「たそがれ清兵衛」には、珠玉と思えるシーンがある。
子どもがごはんをがつがつと、健康に食べるシーンがそれで、私は、そのシーンを見て、ああ人間は、まして子どもは飢えさせちゃいけないな、食べたかろう、たんと食べたかろう、世界中で、戦争や貧しさでひもじい思いをしている子どもがいるとして、本来こんなふうに食べるはずのものなんだ、と思った。
たそがれ清兵衛は、中盤、主人公の清兵衛に子どもが、父上、学問は何のためにするのですか、と聞く場面がある。
清兵衛が答える。学問をすれば、自分で考えることができるようになる。
この部分はまことにダメなセリフである。
自分で考えても間違って考えては仕方がない。学問しても、間違えない保証はいっさいない。大江健三郎の本を読むと、大江氏が、東大フランス文学の渡辺一夫さんを尋常ではないほど、敬愛していたことがわかる文がある。
小林秀雄が渡辺一夫はきちがいみたいな人だと(ほめて言ったのだろうが、そうとわかっていても)言われて腹が立ったことを大江氏は書いている。
この渡辺一夫の息子にあたる渡辺格氏が平成14年に書いた「父の政治感」には、こう書いてあるのだという。(平川祐弘氏の紹介からの引用)
『共産主義諸国の独裁制も、資本主義諸国からの介入を防ぐためにやむを得ない処置と考えていたようだ。後年、共産主義国に関する種々の好ましからぬ情報を入手してからも、共産主義には好意的であり続けたと思う。」と息子が日頃の渡辺一夫の言動から、書いている。
小林秀雄が渡辺一夫がきちがいみたいなところがある、と言ったのは、学問に対する熱意のことなのだろうが、それにしても、戦後多くの学者、文学者は社会主義国家とアジアの国に幻想を抱いてきた。その事については、学問をすれば自分の頭で考えるも何も、無力だった。
渡辺一夫のように学問の泰斗とされる人が社会主義国に幻想をもって、多くを語ったのは、今ではオウム真理教と同じくらい間違いだったのは明らかだ。
スターリンの収容所、中国、北朝鮮の農民の餓死、カンボジアの大虐殺などは、資本主義とは関係ない。
山本健吉は、角田房子に「閔妃は日本の勢力を朝鮮半島から追い払おうとした王妃で、きっと誇り高いすばらしい女性だったと思いますよ」と言った。
山本健吉は、文学者としては一流だったが閔妃がロシアびいきで、朝鮮の抑圧制度を保守したことは何とも思わなかった。