韓国ドラマ 花の戦争 24話 | 気になる映画とドラマノート

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 わたしは、韓国時代劇が時代考証がウソに満ちているなんてのは、日本の水戸黄門、必殺仕事人、暴れん坊将軍は、では、史実なのか、というように、反論したくなるが、別な意味で、ぎょっとすることがある。

 たとえば、日本の大河ドラマでは、いつの時代でも、「戦のない世の中」を希求する人物が出てくるのが、定番であるが、それも疑問だとはいえ、まあまあ、ソウ思ったかもしれないというセリフではある。

 しかし、もし、日本人が、徳川将軍なり、天皇なりが登場して、「差別のない世の中」を願うセリフを言ったりしたらどうだろう。いくらなんでも、変なセリフだということになるのではないか。正しいとはいえ、時代劇のセリフとしては、いくらなんでも、ありえないセリフだと感じられるだろう。

 ところが、韓国ドラマ「花の戦争24話」では、朝鮮王朝の次期王が、「身分の差別のない世の中」を希望する、と言い、清国(満洲族または女真族)の王が、立派な考えだ、応援を惜しまない、などと会話する。

 どういうつもりで、そんなありえない場面を韓国ドラマの制作者は作るのか、まったく理解できない。しかも、その場面では、女真族の清国の王が、われわれは辺境の民だ・・・と自分で自分のことを辺境の地の者だというセリフがある。

 これは、さしずめ日本のドラマなら、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが、宣教師に向かって、われわれ辺境の民は、言うようなありえないセリフなのだが、韓国ドラマは平気でこういう奇妙奇天烈なセリフを入れて怪しまない。これでは、韓国の視聴者が気の毒だ。

 着ている服が華麗すぎるとか、部屋の照明がどうだとかは、畢竟、日本のドラマも同じである。しかし、昔の時代に自分の立場を辺境だと言ったり、王が身分差別のない世の中がいい、いなどとは、いくらなんでもおかしいセリフだ。

まだある。なぜ、日本のドラマは平和を希求するのに、韓国人は、朝鮮戦争やベトナム戦争(
韓国軍参戦)を忘れたわけではあるまいに、なんで、ドラマでさかんに、「戦のない世の中」を希求するセリフがぜんぜん出てこないのか?