韓国ドラマ「きらきら光る」から「馬医」「帝王の娘スベクヒャン」まで | 気になる映画とドラマノート

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韓国で「女人天下」が爆発的人気をはくしたのは、遠く1956年の小説「女人天下」の舞台化に始まる。


 以後、韓国ドラマは、「馬医」から「善徳女王」までほぼ韓国ドラマのほぼ7割くらいは、そうではないのか、と思うほどに、「取り替え子」と貴種流離がテーマになっている。


 なぜ、それほど韓国人も韓国のドラマ作者も「取り替え子」「貴種流離」に固執するのだろうか。

10年韓国ドラマを見続た日本のファンも、いい加減、腹の中で驚いているのではないか。なんでまた、こんなに富裕な家と貧乏な家の子の入れ替わり物語ばかり繰り返すのか???と。さかのぼれば、「女人天下」がこのパターンの最初であり、なんと、1956年に遡るのだ。


 そして、欧米では、「王子と乞食」や「シェイクスピア」の諸作品にこの入れ替わりとなりすまし物語」があり、日本古典には、「かぐや姫」がすでに「貴種流離」だろう。このテーマが、今の今、韓国ではいつまで続くことやら、というほど続いて終わらない。

 ※かぐや姫は、天上という人間界よりも上位の貴種の出の者が、百姓の夫婦に育てられて、最後に天上に帰る。


 つまり、富裕の出の子が、貧乏で人柄のいい家の子と入れ替わって、最後に立身出世を努力で勝ち取り、最後に家柄の良い家の者だと明らかになる、という物語である。


 それは、韓国人のほぼすべての人が、自分が現代にこうして生を受けて居る以上、没落貴族の子孫であり、けっして奴隷の子孫ではないという心情が、族譜によって信じられており、これが物語の主人公の「富裕な家の子」がある事情により、貧乏な家の子に入れ替わって、多大な苦労を強いられるが血筋と資質の良さゆえに、艱難辛苦を乗り越えて、最後に栄光ヨンガンを勝ち取り、真のプライド自尊心を獲得するという物語が、あきもせず、何度も何度も描かれる背景になっている。


 ※いつになったら、飽きるか、予想もつかないほど、何十という作品が、この取り替え子と貴種流離の組み合わせで作られている。


 日本人の場合、オシャカ様の生まれ変わりではないか、という妄想はありえても、(わたしは中学生の頃、実際そう思ったことはある。)先祖が貴族だという妄想はないのではないか?しかし、韓国人は実際のところ、先祖は王族だと確信している人は日本人が腰を抜かすほど多いのである。


 この背景なしに、異常なまでの、取り替え子テーマの繰り返しは理解できない。

 


 

金 永三大統領 

 


 

竹島に接岸施設を設けて、韓国国民に独島はわが領土という問題意識を高揚させる。

 


 

金大中

 


 

2001年

 

「われわれは、世界に類例のない、偉大な光復闘争の歴史を持っている。

 

 (中略)わが民族のみが持つ誇るべき歴史にほかなりません。」とし、韓国人に虚偽の歴史観を刻みつける。

 


 

 というのも、その後、韓国の新聞記者、歴史学者たちの多くは公衆に向けて、ものをいう時、世界に類例のない、というフレーズと、わが民族のみが持つ というフレーズとを滑稽なほど繰り返すようになっていった事実があるからである。

 


 

 また、金大中の韓国の青年に対する影響力は極めて強かったらしく、その後、私達は、韓国の人々や在日韓国人が、「韓国人には、自浄能力と自主性があるから、、デモをする」という論法を、繰り返し聞くことになった。

 


 

 金大中は、日韓の民間交流を制限する政策を取る。

 

 北韓に対しては、宥和政策を取って、韓国人の北韓に対する警戒心を緩める。

 


 

 2003年

 


 

 ノ・ムヒョン

 


 

 北朝鮮・北韓に対する宥和姿勢をさらに強化して、国内の左翼思想を増長させる。

 


 

 2005年3月1日、ノ・ムヒョンがはじめて、「日本は賠償するべきだ」と明言。

 


 

 「人類社会の普遍的倫理」に日本は反した、という観点を韓国のジャーナリスト、教師、などに、強烈に刻みつける。

 


 

 世界に類例のない、 わが民族のみが持つ、「人類社会の普遍的倫理」といった韓国特有のキャッチフレーズが次第に出揃ってきたのが、2000年代韓国政治史だったとも言える。

 


 

 「人権尊重と人類の普遍的規範のレベルで解決すべき」と繰り返すようになる。

 


 

