現代史を考えなおす 7
44.ヘイト・クライムとか、ヘイトスピーチといえば、日本では人種差別、あるいは民族差別しか思いつかない風(ふう)になっている。世界中、ヘイトクライムは、人種差別、あるいは民族差別なんだろうと。しかし、アメリカじゃ、同性愛者に対する偏見ばらぬ攻撃が、もっぱらヘイト・クライムだ。
1992年、佐世保の米軍水兵が同性愛を理由にリンチ殺人された。
顔は判別できないほどつぶされて、男性器は切り取られ、両手足の骨と肋骨のすべてが折られた。
在日特権を許さない会が新大久保を、在日の人々に向けて脅迫的言辞を叫びながら練り歩いた事を知って、アメリカのヘイト・クライムは上のようなものだから、はて、在特会の人々は「言葉だけなら、「従軍慰安婦20万人」や「性奴隷」というように、日本人はヘイトされてきたのだから、同じではないか、というつもりだろうか、と忖度したりもした。しかし、案の定、だれも、「従軍慰安婦20万人」や「性奴隷」はヘイトスピーチだと問題にすることは、いまだにない。
アメリカ本国でも、同性愛に対する反発心理にもとづく憎悪犯罪はしばしば起きて、米軍の同性愛者は軍から除籍するという規定が問題視され、これに対して、軍が、規定は変えないが、同性愛かどうか、聞かない、とこたえなければならないほどで、日本とアメリカでは、沸騰キーワードが違うようだ。
45.2015年2月、韓国では、姦通罪を廃止するとかしないとかというのがニュースになっている。
明治43年25歳の北原白秋と隣家の妻俊子22歳が、夫の松下長平に姦通罪で訴えられた。
裁判で明らかになったところによると、俊子は夫の長平に絶え間ない陵辱と暴力を受けて、それに白秋が同情したことがきっかけに生まれた純愛だった。
その純愛に気づいた夫は、わざと妻の俊子を殴る蹴るして、家からたたきだしてから、白秋と俊子が会うのを見届けてから、姦通罪で訴えた。
そして、告訴を取り下げてほしければ、金を出せと脅した。
裁判は、次のようになった。
姦通罪は、夫が妻を離婚してから、はじめて告訴できる。
だから、本来はこの告訴は無効であり、控訴棄却になる。
しかし、この裁判官はひと工夫した。控訴棄却にすると、離婚してあらためて告訴することができる。
それをさせないように、あえて告訴を有効と認めて、「純愛だから、無罪」とした。
これで、判決はでたから、一事不再理となって、もう訴えられる事もなくなった。
46.今では、もうはいている女子はいないかもしれないが、ブルマーというもの。あれは、1800年代の女性解放運動家(今でいえば、上野千鶴子か田島陽子か)アメリア・ブルーマーというカリフォルニアの女性にちなんで作られたのだという。
ペチコートを脱ぎ、裾を絞っただぶだぶのズボンで活動的に動こうという運動がはじまりだった。
この話は、次のように続く。アメリカには、そういう運動を始めるひとがいれば、これに反発するうねりも大きくて、1995年までカリフォルニア州には、「女性はズボンをはいてはならない」という条例があった。
また、「隣のこどもが泣いていたら、警察に通報しなければならない」という法律があるために、車の座席でよく寝ていると思って、そのままにして買い物にでかけた夫婦が、警察に通報されて逮捕された。起きたこどもが泣いていたのだ。
日本でもよくある赤ちゃんの車の中での熱死などは、ロスでは「第一級殺人」になるという。そういうわけで、アメリカと日本ではだいぶ法律がちがうが、日本でもときどき話題になる「企業の内部告発」。これには、アメリカには、「ホイッスルブロアー法」というのがあって、(口笛を吹くという意味)企業の不正を告発した者は、その不正告発により、国庫に入る金額の20%から30%もの金額が褒章金としてもらえるというもの。
これで、左うちわで暮らしているアメリカ人が実際何人もいて、もし、日本にこの制度があれば、防衛省の80億円の不正経理の告発者には、24億円が入ることになる。
