ハルモニの唄 を読む 第4回 | 気になる映画とドラマノート

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厳選名作映画とドラマを中心に、映画、テレビ番組について、思いついたこと、美麗な場面、ちょっと気になる場面に注目していきたいと思います。

ハルモニの唄 を読む 第4回は、雑誌「世界」2012年6月号所収第1回より。

川田文子著の感想と紹介です。

川田文子さんの貴重な在日のおばあさんがたの生活体験の聞き書きです。

まず、冒頭、著者の川田氏が解説しています。

「早い時期(1930年以前)に、日本に来たハルモニの多くは、学校に通った経験がない。1930年代以降に、在日のこどもたちの就学率は上昇するが、それでも、小学校を卒業できたハルモニは少数だ」

この文を現在の高校生が図書館で読むと、朝鮮の人々はひどい差別を受けていたのだと思うはずです。

 ところが、日本は昭和11年の時点でさえ、日本全国に中学校が559校しかなかった。生徒数はその年、全国で35万人だけ。尋常小学校しか卒業しない人が大半の時代の話なのである。わたしの、祖祖父の家は、村の人から、関所のような大きな門だといわれていたそうだが、それでも、祖父は小学校卒なのだから、周囲の貧困層に属する日本人ならば、川田文子氏の言うような、「小学校にもいけないこども」はその当時日本人でさえ、特別なことではなかった。

 現代人は、日本のとくに大都市以外の地方の町がいかに貧しかったか、想像もつかないことになっている。映画も、ドラマも、そこを描いていないので、さっぱりわからないのだ。

 小津安二郎の映画「息子」や「長屋紳士録」には、1930年代の日本の貧しい庶民の暮らしぶりが少しはわかる描き方になっている。

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其の頃、日本人も、朝鮮人も、こどもは子守り奉公、女中奉公、家内工業的な工場で長時間安い給料で働いて、心細さに泣いた。

昭和30年代の地方からの中学卒業の集団就職列車というのがあって、少女、少年は都会暮らしがさびしくて、お金をためてすぐ、故郷に逃げ帰るこどもたちもたくさんあった。


1918年生まれのメンスンさんは、日本に来たのは、従兄が日本の雇い主が、人手不足だから、知り合いをつれてこないか、と言っているということからだった。これも、昭和初期から、昭和30年くらいまで、東北や九州の青年が、大阪や東京の工場で働いて、帰郷して、近所の人に声をかけていっしょに戻ることはよくある風景だった。今ではそうぞうさえできないが。

 メンスンさんが働いた「浅田電球製作所」の浅田清造さんは、当時、周辺の工場で、朝鮮人も日本人もいっしょにまじって働いていたことを記憶している」という。

 太平洋戦争時、ルーズベルトは、朝鮮の奴隷状態を、日本から解放するのだ、と言った事実があるが、もし本当に奴隷なら、アメリカの黒人差別のように、一方的に、白人が黒人を家の使用人にして、子どもを産ませる、、乗り物はいっしょに乗れない、共通の外食はありえないということになった。ところが、メンスンさんの思い出は、、こういう。

「道端で歩いても、、涙が出るし、トイレに入っても、こども心に涙がでた。」

・・・同じ工場に住み込みで働いていた日本人の少女が、親元を離れ、冬でも冷たい水で雑巾かけをしていた」