 また、対日道義的正当性を、国家安全保障会議委員長に「われわれの大義と正当性を国際社会に知らしめるために、すべての努力を傾ける」と声明させて、日本に対する歴史認識プロパガンダ戦争開始を韓国国民に周知徹底した。

 


 

 労働組合への過剰な肩入れをしたノ・ムヒョンは経済政策に失敗して、青年層の反発を買い、保守政権のイ・ミョンバクに替わる。

 


 

 左翼政権の否定によって、政権についたイ・ミョンバクは、当面、日本に対する目立った強硬姿勢を取る意味がんかった。しかし、政権4年目の後半になって、自分の兄をはじめとして、汚職問題が発覚すると、慌てて、対日強硬姿勢を取って、韓国国民に自らの愛国心を強調する。

 


 

 というのも、盛んに「天皇訪問を歓迎する」と朝日新聞紙上などで繰り返しはじめるのである。

 


 

 朝日新聞での「天皇訪問を歓迎する」発言が、12月2日で、一ヶ月後の1月2日の東亜日報のインタビューでは、真意が明らかになる。

 


 

 「日本円にして4兆円の経済支援を北韓(北朝鮮)に行いたい。その原資の1兆円は、北韓に対する日本の賠償金をとして、日本に支払わせる。」と発言。

 


 

 11月9日毎日新聞

 

天皇はドイツのブラント元首相を見習い、「アジアおよびその他の国への侵略行為に対して謝罪すべき」として、以後、韓国のジャーナリズムに「ドイツと日本は同じ」論を定着させる。

 


 

 2012年8月14日、イ・ミョンバク大統領の韓国教員大学での発言

 

「日本は加害者と被害者の立場をよく理解していない」は、実は、韓国社会にきわめて根強い常套語句「甲の立場と乙の立場」をよく理解する。という発想の応用であったからこそ、韓国国民に理解された。

 


 

 韓国国民にとって、韓国人が「私は甲、あなたは乙」(すなわち、雇う者、雇われる者。あるいは、上司、部下)という言い草が横行している事を痛いほどよく意識しており、この甲と乙の関係が日本にあてはめられて国民に訴求されている。

 


 

 また、こうした日本に対する強硬発言が、大統領支持率を20%から30%に押し上げるカンフル剤になってしまうのが、韓国社会の弱さなのである。

 


 

 パク・クネ大統領のイメージがまた、「清廉潔白・質素な生活を貫き通した歴史的に例のない大統領の娘」で、韓国は、じつに、世界に類例のない、とか、歴史的に例のないというフレーズが好きなのである。

 


 

 わたしは、ここでよく考えて見なければいけないと思っているのは、日教組元婦人部長をはじめ、数々の日本の革新左翼の側の評論家、ジャーナリストが書く関東大震災朝鮮人虐殺の記録や、従軍慰安婦問題についての文章に、「日本人の侵略的・かつ野蛮な民族的資質」という表現が繰り返し出てくることと、韓国のジャーナリズムにおける「日本民族に固有な歴史的性格、民族的資質に由来する「韓民族に対する加害」という観点の、この共通性が、どちらがそちらに影響を与えたのか、それともこれは、日本人にも民族個性に着目する観念があるのか、という謎の問題である。

 


 

 これはなかなか結論づけられそうにないが、少なくとも、韓国人は、「日本民族」に対してだけ「民族性」のこだわりを持っているのではないと思われるのは、朝鮮半島北部の異民族に対して、元来、「オランケ」と侮蔑語で言い習わし、古くは、日本に対して、「ウェノム」とは言ってもイルボンとは滅多に言わなかった時代が長い事が重要だ。

 


 

 つまり、民族優越性への幻想が日本人の考える以上に北方民族に対しても海の向こうの日本に対しても強烈にぬきがたく存在するのが、韓国なのである。

 


 

 実は、この「日本だけではなく、北方民族に対しても、元来、侮蔑的観念を持っていた」のが、韓国だ、という認識は、一般的には言われていない。しかも、侮蔑しつつ常に現実には、屈辱の極みという体験をしてきたのが、彼らの歴史体験だということは、半島の北方民族女真族、モンゴルとの関係、日本との関係において永続的だったからこそ、問題は複雑化する。実態として優越だという証拠は無いことを知りつつ、観念の上で、北野民族も、南の民族も、バカにしてきた歴史なのである。

 


 


 

 イスラム世界も、アメリカも、日本の「国体」もそれぞれに変なのである。それなら、中国のおかしさも、韓国のおかしさも、それぞれに特有の変態性を持っていると考えるべきだ。

 


 

 在日中国人の孔健氏は、「中国人の道義退廃は毛沢東が孔子の儒教を否定したからだ」と言う。

 


 