と、高山正之氏の提言。
47.ホメイニ時代のイランのテヘランには、ナシャーズ・モンケルという名の人民監視部隊があった。何を監視し、指導しているのかというと、車に男女が乗っていると、停めて、夫婦かどうか確認する。怪しいと尋問して、夫婦でないとわかれば、(つまりデートはダメなのである)逮捕されて、ムチで打たれる。マニキュアしたり、口紅をつけた女性も、拘束された。
日本人の建設技師が地元の人妻と仲良くしているところをみとがめられて、日本人はムチ打ちの末に強制送還され、女性は死刑になった。そういう実例もある。
愛人と共謀して夫を殺した女性に対する死刑は、全身を顔だけ出して、埋めて、石をたくさん投げつけて絶命するまで続けるというものだった。
嫌韓派は韓国をくそみそに言うが、韓国などはかわいいものだ。
なんのことはない。「イスラム国教団」のやっていることは、イランはついこの間まで
国をあげてやっていたことになる。イランのハタミ政権以降、ゆるくなったという。
48.韓国は政府がエンターティメント産業を国をあげて支援していると、まるでなんだかそれが卑怯なような言い草をときどき聞くが、たぶん、韓国のそうした政策は、アメリカの真似である。アメリカ自体が、まず、世界に先駆けて、政府が映画産業を保護育成、支援した。
フィン・シン法は、テレビ局が映画やドラマを自主政策するのを禁じて、ハリウッドを保護する法律だった。
また、映画制作への一般からの投資を所得控除した。つまり、韓国がおかしいのではなく、日本政府が娯楽産業に無関心なのだ。
アメリカのテレビドラマ全盛期は、いうなれば、ハリウッドの映画会社が作って
いたものだという。
49.太宰治の作品の中に、人間のすることを見よう見まねでなんでも真似する猿が出てきて、その猿が「まじめに」かいがいしく、掃除洗濯、なんでも主人夫婦の真似をするのだが、しまいに、このけなげな猿が、主人夫婦の赤ちゃんの面倒を見て、お湯に入れて、身体を洗ってあげようとして、それが熱湯だったものだから、赤ちゃんは死ぬ、という
悲劇がある。
次のような高山正之の文章を読むと、自分が上の太宰治の描いた猿のようになる恐れを抱く。まず、同じ戦争時代でも、英国人は、傲慢でアジア人を犬猫ほどにしか見ていないところがあったが、アメリカ人は、捕虜の日本兵を両の腕で抱き上げて、ベッドまで運び、本がすきなら、本を持ってきてくれる・・・そんな場合さえあったという。
そんな米国がイラク戦争では、間違った見透しでイラクを崩壊させる。
これら、皆、一つだけを言われれば、欧米人は皆、アジアをバカにしている、とかアメリカ人はいまでも、人がよい、とかすぐに信じてしまいかねないこの俺だ。
50.アメリカはときどき良いこともしている。
日本はたいてい司法改革といえば、アメリカを範としていて、陪審制度もそれだが、ロサンゼルスで1998年にじっさいにあった事件では、開業医が診療費をみず増し請求したが、連邦判事の判決は、不正請求を全額返済したうえで、三千時間地域の貧しい人々を無料で診察するというものだった。
51.満州になぜ日本はいたのか。遠い満州に、わざわざいたのだから、侵略だったのだろうと、なんとなくそう思う。なんとなく、ではおかしいから、しらべて見ると、この満州の日本がいていいですよ、と言って、それでセオドア・ルーズベルトはノーベル平和賞をもらっている。
アメリカのルーズベルトは、、日露戦争講和の条件を、ロシアの領土シベリアはそのままにしておいて、ロシアが持つ、満州の権益を日本が持つということで、納得しようよ、とということでまとめた。
ところで、なんでまた、ルーズベルトは、満州にいなよ、と日本を説得したのか。しかも、日露戦争の資金を出したのは、英国とアメリカだった。
それには、次のような当時の常識があった。
ロシアのゴローニン
