大河ドラマ江の時代偉大な側室の子、保科正之 | 気になる映画とドラマノート

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江の長男、家光は狂暴な弟忠長を自殺に追い込んだが、まともな兄弟ならば、たとえ腹違いの弟でもきちんと相対する面があった。

気が強くて側室を許さなかった江に対して、秀忠は、北条家の家臣の娘、お静に子どもを産ませたが、江に知られるのが嫌で、

信州の保科家に養子に出していたが、重臣は正之が将軍のご落胤と承知していた。

朝鮮王朝の場合、王の兄弟、すなわち王族は政治に関与してはならないキマリだったが、

徳川幕府は、将軍の兄弟には、地方の藩主の地位を与えたり、幕府の要職につかせて、仕事を与えた。

異母弟の存在を知った家光は、保科正之に会津23万石を与え、さらに、幕府政治への参与を求めた。

死の床についた家光は、まだ11歳に過ぎなかった家綱をよろしく頼む、と異母弟、保科正之の手を握って言ったという。
正之は涙をふるって、かならず約束を守るから、心配しなくてもいいから、と言ったという。
それから23年間、正之は会津へ帰ることのないまま、江戸の幕政と会津藩をよろしく采配した。

正之はまず、会津藩に殉死禁止令を定着させ、つぎに幕府にも殉死禁止令をだす。

正之は、江戸には玉川上水を企画実施して、

会津では、米を大量に買い上げて、凶作の年にはこれを放出したので、長らく、会津藩では凶作の年にも餓死者が出ることがなかった。

徳川の武断政治を文治政治に改革したのも保科正之の采配によるものだった。

こうして、利かん気の、女、江御台所の影響下、日陰の身にあった、側室の子ども、保科正之は、日本の近世史上、忘れられざる歴史人物となった。