 実際には、中国人の礼儀道徳は、一般庶民にはなく、科挙合格の官僚の頭のなかにしか存在せず、庶民には、素朴な人情しか存在しなかった。そもそも、文字を解する人が少なかったのである。それと同じ事で、朝鮮民族の誇りとは、実際には、歴代朝鮮王の宮廷官僚の中国古典知識を知悉しているのは、世界に韓国最高の頭脳である自分だけであり、韓国でもっとも、中国古典に通暁しているということは、世界でもっとも賢明だという事と同じだというプライドだった。そして、自分のような世界最高の知識人のいる韓国は世界最高の文化的民族だという信念につながった。

 


 

 この感覚が、清國に屈服した韓国人が、屈服しつつも、亡国の明国の中華文明の継承者は、この自分だと精神的に支えとしたのが、民族的優越感の幻想だった。

 


 

 その根拠は、韓国官僚の科挙のために修得した膨大な儒学の知識によって得たプライドによっている。

 


 

 韓国人は「スレギ」日本語に訳すと、ゴミという言葉が非常に好きで、チンピラをスレギと言い、日本をスレギという事に爽快感を覚えている(に違いないと私は思う)なぜなら、映画、ドラマ、バラエティで、やたらに、この「スレギ」という言葉が出てくる事を知った時、私は韓国人というのは、他者をバカにして爽快感を覚え、また、スレギと侮辱される恨みに奮起する自分に悲壮感を持って頑張る人たちではないのか、と思った事がある。

 


 

 イ・ユンギという作家は、「わが家族は、兄の前で「「日本の奴」、「ウェノム」「チョッパリ」(猪の足をした日本人)」というのをやめる努力をした」と書いている。

 


 

 つまり、侮蔑語がむしろ、当たり前だというのだ。

 


 

 が、ここでも、よくよくしっかり理解しなければいけないのは、韓国人は韓国人どうしでも、よく「スレギ」ゴミだ「テガジ」(ねっからのバカ間抜け)だと侮蔑語を使いたがるのだ。これがまた、日本人の比ではない。アメリカ人がファックユーだのガッデムサナバベッチ(娼婦の息子だろうがてめぇは)と口汚い言葉を簡単に言うのと同じで、日本人など、かわいいものなのだ。

 


 

 韓国のドラマでも、政治家の言葉でも、何度も繰り返し出てくる言葉に「パンデシ」という言葉がある。「かならず目にものを見せてやる」「かならず為遂げて見せる」という言葉である。「かならず責任を取らせる」

 


 

 日本人は過去を忘れる国民性を持っている。

 

 ホッカムリ体質が日本人だとすれば、古きにこだわり、けっして忘れず、かならずや為遂げて見せる、と決意することに美学を感じるのが韓国人だろう。

 


 

 だが、現実に成し遂げる事よりも、ただ決意することに涙するのが実態なのであり、それでも、決意し、涙することをくりかえさざるをえないのである。

 


 

 韓国時代劇ドラマは、この思いいつの日か、果さずにおくものか、パンデシ・・・という思いの反復だ。

 


 

 しかし、いささか、バカバカしくなるのは、「三韓統一の夢」と言って、史実は、統一新羅は、さらに、分裂して、それが統一高麗になり、それがまた、崩壊して、李氏の国になり、それがまた、大韓帝国になり、やがて北韓、南韓に分裂するのだから、「パンデシ」、統一するという夢は実際には、果てしなく、「夢」でしかないことに気づくはずなのだが、南北統一会談を見ては、例えば、カン・サンジュンは涙を流すのである。

 


 

 話は飛ぶが、カン・サンジュン聖学院大学教授は、二言目には、日本の偏狭ななナショナリズムというが、日本人は海外在住の日本人について、「在外同胞」などという感覚を持たないのが実態であり、また、教科書で、子どもたちに、在外日本人について、同じ民族だとか、血族だなどという教育はまったくしない。ところが、韓国では、小学校教育で、「外国に住む同胞は、同じ民族、同じ血筋だと強調している。カン・サンジュン聖学院大学学長が注視しなければならないのは、日本よりも韓国ではないか。

 


 

 民族意識は、長所にもなれば、短所にもなる。短所は、これは日韓双方に言えることで、日本も韓国も、かつて女性を子孫を産む役割としか考えない時代があった。そこで、妾、側室になる立場の女性は、自己卑下の意識を強いられた。韓国ドラマ「女人天下」は、側室の悲劇を鋭く描いている。また、側室、お妾さんの子の悲劇も、韓国ドラマは繰り返して描く。それは、現代にまで続く。

 


 

