大河ドラマ江とその時代、島津義弘 | 気になる映画とドラマノート

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島津義弘という人物は、『名将言行録』によると、家臣に対してきわめて、情理ある話方をする人だったと言われている。

「そなたは、父親に似ているな。親父に勝るとも劣りはすまい。頼もしいな、ますます、忠孝に励んで、奉公してくれよ」と言ったことを言う人だった。
手柄の立てたことのない人も、邪険にすることはなく、

「そのほうの親父も、心掛けはよいのに、戦いの場所が悪くて、手柄が無かったな。しかし、おまえを見ると、親父に勝っていて、頼もしい様子だな、期待しているぞ」

だいたい、こんな言い方をする人だったと言われている。

しかも、島津義弘は、朝鮮出兵の際には、明軍20万に対して1万の軍で戦ってなお敗走しなかった猛将でもあった。

島津義弘は、関ヶ原の合戦で石田三成の西軍につき、情勢は絶対絶命の窮地に陥った。

この場合、いさぎよく、うち死にするというのは、間違いで、重臣は家臣を生かして逃がすことによって、一門の再興を図るのが常識だし、当主本人も出来ることならば、生きて逃げて、再起を期すべきだった。

問題は、その場の状況が脱出を許さず、あえなく戦死、または捕縛されて処刑されかねないのをどう切り抜けるか、ということだ。

島津義弘は、咄嗟の中、配下の川上四郎兵衛を家康本陣にやり、

「日頃、家康殿とは懇意にしていたが、この度は致し方なく、こういうことになった。自分はいったん、戦を引き上げて帰ることにする。詳しい話は後で」と言ったような手紙を届ける。
家康は、いま島津を無理に追って捕まえようとかかっても、大将を守ることに集中しているから、ただ、味方の兵を減らすだけの結果になるだけだから、逃げていく、相手はとりあえずほって置いて、現に対峙する敵に向かおう、と指示する。

島津義弘は、途中大坂城に寄り、夫人を救出して共に無事薩摩に帰りつく。
そして、一年後家康と和議を結んで、268年後、島津藩は維新の雄藩となる。