【※時間がなくて遅くなりました。
中途半端なものにしたくないので、前後編に分けます。】

松蔭神社を巡り、外にでると吉田松陰歴史館がありましたが、既にギリギリの時間となり少し迷います。
「ここ入って仕事に間に合うだろうか?」

でも結局入りました(笑)。
結果、仕事入り時間の1時間前に帰ることができました。
連休中でごった返しの駐車場…かなり待たねばならない可能性も高かったのですが、何故か1台の空きがあって、すぐに駐車できました。
松蔭先生と弟が、「このままでは仕事に間に合わんぞ、アホなヤツや」と、助けてくれたのかも知れません。

500円でしたが、これは安い。そのぐらい吉田松陰を知らない人でも、短時間で理解できるものでした。

等身大の蝋人形で、その短くも熱い、激動の生涯を再現しています。

【兄と共に叔父(玉木文之進)の教育を受ける】
5歳で山鹿流兵学師範、吉田大助の養子となり、厳格な教育を受け…6歳で家督を継ぎました。

【藩主の御前で武教全書の講義】
この時、吉田松陰はなんと…

11歳!!!

【筆写に励む吉田松陰】
平戸藩士、葉山左内は陽明学者であった。
松蔭は多数あった左内の蔵書を借りて読破すると同時に筆写を始めた。
彼の勉学のやり方は、読書しつつ要点を一々抄録することだった。
彼は門弟に
「書物は読みっぱなしにするものではない、必ず要点を書き取ることが不可欠の勉強の方法である。」
と教え、自らも実行した。

西欧の東洋侵略
しっかりと表記しています。

「自衛隊廃止」「9条を守れ」
無差別に殺される状況でもそんなことを言うのでしょうか?
やらなければやられる…それを知らない、先人に感謝すらできない。
そして、それを恥とすら感じられない… 
見事なアスペルガーであり、サイコパスですが、無関心層も含めれば、今や日本人の8割以上です。

【佐久間象山に入門】
佐久間は信州松代藩士。江戸で儒学を学び当代随一と称えられていた。
「今や、日本に必要なのは西洋学」
海外事情の研究に没頭していた。

ここで、アヘン戦争の詳細を知った吉田松陰は西欧の侵略はいずれは日本に及び、その時は戦うしかないことを知ります。

【アヘン(麻薬)戦争】
このやり方から、果たして話し合いで逃げれたのでしょうか?
自分は戦うしかないと思います。
 
長野県だけに、佐久間象山は小学生の時、習った記憶があります。やはり教育次第でどうにでもなります。

【松蔭は金子重輔と共に下田港で米艦に密航を企てたが失敗、自首する。】

この時24歳、破天荒すぎ!

そして、萩の野山獄につながれました。

【松蔭・松下村塾を開設、その至誠みなぎる対人教育は多くの子弟の感動を呼ぶ。】

1857(安政4)年、27歳。希望に溢れていたであろう時期ですが、最期の時は近づいていました。


つづく