 同じ民族でも、かくみじめな生まれの立場があるということは、民族意識を欺瞞的にさせる。しかし、民族意識の強さは、もし、日本人が韓国併合時代に、女性たちを強制連行したら、韓国の人々は、その強い民族同胞意識によって、暴動して抗議したに違いない事を示しているのである。

 


 

 シモーヌ・ベイユは、戦争とは、支配階級が被支配階級を殺害することだ、と言っている。日本だけが、赤紙、招集礼状によって国民を死地に送り出したのではなく、あらゆる国は、自国の国民に兵役を課する時、強制性を課しているのである。

 


 

 強制、強制というが、韓国が、韓国人を徴兵訓練すること自体が、「強制性」であり、ベトナム戦争に韓国の青年を徴兵した事がシモーヌ・ベイユの洞察を借りれば、「強制性」ということになる。

 


 

 北朝鮮のスパイが、日本に潜入しようとして、自殺した例もある。彼らもまた、北朝鮮の支配階級によって、強制的に訓練を受け、死地に赴き、自死を強いられた被害者とも言える。

 


 

 このような視点が無いために、韓国のジャーナリズムは、けっして、韓国もまた、韓国人青年を「強制的に徴兵訓練している」という強制性に思いが至らず、したがって、いつまでも、「アジアを侵略した日本の態度、アジアの女性を性的奴隷にした日本の官憲」と言う視点に固執する。

 


 

 たとえば、韓国陸軍本部の1956年公文書「後方戦史」「固定式慰安所ー特殊慰安隊」の設置目的は、「異性に対するあこがれから引き起こされる生理作用による性格の変化により、抑うつ症およびその他の支障を来たす事を予防するため」とある。

 


 

 これは、シモーヌ・ベイユの洞察から解釈すれば、強制的に兵役に徴用された青年男子が、性的欲求不満に陥り、精神、身体に失調を来たす自体をこれまた、貧しい境遇の被支配階級の女性たちが、慰安の役割りを担ったということになる。

 


 

 まさに、韓国もまた、近現代の国家による強制性の歴史の罪から逃れられないのだが、韓国人には、自国だけは純粋だと信じており、日本人もまた、裏返しに、日本は悪くないと考えるか、逆に、韓国だって悪いという考えに固着している。

 


 

 しかし、シモーヌ・ベイユの洞察からすれば、徴兵自体がすでに強制性なのだ。

 

 ※シモーヌ・ベイユは、被支配階級を支配階級が抑圧することは、自称社会主義国家にもある、と断言する。

 


 

 ※驚くべき事に、呉善花は、ほとんど独力で、「諸国の戦時下の統制や異民族統治について、広義の強制性を真摯な目で再検討する動きが起きていくだろう」とシモーヌ・ベイユの洞察に限りなく近い見解を述べている。(中公新書「侮日論」161ページ)

 


 

 要するに、日本こそ、歴史に例のない帝国主義だなんぞという韓国式の決まり文句は事の本質を見誤るものでしかない。

 


 

 インドにカーストがあり、イスラム諸国に女性弾圧があり、韓国に甲の私と乙のあなた、という差別があることを思えば、いかに、韓国の日本観の日本「歴史に例のない」悪逆性論がおかしいかわかろうものだ。

 


 

 韓国の「親日反民族行為者の財産を国家により没収する」という事後法は、アメリカの東京裁判の「平和に対する罪」が事後立法であった事により、正当化されていると思われる。つまり、事後立法は、人類普遍の正義に対する犯罪行為、人類的観点からする絶対悪を処罰する場合には、例外的に許容されると考えていると思われるのだ。

 


 

 帝国主義という断罪の、その「帝国主義」という概念自体が、レーニンの「資本主義の最高段階に達した国家は領土拡張を求めて、弱小国を侵略し、支配する」というマルクス主義を基礎としている事は、常に意識するべきだ。というのも、現代では、マルクス主義を信じる事を公言する者は、滅多にいないが、それだけに、帝国主義批判、植民地化批判の理論根拠が無意識化されてしまっているのである。マルクス主義は放棄しているのに、帝国主義だけは正しいと信じられている。※だからこそ、東南アジア、南米の被植民地国は、独立すると、その多くが社会主義を選択して、そのために貧困が悪化した。

 


 

 神の実在は誰も信じないが、ローマ法王は尊敬しているようなものだ。

 


 

 マルクス主義の呪縛を徹底的に解かなければ、日本の植民地統治が、欧米の植民地統治とちがって、むしろ日本の内地日本人に重税を課して、遠方の台湾、満州、朝鮮の貧しい人々を救おうとした側面があったという事に眼が開かれることはない。

 


 

 無意識に帝国主義論に立脚するかぎり、日本もまた、「資本主義の果てに植民地収奪に動いた」という理論的枠組に当てはめられてしまうからだ。