あの時、「いつか必ず」と決めていた場所へ
真田幸村が生涯で1番長く過ごした九度山、自然がいっぱい、イメージ通りの町です。
不動谷川沿いに無料駐車場があり良心的です。
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一般的に知られる「幸村」という名は最後の決戦大坂夏の陣のものであり、ここ九度山までの長~い人生ほぼ「信繁」です。
【第二次上田合戦】
それは1585年のこと
徳川家康「北条と和睦、沼田(現在の群馬県沼田市)をあげることになったのでよろしく!」
( ・ω・)「いや~、何で?」
家「逆らうのか?」
( ・ω・)「沼田は元々真田の領地なので、当然断る!」
家「貴様、命はないぞ。」
激おこな家康は8月に鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉、7000の兵を信濃国分寺付近に展開させる。
鳥「敵兵力は1200?、一捻りだわw」
( ・ω・)「結構多いな、まぁ勝つけど。」
徳川軍は余裕だったが戦慄の大敗、千人以上を失うも、真田側の戦死たったの数十人。完勝である。翌日、真田についた丸子氏の丸子城を攻めるもここも落とせない。
そのうち上杉の援軍までやって来て、28日に本隊は撤収
9月から北条は沼田を直取りすべく数回にわたり攻めてきたが、沼田城の矢沢頼綱(昌幸の叔父)は撃退してしまう。
真田昌幸という武将の株は一気に爆上げとなった。
家「上田城どころか、小城一つ落とせず何にも戦果なしではないか…こんな危ないヤツだったとは。」
本多忠勝の娘、小松姫は幸村の兄信之と結婚するのだが、懐柔策の一つと見られている。
15年後、信之が昌幸、幸村と袂を別つ日がやって来る理由となるのだった。
これ、小説、ドラマとかでも色んな解釈があって、「真田の名を残す為」なんてのもあるのですが、この理由ではないと思います。
信之は奥さんが本多忠勝の娘だったのですが、忠勝という人に出会ったことの影響も大きかったような気がします。
因みに本多忠勝は、止まったトンボが真っ二つになったと伝わる蜻蛉切を備えた6メートル以上の長槍を使う徳川四天王の一人。
57回もの戦場でかすり傷一つ負わなかったということです。
遥か昔、指導後の飲み会で、「誰が剣術最強なのか?」という話題の中で、武蔵最強派に対して「本多忠勝が馬で突っ込んで来たら宮本武蔵吹っ飛ばされますよ。」と、自分は言ってました。
もちろん、純粋な一対一なら分からないですけど、戦場の混戦とはまったく違う戦いです。
この辺は格闘技での打撃系と組技系、ルールでも勝敗が変わるのと同じですね。
MMAが最強を決めるルールというのは違うと思います。
ラウェイに出てた金子選手がK-1に出てましたけど残念でした。
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豊臣家の存亡を賭けた関ヶ原の戦い
秀吉がこの世を去り2年、いよいよ徳川家康は天下を狙う。
1600年9月3日
関ヶ原へ向かう徳川秀忠の軍勢は38,000
対して真田は2,500
秀忠「わざわざ死ぬこともあるまい、城をあけ渡すがよい。」
( ・ω・)「お願い助けて~、用意しますんで明日まで待って。」
秀「うむ、分かった。」
ところが昌幸はやる気満々だった。翌日…
( ・ω・)「やはり武士として死ぬ所存である。どっからでもかかって来たまえ。」
秀「ふざけるな!」
こうして始まった戦い…
自分の幼少期見た書物には、第一次上田合戦同様滅多うちで真田勝利と記憶しているが、どうやら小競り合い程度だったらしいとのこと。
しかし、これが真実かと言えば見た者はなく、真偽は分からない。
ただ真田と一戦ということにリスクを感じさせた背景に、第一次上田合戦での敗北があったのは間違いないであろう。
どっちにしろ秀忠の38000は関ヶ原に参戦できなかった。
これだけの戦力削れば楽勝…の筈だったのだが、西軍は敗北する。
これは「本気で戦ってる人間」の数の差。
ミッドウェーは日本が大和含め全戦力を使用すれば勝てていた。
幕府は全員が死ぬ気でやれば、長州藩に勝てていた。
様々な戦いで寝返ったり、真剣に戦わない連中が嫌いなのだが、これは仕方ない。
お家断絶するか?
生き残るか?