「日本人シナ人が手を握れば白人に対する大きな脅威になる」
第二次大戦前のハリファクスイギリス外務大臣「日中の争いは長引いたほうがいい。それが欧米国家の利益になる」
日本はシベリアの半分を手に入れてそこを開発していれば、中国と争うことはなかったが、その後、満州を手塩にかけて大事に育てあげて、そこに中国人が何百万と流入することになった。そして、国民党と共産党は、日本敗戦後の満州を一番価値ある場所として、満州争奪戦の内戦を行った。
※日露戦争の決着がついた時点では、英国タイムス紙は、日中が手を取って喜んだ、と書いた。
52.ああ、それでも、現代に生まれてよかったな、とほっと胸をなでおろす時がある。
歯医者はある。エアコンはある。新幹線はある。トイレは水洗で快適だ。映画はおもしろいし、歌手の歌を聞くのもすごくいい。一昔二昔前の日本のトイレ、いや、便所は、全国的には、家の外にあった。腹が痛い時はdおうしたのか、と心配になるが。
戦争に行く必要はないし・・・と。健康保険はあるし年金もある世の中に生きている。
寿司、とんかつ、天ぷら、うな重、おいしいものはほかにいくらもある。いい時代に生まれたじゃないか、と。
だが、徳川時代の日本も、そう捨てたものではなかったらしい。
十代徳川家治の頃、日本にきたスエーデンの植物学者カール・ツエンベリは、「山陽道から東海道の街道は、ヨーロッパのどこよりも、道幅が十分に広く、人々は道幅の片側を歩き、欧州のような羊の群れのようなバラバラ歩きかたではない。そして、清掃もゆきとどいている道沿いの生け垣はすがすがしい。」と記述しているという。
また、幕末に、トロイ発掘のシュリーマンが日本に来て、「江戸の街のすべての道は砂利で舗装されている。狭い道でも幅は7メートルくらいあり、商業地域の道幅は、14メートル。大名たちの屋敷町になると、幅20メートルもある。」と書いている。
その時、パリの街並みは美しかったのだが、その30年前には、建物のほとんどは、立ち小便で根腐れを起こして傾いて、泥道と汚水の町だった。※朝鮮は明治初期でもこうだった。
シュリーマンは、パリのような美しい街並みが、すでに100年も前からあったのか、と驚いたという。
レディ・ガガは日本の街並みが好きだと言っているが、昔から、日本に来た外国人で、日本人の暮らす街を好きになった人は意外に多い。
とは言うものの、そうとも言える、というだけで、高山正之に言わせると、戦後、道に目覚めた欧米人たちは、ドイツにアウトバーンを作り、アメリカにフリーウエーを作ったが、日本の建設省は各地に「建設省工事事務所」を建てただけで、肝心の道路は拡幅も、整備も遅れたから、狭い道だらけになった、と指摘している。
53.2015年2月に、世界中で話題の、ムハンマドが神アッラーから預言者にえらばれたのは、日本では、法隆寺建立の頃だった。
ムハンマドは端的に言えば、この時、戦をして、アラビア半島を制し、ササン朝ぺルシャを倒した。有能といえば、中東の織田信長のようなものだった。
エルサレムでムハンマドはイエスキリストとモーゼに会ったので、エルサレムが聖地になったが、これは夢の中での話で、ムハンマドは、エルサレムの岩屋に実際には、立たなかった。
ムハンマド死後、ひたすらカリフ継承をめぐって、スンニー派とシーハ派が対立抗争を続けて、何人のカリフ候補が暗殺されたか数知れない。イスラムの歴史をひもとくとほとんど何百年もの間、えんえんとスンニー派とシーア派が暗殺のやりあいを続け、そして、散発的に過激派が幾度も繰り返し現れている。なにも、アルカイダにはじまったことでもなんでもない。
シーア派(ムハンマドの血筋重視派)は、朝日に立つ貴公子の像(悲劇のフセイン王子)が尊重され、スンニー派は、いっさい、偶像を廃する。アフガニスタンのタリバンはスンニー派だったから、偶像が大嫌いで、仏教石窟を破壊した。
