「よいこと」の意味の微妙な違い

 

 昔、その昔ですが日本は軍国主義に走って、若者たちが兵隊にとられてたくさん命を落としました。「国を守るために戦うことはよいこと」とされていました。

 最近もまたそういうことを言う人たちが増えてきて「いのちをかけて国のために戦うのは道徳的なことだ」なんて言った人がいるらしいのです。

それって変なのですね。しかし、どこがおかしいのかもわからないようなのです。

 

 そこで、問題は「よいこと」というのを無闇に人々に押し付けることが道徳のようなのです。

 「こうあるべきだ」「こういうことはしてはいけない」決めつけて「教育」するのが大事なことのようにして、それを受け取る側の人(たいていは子どもや若者)が自分の考えや、自分の人生の価値を自主的主体的に考えて実行するという自由さが奪われます。

 

 「よいこと」というのはその辺に落ちているモノではありません。

 

 ですから、「よいことをせよ」ということが「教育」の中心課題だと思ってしまうのです。これでは人間性の最も大事なものが育ちません。

 

 そこで、僕の父親が提唱した「人生の宝庫を開く『三つの鍵』」というのの三つ目に『ヨイことはする』というのが出てきます。

  「を」というのを「は」に言い換えただけで、その意味はガラッと変わってしまいます。「よい」ということが自分の外にあるのと、「ヨイことは」というと「自分が主体」で「ヨイ」という価値になるのはどういうことかということです。

 

 ではそういう時の「ヨイ」は何だろうと一生の課題になります。表向きの損か得かではない本当の損得。それが僕らが始めた「人生ドリル」の宿題となります。そこで、今までに出会った答えのうちナルホドと思えるのは「目の前にあることをする」という答えです。

 

 例えば「アイサツはしなければならない。あいさつはするべきだ」と「アイサツ」という「よいことをしろ」とおしつけられるのと、「人に出会ったときには挨拶をすると気持ちいい」と言われるのではちょっと違います。

 

 よくあるのは「ウソを言ってはいけません」という大人が平気で「ウソを言っている」なんてことです。「よいことをしなさい」「よいことをする」というのはどうやら中途半端で、押しつけになってしまい子どもや若者が平気でうそを言ったり、おとなになってごまかしをしたりしてしまう大人になってしまうのです。・・・政治家のことを言っているわけではありませんが。

 

 「よいことはする」という宿題は奥が深く「よいこととは何だろう」という「人生の宿題」を持ってあたためるという大事なことなのです。