという視点でドラマ化しており、また、秀吉軍に攻められて、為すところも知らず、あわてて逃亡するという描き方をしている。

 


 

 秀吉の軍については、「(朝鮮が日本に勝ったのは、わが民族が持っていた潜在的力量がすぐれていたためである。

 


 

 わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識を持っていた。」はずの朝鮮は、この1592年の乱から20年も立たぬうちに、満洲の後金と明軍の戦いに右往左往することになる。

 


 

 朝鮮半島の北方の後金のヌルハチは、朝鮮の保護者であった明国と激闘を繰り広げ、朝鮮は、明国に命令されて、後金と交戦するが、命を落としそうになると、朝鮮の派遣軍は、明国の将軍を差し出して、命ごいをしたことは有名。「わが民族が持っていた潜在的力量がすぐれていた」というのは、日本には、効き目があったが、後金には、まるで効き目がなかったことになっている。

 


 

 後金について、明国は「狩猟民の野蛮人」の意で、「胡」と呼び、朝鮮では明国の北方民族への侮蔑意識を真似して、「オランケ」と言っていた。

 


 

 日本に対しては「倭奴ウェノム」と言い、北方民族については、「オランケ」と侮蔑してはいたが、またしても、朝鮮王は、「後金」を兄とし、朝鮮を「弟」とする和議をのまされた。この時、朝鮮王仁祖は、命乞いをして、「明の年号使用を放棄」「王族のイ・グ」を人質として差し出す事。仁祖は、秀吉軍に攻めこまれて宣祖が逃亡したと同じパターンで、南韓山城に小高い丘の小さな城に逃げ込み、包囲されて、「三田渡」という場所にひったてられて、後金の皇帝ホンタイジに、「三回ひざまづいて、三回頭を地面にすりつける」ことによって、命を長らえる。

 


 

 この屈辱の場面は、なぜか、韓国ドラマ「朝鮮宮廷殘酷史・花の戦争」に描かれる。

 

 わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識を持っていた。という勇敢さは、どこにいったか、さっぱりわからない。

 


 

 この朝鮮王の土下座を記念して、後金(清)は、その地に、「大清皇帝功徳碑」を、バカな朝鮮王を寛大にゆるしてあげた、功徳、の記念碑を建てた。

 


 

 この「大清皇帝功徳碑」は、日本が日清戦争で朝鮮を清の属国から解放してあげた当時、朝鮮の人々は、歓喜して、長年の清國から受けた屈辱を晴らすために、この「大清皇帝功徳碑」を倒して、埋めてしまい、っ清國に屈従の印として建てた「迎恩門」もまた、ただちに、倒してしまった。

 


 

 この「大清皇帝功徳碑」は、清國への屈従を伴う服属を示す大きな証拠でもあり、重要な歴史史跡でもあるため、埋めたり、掘り出したりを繰り返したあと、ついに、1957年になって、大韓民国指定史跡となった。これは、その後、1963年に洪水で流され、現在はレプリカになっている。

 


 

 日本はといえば、明、後金、朝鮮の以上のような成り行きに、まったく関わらなかった。

 


 

 保守派の倉山満は、「韓国たたきなら、なんでもよい、韓国が世界一嫌い、韓国の悪口で気持ちよくなりたい層」をネトウヨと言っている。

 


 

 このネトウヨの定義は、左翼によるネトウヨ観とまったく同じである。左翼によるネトウヨの定義も、「韓国たたきなら、なんでもよい、韓国が世界一嫌い、韓国の悪口で気持ちよくなりたい層」なのだ。

 


 

 傑作である。「ネトウヨ批判」をすることが、知性の自己証明になるという新手のマスターベーションなのである。

 


 

