高市早苗氏原発発言に対する反発の愚 | 気になる映画とドラマノート

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党福島県連の抗議文は、「本県では原発事故の影響で過酷な避難により亡くなった方や、精神的に追い詰められ自殺をされた方など現在1400人を超える災害 関連死が認定されている」と指摘。「(高市氏の原発事故「死者なし」発言は)現状認識に乏しく、亡くなられた方々、ご遺族、避難をされている方々をはじ め、県民に対しての配慮も全くなく、不適切なものであり、強い憤りを感じる」と強く批判した。 
  
 また、森少子化担当相も党本部で記者団の取材に応じ、「大変怒っている」として高市氏に直接抗議したことを明らかにした。 

福島民報記事より引用

 これは日本の民主主義が死んでいることをあらわしている。前からだが。

 民主主義とは、意見には意見。批判、反批判をくりかえしていく説得の過程で結論が変化する過程を含む。だからこそ、民主主義社会には、複数政党の代表が必要なのでもある。

 ところが、この高市発言に対する自民党福島県連の態度はどうであろう。

 高市早苗の発言について、いや、わたしは違う。こう考える。さあ、どうぞ、あなたの再反論は、とはいわない。

 なんと言ったか。

 「撤回ではなく、謝罪せよ。」だと。まさしく、これこそ、ファシスト。議論封殺なのである。

 高市氏が全部撤回しますと言ったのは当たり前ではないか。

 自民党の森まさこ議員は、テレビで見たところ、泣きながら高市氏に抗議した。

 泣きながら離す人間とどう議論できよう。

 反論する前に、「撤回ではなく謝罪せよ」と言われて、反論する意味はあるまい。これ言論封殺なのだ。

 たとえば、三宅島の火山噴火で、避難した人が生活苦などのストレスで命をちじめたばあいも事実あったろう。しかし、火山の溶岩でなくなったことと、避難ののちの生活ストレスは関係あるにはあるが、ちがうものだろう。阪神大震災の仮設住宅で亡くなった方々もあったが、地震で亡くなったとはいわない。これをごちゃまぜにしては対応も、事実に基づかないものになる。

 高市氏があえて「真意はこうでした」というまでもない。普通、原発再稼動に関して、チェルノブイリは死者何名、後遺症による死者何名という場合、放射線による影響を指している。まずは、高市氏がそういう意味で言っていることはわかるのだから、いや、「避難することという重みも考えるべきだ。あなたは、その点どう考えていますか」というべきなのである。それで高市氏がなんと言うか。

 原発について、なにか意見をいう時に、なにか一言でも、間違えると、即、撤回謝罪を要求されるとわかった以上、今後は、「王様の耳はロバ」の耳で、マスコミも政治家も、自己規制をはじめて、意見を原発反対派に斟酌してしかいえなくなくなることはさけられない。

 「撤回ではなく、謝罪せよ」では、故意に誤解して聞くまいとしたのか、単に無知だから、放射能影響の死も、非難の後の死も本気でごたまぜにして、「いるじゃないか」とマジで言っているのかさえわからない。


 工場の零細事業経営者は、なんとか原発を動かして、ほしいと思っている人も、事実いる。そうした、人々の代弁をする場合には、チェルノブイリと比較して軽い面を言う場合も、あるだろう。

 しかし、それを発言と同時に撤回ではなく、謝罪を要求といったのでは、この社会が「意見の不一致があるから」訴訟制度があり、議論が推奨されていることを認めていないことになる。

 航空事故や交通事故の被害者の家族や、自分のこどももいつ被害にあうかもしれないと思う人々(心配して、送り迎えする父母も実際いるだろう)は、なぜ、二度とこのようなことが起きないように、飛行機を人類は放棄すべきだ、とか自動車文明を放棄しよう、と言わないのだろうか。

 それはなぜ、原発とちがうのだろうか。