逆転の女王 20話 | 気になる映画とドラマノート

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 逆転の女王20話を見ていたら、韓国ドラマの大きな欠陥にぶちあたってしまった。

 この大きな欠陥というのは、「やりすぎ」に類する欠陥で、これは「推奴チュノ」の「脳性マヒでからだがうまく動かせない女性をあざわらう悪人」の描写にも言えることだが、たとえばあのような場合日本人は、いかに悪人でも、あそこまで冷酷な人間は現実にいるものではないし、いたとしても、それは殺人事件のなまの現場をだれも見たくないように嫌なものだと考えるので、したがって、テレビや映画ではそこまで冷酷な人物描写はない。ところが、たとえば、逆転の女王20話でどんな場面があるかというと、

 財閥の第二夫人の息子が実の母の顔を知らず、とうとう実の母親と対面して、母親はいままで会えなかったわけと、どんなに会いたかったか、忘れた時は一時もなかったかと息子に謝るのだが、そうした母親へいたわりの言葉をかけなかったことが、母に悲しい思いをさせたろうと、追いかけると、母はけろっとした声で、再婚後の今の息子に電話をしている・・・・。男は言葉をかけるきっかけを失ってその場を去る。

ここまでなら、人生の真実をうがったすばらしいシーンと言えるし、事実わたしは感動してみていた。

ところが、韓国ドラマの過剰演出はここからさらにひねって、すべてが偽者の雇われ母の演技だったことを明かす。日本人(わたしも)の感覚では、おそらくこれは耐えられない演出である。

 およそこのような悪辣なたのまれごとを、いくらお金のためとは言え、引き受ける人間がいるとは思えないし、このような依頼をする人間がいるとも思われない。まさに人倫にもとる場面なのである。果たして、韓国のひとたちは、このような違和感を覚えないのだろうか。それとも、作者が韓国人にも、ある違和感を無視してオーバー演出しているのだろうか。

 ただ、いまだに日本人の間でも、推奴が人気があるところを見るとわたしにはなんだかわけがわからない思いに駈られるのだ。


 念のために言うと、チャングムのイ・ビョンフン監督には、このような感じを受ける演出はない。