太宰治からの祝いの言葉 | 気になる映画とドラマノート

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太宰治は、友人の田中英光の結婚式の日に向けて、色紙を送付して、そこには、「南瓜(かぼちゃ)の花、はきだめの花、忘れられるなり」と書いた。

 


 

 はきだめとは、漢字で書けば、掃き溜めだから、掃き掃除のたまりゴミに咲く南瓜の花というわけで、新婦は憮然としていたという。

 

 少しだけ太宰の弁護をすると、「掃き溜めの鶴」という言い方があって、これは褒め言葉なのであって、はきだめの花も、バカのしたわけでもなんでもない。

 


 

 太宰については、それだけの関わりで、題名に太宰の名があるのは、太宰の名があれば、少しは興味を持って、読む人もいるかもしれないと思った、ただそれだけの事である。

 


 

 日本テレビのドラマに「児童養護施設」を舞台にしたドラマがあったように、また、多くの母子家庭世帯の片親の境遇になった原因が、父親の病死事故死よりも、むしろ、DV,果てしない口論から続く、家庭不和離婚が原因であることは、容易に察しられるが、そのたいていの場合が、なんで、なんでと、男が墓に入るまで、謎であることがほとんどの場合にちがいない。

 


 

 田中英光は、少なくとも、かなり本音を公開したことは、どうも、一種の手柄のようにも思える。

 


 

 ついでに言えば、田中は戦前戦中は、共産党に入党して、脱党し、脱党すると、皇国思想に熱心になり、戦争が終わると、ふたたび共産党に入党、平和革命(暴力革命を否定する派閥)を奉じて、沼津の共産党支部長になり、さらに一年そこそこで共産党を脱党。たとえば、西部邁のように、とことん、保守になるわけでもなく、「共産党を裏切った裏切った」と自席の念にかられる・・・と言ったふうな人であった。田中英光がもう少し有名な作家なら、いまなら、さしずめ、「フォレスト・ガンプ」ふうの年代記にもしたてられる政治思想生活と男女関係の生活の退廃のないまざった、ドタバタめいた履歴の持ち主であった。

 


 

 太宰が死んだ時の太宰についての思いを田中は、自分とひき比べて、次のように書いている。太宰治は、死の間際の時点で、個人全集が出るくらいに押しもおされもせぬ、作家とっしての地位を築いていたから、死ぬにしても、まず大前提として、奥さん、お子さんに食べるに困らぬ経済上の基盤は確立してあるという安心があったのではないか?・・・それに比べて、自分は・・・と、いうふうに。

 


 

 なるほど、田中が太宰の死について、そういう感想を思いついたとすれば、ずいぶん、自分の立場について、ずいぶん、悄然たる思いをしたろう。

 


 

 ついでに、田中は、山本有三の「路傍の石」に次のようなエピソードがあることを思い出す、という。

 

 主人公の相川吾一少年の父親は、妻子を捨てて省みず、飲んだくれている。妻はこどもために、夜なべして針仕事をしていて、心労と栄養失調のために、とうとう、倒れてしまう。その事を聞いた吾一の父親は、自分の非情を悔いて、お金を持って、家に向かう。

 


 

 が、途中、一杯飲み屋を見かけて、懐中のお金をにぎりしめて、飲み屋のカウンター前に腰掛ける。そこで、源公という放蕩無頼の男の噂話が語られているのを聞くともなく、聞いている。

 

 源公という男は、重病の妻のふとんまで質屋にいれて作ったお金を張って、近くの鉄火場(賭博)にいた。そこへ、近所の人が、あんたの奥さんがいよいよ、危篤でいまにも、息を引き取りそうだよ、と知らせたのだが、源公は賭博をやめない。賭けは負け続けて、しまいに、警察が踏み込んで、源公は、妻を見とることもなく、警察の留置場に入れられてしまう。

 


 

 ここまで聞いた飲み屋の主人は、「そりゃあ、あんまり薄情だから、バチがあたったんだよ」という。

 

 

 

 すると、吾一の父親が、「それは、源公はよほど女房を愛していたんだろう」と言ったというのである。

 

 つまり、源公は、最後の最後に、ほれ、こんなにお金があるぞ、心配するな、子供はちゃんと幸せに育てて、見せるからな、悪かったな、とでも言いたかったのだろう、といいうわけなのだ。

 


 

 田中英光は、女性の愛情は、直に まるごとすべて、相手の男性に振り向けられるが、男性の愛情はそうではない。まず、仕事の上での葛藤を乗り越えて、そののちに、相手の女性を、純粋な愛情面でもしかり、経済生活的に(騎士道的に)守るということもしかり、ということがある。そこから、分裂症じみた心理が生まれる。

 


 

 分裂というのは、朝から夕方までは、会社の上司やお得意先に叱られたりして、夜帰ってくると、妻に愛情を振り向けるという分裂の意味なのだが、もし、仕事なり、政治運動のような社会生活で困難が高じると、心弱ければ、女房にやつあたりすることにもなる、と田中はいうのだ。

 


 

 そんな理由で女性を傷つけるのは、申し訳ない。・・・だから。

 

