大河ドラマ江の時代ねねと茶々の晩年 | 気になる映画とドラマノート

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秀吉には、16人の側室がいた。跡継ぎの男子が欲しかった、ということなのだろう。

なぜかねねとの間には、子どもが出来なかった。

不思議なことに、茶々がはじめての秀吉の子ども、鶴丸を生んだのである。
が、その鶴丸も三歳で病死するが、すぐに茶々(淀殿)は後の秀頼を産む。
秀頼はこれまた不思議なことに、誰に似たか、180センチはあるような大男でさらに肥満体で、相撲取りのような外見のために、戦場の馬にろくに乗れないような人物だったという。身長が高いのはいいとして、肥満体は、淀殿と秀吉の甘やかしが原因と見られる。
秀頼を産んだ時、淀殿27歳、北政所、ねねは、46歳だった。二人の立場、考え方はこの時から次第に別れていき、秀吉亡き後、北政所は家康と和解する道をさぐる。

そして、淀殿はひたすら家康を忌み嫌い、戦も辞さぬと憎む。
北政所は、高台院を名乗って京都に陰棲してからも、関ヶ原の戦いのはじめからその後まで、高台院は家康と良好な関係を保った。

70歳の家康が二条城で17歳の秀頼を引見したのも、高台院の説得による。
これから三年後、家康は73歳で、大阪冬の陣によって、豊臣家討伐を決意する。

徳川の大軍が迫った時、淀殿は自ら女だてらに武具をつけて、男どもに軍事の指図をして、味方を呆れさせたという。

このあたり、ドラマの三姉妹を思わせるばかっぷりとわがままが炸裂している。

さらに、淀殿は秀頼に、最後の時、頼朝公の例もあるから、生きて捲土重来を期すべしのような、往生際の悪いことを言うので、息子の秀頼はやむなく、家臣に母親を斬らせて、自分も死ぬ。

この時、茶々、49歳。果たして初と江は何と思っていたことか。

その後、ねね、高台院は、秀忠、家光と季節の進物を贈り合うなど、穏やかな晩年を何不自由なく、送り、69歳で亡くなった。

子どもが出来なかった正妻が、若い側室が子どもを産んで家内となったのを見届けて家を出て、がしかし、晩年、不自由なく、暮らした稀有な例だった。