歴史に多少興味あっても知らない人が多いと思われる玉木文之進…ここで問題です。

Q・松下村塾を創始したのは吉田松陰である。

A・玉木文之進

これって知らない人が多数派と思いますが、創始したのは実は玉木文之進、よってここが正真正銘の松下村塾発祥地なのです。

前回は弟の三回忌からの仕事前だったので、松下村塾だけでいっぱいいっぱいでしたが、今回はまだまだ、盛りだくさんとなったのです。

松下村塾でここが近いのを知り、駐車場に居た清掃のおばちゃんにお聞きしたのですが、手を止めて丁寧に教えてくれました。

「こっちは聞きやすいですね。東京じゃスルーされること多いから…」

「そんなこともないだろ。」

「でも、あんな風にはなかなかいかないですよ。」

「ググれカス!とか?(笑)。」

正味な話、ググれば良いんですけどね。
記念館でもありましたけど、現場でないと体感できない、せっかくの一期一会の交流の機会じゃないですか?
だから旅の食事や酒場では普段はあまりやれないけど勇気をもって話しかけてみます。

最大の難関=見ず知らずの一見がこちらから話しかける。
要は話のとっかかりですが、旅行者ってここのハードルはかなり低いですよ。

「○○から来たんですよ。名物食べたいんですけど。○○最高なんですよね?」

実に簡単!
是非皆さんもやってほしいと思います。
本当に地方の人って基本は親切だし、話し好きな人も多いので…それは実験済みです。
(ごくたま~に不快になる場合もあり 笑)

13:54
先輩は大好きな歴史上の人物の1人だと言う玉木文之進、吉田松陰の叔父であり、厳しく教育指導を施した師匠でもあります。

1842年、松下村塾を創設

1855(安政2)年、それを吉田松陰が継承しました…となってますが、Wikipediaでは1857(安政4)年、どちらなのか?
これだけを見ても、1つの情報がすべてではありません。

「1つの情報がすべての真実」
切り取り、捏造、偏向、スポンサーへの配慮など、実情はまったく真実とはほど遠いのに、多くの人の常識になっているのが、テレビが流す報道です。


安政の大獄は1859年
身分を問わず広く門戸を開き、学問以外の水泳などの指導も行い、後世にまで残った教育の軌跡はほんの僅かな期間の輝きでした。

木造茅葺き、平屋建て、8畳の座敷、4畳の畳部屋、3畳半の玄関、4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿、便所という造り。

これぞ日本の家、そのままのイメージ
親が刑事で転勤ばかりだったのですが、上田市、松本市で生活した家もこんな古~い雰囲気でした。

その何気ない一部屋をただ見ていたのですが…


「ここで二人が勉強してたんですよ。」

それを聞いた瞬間、ただの6畳間に見えなくなったのです。

松下村塾もでしたが、ここも簡素な造りの家。吉田松陰って人はかなり質素な生活をしてた人のようです。

西郷どんもでしたけど、「庶民の視点」があるからこその「敬天愛人」だったと思います。
高杉晋作の奇兵隊、吉田松陰の松下村塾。武士以外にも道を開いたことが、それまでに有り得なかった力を生んだように感じます。

どちらにしても、消費税を上げた+を法人税でチャラにする奇特なトリックを操り、贅沢を尽くす現代の多くの政治家に改め、心から学んでほしい部分です。

一通り周り外に出ると案内板があり、目的のお墓と別に生誕地まであるようです。

当然、向かったのでした。


つづく