 真の男性の愛情は、片思いであるのが、本当だ。遠くから、黙って愛をそそぐのが、真の愛情だ、自分は、取り返しのつかない失敗をしたのだ。

 


 

 これが、田中英光のもっとも、焼身自殺したその日に近い時期の随筆に書かれた考えだった。まあ、それなりに、わからないわけでもないのである。あの、数年前に、セレブ妻の殺人と言われた男が、不倫の末に、妻にワイングラスでぶん殴られて死んだのも、妻にはあ、仕事の上での葛藤はなく、そのために、夫への憎しみが募り、夫は仕事上の葛藤に追い詰められて、妻との齟齬にあきたらなくなって、それでも金ばかりはあるものだから、不倫に走ったということもあるかも、と思わせる。

 


 

にしても、この田中英光の元来、あきたりないというか、いやったらしいところがあるのは、たとえば、東急電鉄会長から西武電鉄会長、笹川良一のように、日本の主だった富豪から地方の資産家にいたるまで、いや、それは、アメリカも、韓国、中国も同じだろうが、ありがちな「お妾さん、愛人」を持つ事を「憎んでいる」と田中が広言しながら、また、「小さい子どもたちを真っ直ぐに育てる事が正しい」と言いながら、やっている事は、

 

 娼婦買いにはまり、そうした娼婦の中から、愛人をもうけて、現実としては、妻子を捨ててしまったことで、根っからの不良、やくざよりももっとタチが悪い。

 


 

 そして、田中は、政治についても、共産主義そのものは正しいが、共産党員は嫌い、と最後まで言いつづけており、あまつさえ、共産党員なら、個人としても、品行方正でなければならぬとも、ぬかしているのだから、気持ちが悪いことこの上ない欺瞞に満ちた人物だった。(私は共産主義自体が間違っていると思っているので、田中とは違う。)

 


 

 田中は、戦前共産党に入党したこともあるのだが、その性根がどのようなものであるかは、最初の妻との動機の低劣さが、暴露している。「朝鮮京城で、あまり気のすすまぬ結婚をしてしまった」というのだから、その共産党入党の誠意、まごころも、どの程度のものだったかがさっせられるし、なにより、 あまり気のすすまぬ結婚をしてしまった、というのが、お見合いなら、ともかく、出来心で自分から申し込んだというから、呆れる。

 


 

 そして、田中は、結婚後、二週間かそこらで、早くも色街に通い始める。

 

 それでいて、戦後は共産党に入党し、政治は政治、個人道徳は別と言うなら、まだしも、本人は、「民衆とともに、生きる」などという一節を書くのだから、軍国主義の軍人と本質的に変わらないまるで裏返しの、徹底的なタテマエ人間だった。

 


 

 それでも、四人の子供をなした事実を田中は、次のように説明している。

 

 平和な時代だったら、きっぱり離婚したかもしれないが、牢獄のような軍隊に面会に来てくれた妻が天使のように見えて、その時に一人、子供が出来た。次に帰還直後に次男をはらみ、東京転勤となって、まもなく、長女が生まれ、さらに会社から疎まれて、満州に転勤を命じられて、明日知れぬ身の思いに迫られた時、妻に憐憫の情がわき起こり、三男

 

を生ませたという、つまり四人からのこどもたちは、皆外部環境によってついその気になった錯覚に基づく、ニセの愛情だったと言っている。

 


 

 その後十年以上、夫婦関係がなくなったのも、妻に妹みたいな感情が起きたからで、この夫婦関係の断ち切れが、愛人との情事へののめり込みにつながっていったというのだから、無惨だ。

 


 

 そして、共産党に入党しても、いいように利用されて、金と労力をむしりとられ、不満やるかたなく、脱党して、家に帰ると、奥さんは、政治の事を知らないものだから、田中が、共産党との確執に悔しくて、眠れずに懊悩していても、奥さんは、なんのことやらわからぬのも、当然、しかし田中は、奥さんに逆恨みして、「今に見ていろ」と憎むようになる。そして、これが、田中の乾いた心に、娼婦商売をしていた薄幸の女の出会いになった時、いやがおうにも、情熱的な肉体関係が「はじめて肉体と精神の一致した恋を知ったように思った」ということになり、かといって、元来の道徳的自尊心ゆえに、家族会議で親族のいったいどうする気なんだ、と問い詰められると、子供のオドオドした様子を見て、やはり、愛人関係を断って、子供のために生きる、と家に戻るが、妻の「自分は子供が四人もいるから、絶対だいじょうぶ、というヌクヌク顔に比べて東京の日陰の立場の女性が不安に耐えているのが、かわいそうだと、妻が憎らしくなった、子どもたちへの愛情に満足しきっている妻より、自分がいなければ、誰にも愛されないその人のほうが、僕の愛情を必要としていると確信した田中は、それでも、現実の妻子を捨てきれず、毎月1万円を送り、金使いの荒くなった愛人との暮らしに、金に恐怖に襲われて、ヒロポン、アドルムなどの精神剤におぼれていく。そして、愛人を包丁で刺してしまう。

 


 