ここで後者を取るのは必然…
とは考えない者も僅かにいる。昔も今もここは変わらない。
信之の尽力もあり、助命されたものの、ここ九度山へと流された昌幸と幸村。貧しく不自由な14年もの生活の間に昌幸は死去。その3年後に幸村最後の戦いとなる。
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これを売って生計を立てていたということで、道着なども自由度が高かった時代、試合のマスク固定用に使ってました。
義に生きようとする人がほぼ必ず負ける…この世界は狂ってます。
義に生きるのが大人な筈なのに、それを失うことが大人だと、当然のように嘘を言う…若者も腐るでしょう。
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【真田幸村直筆の書状】
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CGによる軍勢の配置、交戦の解説は非常に分かりやすいです。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200415/22/kudo-shinagawa/ff/4e/j/o1080060714744180793.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200415/22/kudo-shinagawa/54/08/j/o1080060714744180795.jpg?caw=800)
これはあってもおかしくはないのかも知れませんが、家康の乗っていたという駕籠にある弾痕、当日を語る記録とともに死亡説を確信しました。
家康は勝ちを確信しながらも、真田が西軍であることに不安が消えない。「信濃一国」とも伝わる報酬にも一切反応しない幸村。死ぬことを決めた者の強さ…その覚悟は生き残って恩賞を受けようとしているだけの打算的に戦っているだけの者とは違う次元の異質なもの。それを知らしめる死闘となった。
ここで大河ドラマのタイトルにもなった真田丸が完成する。
( ・ω・)「京都から瀬田へうって出るべき。」
「天下の大坂城で守れば勝てる。」
( ・ω・)「籠城なんて援軍もないのに無理だよ。」
「そんなこと言って寝返るつもりだろ?」
( ・ω・)「・・・・・」
恩賞の話も蹴り、すべてを賭け参戦したにも関わらず豊臣幹部からは疑われ、作戦も聞いてくれない…そんな状況下でやむ無しの砦だったのだが、これにより真田幸村の名は一気に天下に知られることとなる。
ここから指揮全権を幸村に任せ、秀頼以下本気で戦っていたら?
当然徳川の天下は無かった。歴史とはほんの少しの違いから大きく変化していく。
完全なる西軍優勢で進んでいたのだが、徳川軍のたった一発の砲弾が冬の陣を終わらせることとなる。
淀君の侍女8人がこれにより死亡、大坂城は10年でも戦えると豪語していたのに、一転して和睦へと向かう。
条件に二の丸、三の丸の破壊があり、堀も埋められてしまう。
( ・ω・)「このまま終わらせてくれるわけないだろ。次はもう勝てんな。」
家康が豊臣を放置する筈もなく、翌年1615年に大坂夏の陣となる。
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![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200415/22/kudo-shinagawa/54/08/j/o1080060714744180795.jpg?caw=800)
それは何なのか?
九度山で実際にご覧ください。
1615年【大坂夏の陣】
5月5日
徳川家康、京都より出陣
家「この戦は簡単に終わる。兵糧は3日分もあればよし。」
5月6日【道明寺・誉田合戦】
後藤基次(又兵衛)、薄田兼相が討ち死にする。
又兵衛は総身53ヵ所に傷痕のあった猛将、彼は幸村と同じく
「宇治、勢多に打って出るべき。」
という策を唱えていたものの相手にされなかった。
2800の軍勢で道明寺で奮戦するも2万の大軍に三方から攻められ、従兵の金方に首を斬らせた。
(又兵衛の首は見つかっていない。)
幸村は深い霧の為参戦できず、又兵衛を守れなかったことに落涙した。
毛利勝永は
「明日こそは、秀頼公の前で討ち死につかまつろう。」と励ました。
城退却の殿という大役を務め、有名な捨て台詞を残す。
( ・ω・)「関東勢百万も候え、男は一人もなく候。」
この日、豊臣方は後藤、薄田を失い、千人以上の死者を出したものの、損害は徳川方が遥かに多かった。
5月7日【天王寺・岡山の戦い】
今日が最終決戦なのは明白。幸村は大野治長に再度豊臣秀頼出馬を求めたが叶わなかった。
九度山の14年を堪え忍び、やっと大坂へ来れたものの、何一つ思うように行かなかった幸村に去来するものは何だったのか…
かくして、赤一色に統一された真田軍は家康を後一歩まで追い詰めた。
これは実際にあった出来事。敵味方問わず称賛されていることからも明らかである。
ヤソ会士日本年報より
先頭には真田および他の一司令官毛利勝永があり、言い表せぬほどの勇気をもって戦った。
三、四回激しく攻撃したので、将軍(秀忠)は次第に敗退、その部下の多くが列を乱して逃げるのを見て、退却の準備をなし、自ら敗走者の後を追わんとしたことが数回あったが、そのつど引き止められた。
また内府(家康)も失望に陥り、日本の風習に従って腹を切ろうとした由、確かなこととして伝えられている。
しかし大坂方が少し気を弛めたので、戦の運はたちまち転じ切腹を取り止めた。
細川忠興書状
半分は味方、半分は大坂方の勝ちであった。こちらの人数が多かったから勝ったということになる。
家康の本陣は総崩れとなり、家康の側に踏みとどまった騎士は小栗忠佐衛門一人だった。
家康の旗が倒れたのも、三方ヶ原の敗戦以来とされている。
そして…
真田佐衛門佐、合戦に於いて討死。古今これなき大手柄。
幸村49歳
一子大助16歳(諸説あり)と、譜代の士145人も幸村とともに死んだ。
前にも書いてますが、家の兄弟はここで家康は殺されていた派です。
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