日本映画はいくつかの不朽の作品を封印してきている。
たとえば、「旅路 村で一番の首つりの木」川島雄三の「真実一路」。今井正「仇討ち」、成瀬巳喜男の「妻として女として」「三十三間堂通し屋物語」などがその典型だ。
これら5作がDVDになっていないのは、
数多くのDVDによる復刻販売、レンタルがなされているのに、これらの不朽の名作がDVD化されないのは、なにゆえか、まったく解せないことだ。
今回VHSで入手してみた川島雄三の「真実一路」には、驚いた。
わたしはこの映画を実際に見てみるまでは、「真実一路」という題名からつい木下恵介の描くような道徳的作品のようなイメージを抱いていたが、果たして、見てみると、そうではなかった。
川島雄三は、あきらかに、真実一路という心境に、明らかに皮肉の視線をからめつつ、人間の意固地、反発心、欲望、をみすえながらも、一片の真実もあるというように、極めて複雑精妙な人生の断面を描いている。
そのことが、よくわかるために、この映画は、内容濃く、まるで、4時間も5時間もえんえんと映画をみているような気分になる。
いったい、こんな内容の濃い映画を当時の映画の観客は、映画館で、どういう気持ちで見ていたのだろう、と思ったものだ。
この作品で、主人公的な役回りの娘の叔父との会話は、いかにも、道徳的な解説じみたところがある。しかし、実際に描かれている実相は、道徳的説教でおさまりきれない、様々な「人生の鉄則」のようなものが散りばめられている。
ではその「人生の鉄則」とはなにか。
「本来、資質として、勉強好きだったり、まじめだったりする子どもが、非行に走るのは、親との関係にある屈託がる場合だ」ということを、明らかにこの作者は、主張している。
このこどもは、「ちぇっ、ちぇっ」と舌打ちをしてみせる。
そして、学校の先生は、子どもが学校の窓ガラスを割るのは、何かのうっぷんばらしだという。
それから、この先生は、こどもが葛藤しているらしいのを察して、僕が、生徒の心理をよく考えなかったのがいけないんです、とつぶやく。
映画「真実一路」の妻と夫の間は、腐れ縁であり、最初は、一方的な片思いの夫、家の世間体、こどもの行末の、経済的問題から好きでもない男に嫁いだ女。
そのふたりの不仲のわけを知らない孤独な小学生。
これが、この作品の家族関係だ。
いたたまれなさがテーマになっているといっていい。
こどもは、苦労を乗り越えるというより、ただ、なんだかわからない、息苦しさに耐えているだけだ。
そして、妻(母)も夫(父)も、人生を自分の罪に帰する失敗だと考えている。
真実一路とは、まっしぐらに進んだという意味ではない。
この物語には、真実の路を行くことに失敗したものと、「これから歩む者」しかでててこないのだ。しかも、これから歩む者のひとりは、失敗した親の失敗の全貌をしらない。学ぶすべがない。
しかも、この時代は昭和16年であり、こののち、日本は戰爭に突入していったことになる。
この映画が、単に「道徳的な映画」だと思うとすれば、勘違いだというのは、この母親が、こどもに、「何でも買ってやる」と言っていることの意味を見落している。