 こうのように、よく説明できるのだから、低脳でっはないにちがいないのだが、言っていることは、まぎれもなく、低劣、間抜けなのである。

 


 

田中の小説のヘタな事。たとえば、「今様一代女」には、「次のような一節がある。砲弾弾雨をくぐり、疾病と鉄丸の両方から生命の危険にさらされてきた進駐軍の人たちは、大陸で残虐をほしいままにした日本兵よりは、ずっと人なつっこい紳士が多く、

 

自分たちが苦労してきただけに、敗戦国日本人への同情もあり、予期されていた暴虐行為はほとんどなかった。」と、呆れた週刊誌の記事みたいな地の文を大まじめに小説に入れ込んでいる。

 


 

 いや、あまりといえばあまりに馬鹿げた文章にぶちあたる物珍しさが、田中英光の小説を読む時の妙な魅力なのかもしれない。こんな阿呆も、実際にいるんだ、と。

 


 

しかし、田中英光のときおり、披瀝する日本の批判はもろ公式マルクス主義批判めいていて、つまりあまりに教科書的、教条主義的にわかりやすく、やっかいな感じはないのであり、ただ、そういうくだらない生のイデオロギーが混ぜ込んであるために、だいなしな小説に、埋もれさせ、忘れ去られてしまうには、あまりにも惜しい、とても映画の演出にふさわしいおもしろい場面が一つや二つではなく、あるのも確かなのである。

 


 

 その前に、もう少し、悪い例をあげて置く。「生死いずれかを選ぶ境に立ったら、死ぬのが正しいと教えられてきた日本人。」と地の文にある。これなどは、非情に浅薄な例である。葉隠のこの教え、日本人、と言っても、農民、漁民には、関係なかろうし、生死いずれかを選ぶ境というのが、武士といえども、そんなに、直面しうる観念であったかどうか。少し、おおげさでないか。

 


 

 自殺者と暗殺者が神のごとく敬愛される、愚かな日本民族、ともうすでに、田中英光の時点で、後の大江健三郎のごとく、日本民族を目して、「愚かだ」と形容したがる左翼通俗文学者の通弊が現れている。

 


 

 人間は自分の愛する周囲の人たちや、未来の人類に信頼と責任感を持ち、生命を大切にしなければならぬ、とおおまじめに、武者小路実篤ばりの説教もやらかすが、ご本人が実際にやったことは、上記に説明したとおり、根本的に人間を小馬鹿にした所業をしている。

 


 

 「やりきれぬほど無知で図々しい日本人」と言ってみtzり、「未来の子どもたちや真面目な労働者」と子供もまた、すぐに日本人になることを忘れ、労働者を神格化する低脳ぶりには、つくづく呆れる。

 


 

 宮本武蔵が日本人に人気のある理由は、武蔵は一本の剣で、数十人のライバルを倒すために、一生を費やした・・だから、前近代人で、そういう前近代人に熱狂する日本人は、近代文明に対する劣等感、嫉妬、軽蔑、敵愾心を持っている・・・という愚にもつかぬ批判。田中は、宮本武蔵を好きな日本人を、だから、日本人は無知蒙昧だという。

 


 

 この種のやつ当たりのような、突拍子もない批判は、日本共産党系の文筆家には、結構あって、いつだったか、宮沢賢治に食ってかかるように、非難する文章に驚いていったいこの人、なんで宮沢賢治が嫌いなのか、と思ったら、なんと、雨ニモマケズ、風ニモマケズというのが、政府に反抗する精神を忘れた忍従の精神だと言うのだ。本の著者の経歴を見たら、日本共産党系の人だった。宮沢が戦前の国粋主義を鼓舞した日蓮宗の一派に夢中だったのも気に入らなかったらしい。

 


 

 どういしたわけか、田中英光は、小説のなかに、「思えば昭和12年、日本軍閥の中国に仕向ける侵略戦争はとめどがなくなり」と言うような、新聞記事や週刊誌にも出てきそうな決まり文句をそのまま地の文に書く悪癖があった。

 

 田中にいわせれば、女性のていねいにあいさつする場合の、「さようなら、ごめんください」の「ごめんください」も、強権に対する卑屈なお詫びだという。そんなバカなことはあるまい。この場合の「ごめんください」はあの、「ごめんあそばせ」と同じで、きどったあいさつでしかなく、田中の言う「権力に対する」卑屈でもなんでもない。それが、共産主義への、信奉、日本の封建主義的意識の低さへの憎悪がわけのわからない解釈につながったらしい。田中の作品「さようなら」は、共産党に対するエクスキューズ、自分は転向者ではない、という意識で書いたためか、次のような嘘も、含む。

 


 

 中国人の良民でさえ、骨ばった尻をクソをもらすまで、革バンドで紫色に叩き殴った、と。だが、日本兵のズボンは、腰紐であって、革バンドではない。

 


 

 さようなら、は「それでは」とか「それじゃあ、このあたりでおいとまします」くらいの意味だろうに、田中にかかると、「左様ならなくてはならぬ運命であるゆえ、お別れします」という意味で、「日本の民衆の暗い歴史と社会」から生まれでた言葉だという事になる。