 なぜなら、保守派の倉山満も、左翼人士も、「ネトウヨ」をことさら、批判の対象としてやり玉にあげるが、なにゆえ、カルト宗教に向かう青年、旧左翼、新左翼にいまだに身を投じる青年たち、アニメやアイドルにどっぷりつかりこむ青年は不問に付すのか、まったく不明だというしかない。反知性というなら、カルト宗教に向かう青年、旧左翼、新左翼、アニメやアイドルにどっぷりつかりこむ青年・・・これ、皆、「反知性」である。

 


 

 にもかかわらず、「ネトウヨ」をことさら「韓国たたきなら、なんでもよい、韓国が世界一嫌い、韓国の悪口で気持ちよくなりたい層」と指弾するのは、ネトウヨ批判それ自体が、一種の知識人としてのうぬぼれを持つ人士の間に流行する感冒であり、本質的意味があるとは思えないのである。

 


 

 「韓国たたきなら、なんでもよい、韓国が世界一嫌い、韓国の悪口で気持ちよくなりたい層」と指弾する意味があるなら、それと同程度に、「カルト宗教に入って行く青年」にあきたらず、「アニメやアイドルの写真を集めたり、おっかけをして気持ちよくなりたい層」も同程度にあきたりないはずなのだから、わたしは、「ネトウヨ」を非難する気になれない。まるで、自分はネトウヨじゃないみたいに、「ネトウヨ」を批判するのは、恥さらしな事だし、旧左翼に対する嫌悪と新左翼に対する嫌悪は、わたしには、「ネトウヨ」対する嫌悪よりも強いのも、たしかなのだ。

 


 

 左翼が「ネトウヨ」を批判するなら、そんなヒマがあるなら、おのれが、左翼思想をほりさげるべきではないのか、と問いたい。保守が「ネトウヨ」を批判するなら、保守とは、「韓国たたきなら、なんでもよい、韓国が世界一嫌い、韓国の悪口で気持ちよくなりたい層」だけではなく、「カルト宗教」「旧左翼」「アニメオタク」「アイドルオタク」、「マスメディアの軽佻」をはじめ、あらゆる「反知性」「俗悪」を嫌悪するはずのもので、ことさら「ネトウヨ」をとりあげること自体、文化的流行を模写している点で、おのれの知力の形骸化が始まっていることを疑うべきではないか、と思うのだ。

 


 

 わたしは、ことさら、アニメ好きを非難するほど、自分が大知識人であるとも思わないし、カルト宗教、新興宗教を非難できるほど、宗教哲学を極めてもいない。それと同じように、「ネトウヨ」を軽侮する人びとは、その人自身、何様なのか、と思うのだ。

 

ネトウヨのばからしさは、パチンコに興じる事、ネットアフィリエイトにおおまじめに取り組むばからしさ、カルト宗教にのめりこむバカらしさと変わりないであろう、なんのことはない、それは、(地道に生きろ、ドウ・ザ・ライトシング、)と言っているわけだが、一体、だれが何の資格でそんな説教を人に言える立場に立ったというのか。恥を知るべきなのだ。「ネトウヨ」批判は、それ自体、その批判者の知性の退廃を証明しているのである。。

 


 

 現在の世界では、だれもが、床屋政談と五十歩百歩であり、つまりは、旧左翼の思考の枠組みの中で思考する自己を完全には、払拭できずにいるがゆえに、だれも、安んじて、「ネトウヨ」も、「お花畑」も、笑う資格はあるはずがないのである。すくなくとも、わたしは、著述業以外の反左翼思想の持ち主への「ネトウヨ」、左翼批判の常套句である「お花畑」「反日」などと、いい気な言葉を使う気になれない。

 


 

 改憲することが困難な日本では、常に左翼を批判する自己自身が、お花畑思考に陥る自分を自身に見出す局面にぶつからざるをえない事はあまりにもはっきりしているからだ。だからこそ、三島由紀夫は絶望したのではないか?日本国憲法が有ることは、日本国憲法のような特異な憲法の無い国に比べて、憲法を内的に否認しつつも、常に空理空論に誘う磁場に誘い込まれざるをえないのだ。