これ、時々、自分も頭の中で、スンニー派とシーア派の違いって、なんだっけ?とかんがるので、あらためて書いておく。
とは言っても、アメリカにしてからが、南北戦争で、自国民を60万人死なせているから、イスラムだけが野蛮なのではない。
54.アンジェリーナ・ジョリー監督の「アンブレイカブル」(屈せざる者)を日本人は見ない前から毒づく、という意見がある。しかし、少なくとも、日本人は基本的に実力行使してまで鑑賞する人まで止めようとは思わない人が多い。上映しないのは、映画興行者の責任だ。
あるいは、広告の失敗の問題だ。
ただ、アンブレイカブルをアメリカで見たぞ、いいじゃないか、という人は、アメリカの映画人の基本認識が、ベトナムに恥を感じ、イラク戦争の懐疑を感じ、第二次大戦に晴れ晴れとしたプライドを感じて、素材を選んでいることは、わきまえてほしい。
そして、ベトナム戦争がアメリカの指導層に痛手になった原因は、戦場のテレビ中継があったからで、第二次世界大戦が、映画ではなく、テレビ中継で逐次、たとえば、沖縄戦や東京空襲がアメリカのリビングに放送されていたら、今でも誇りとしたか疑わしい事は知っておくべきだ。
アメリカ映画には、毎年のように、、カンボジアの「キリング・フィールド」、南米の「サルバドル遙かなる日々」、「ミッシング」、インドの児童虐待を描いた・・名前は忘れたアカデミー賞作品賞のアレのように、多くは、アメリカ人が遅れた国の暗部を描いて啓蒙するという名作制作の勝ちパターンがある。「セブンイヤーズインチベット」というのもあった。「アンブレイカブル」もそうした勝ちパターンのひとつだろう。
なんだか、アメリカ映画の、こうした作品群をみていると、あまりにも立派なので、こちらが、巣の中で餌をもらう小鳥のような気分にさえなる。
アメリカアカデミー賞は「カンボジアの大虐殺を扱った「キリング・フィールド」にアカデミー賞作品賞を与えたが、実際は、ポル・ポトを追放したのは、ベトナムに支援されたヘン・サムリンであって、現実のアメリカはポルポト追放に貢献していない。
あれは、ただ、カンボジアからの亡命者もまた、自由の国アメリカに来ているという心がまず、基本姿勢にある。現実のアメリカは、ポルポトを正当政府として公認し続けたのだから、アメリカの恥の歴史なのだが、なんだか、格好いい映画にしあがっている。
強く正しい、良心的なアメリカとはなにか、と常に、アメリカの映画界は、アカデミー賞をあげて求め続け、第二次世界大戦を描く時、うぬぼれ心がついうずくのも事実だという見方も、少しは必要だ。
55.韓国映画の数すくない傑作の中に、傑作「息子」というのがる。
これは、日本の韓国嫌いのひとには、悪名高いチャ・スンウォンが主演しているのだが、
この映画、無期懲役囚のみじめな心情を描いて、傑作である。アメリカ映画「デッドマン・ウォーキング」は、死刑囚が最後に被害者遺族に詫びる気持ちを言って、死刑に処せられる。日本では、アメリカの死刑映画では、「グリーン・マイル」のほうが見た人は多いだろうが、あれは、死刑囚の頭が焼け焦げる匂いでむせるという趣向に重点がある、じつのところ、つまらない映画だ。日本映画吉永小百合の「天国の駅」も、主人公の女性が悪くないのに、絞首刑に処せられるという馬鹿げた映画である。
というのは、世の中には、もっと、韓国映画「息子」やアメリカ映画「デッドマン・ウォーキング」のように、大罪を犯して刑務所にいるって、みじめだな、絶対こうはなりたくないな、と思わせるようなリアル感のある映画があっていい。
私の知人は、チャ・スンウォンの無機懲役囚のなさくなさそうな佇まいに、ぞっと寒気がして、絶対に、囚人にはなりたくないな、そういう運命のめぐりあわせにならなくてよかったな、と感謝したいと言っていた。私もそう思った。
ちなみに、「デッドマン・ウォーキング」の死刑囚の処刑は薬物注射で、「グリーン・マイル」は電気ショックだったので、デッドマンのほうが、現実に近い。