私的リアリティー論 シーズンⅡ | 皆様ご機嫌いかがでしょうか 

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【久保田光彦オフィシャルブログ】 

リアリティー論の続きです。ある命題を真と仮定するとき、そこから導き出される論理的思考による結果は、これまた真である。ドラマにおける命題とは人物設定・状況設定であり、命題に従ったルールも同時に設定される。そこから導き出される論理的思考は、ドラマではその行動・判断が、ルールを前提としつつ、かつ現実に即しているということである。

例えば、100mを5秒で走れる人間を主人公に設定するとしましょう。そこで生まれるルールは、彼は超人的身体能力を有し、常に駆使できるということである。五感も兼ね備えている。でも謎解きでは、証拠を分析し時系列に沿って理屈にあった解決策を提示する。でなけば、ドラマのリアリティーは成立しない。そこに超能力を持ち込めば、作品は現実離れした単なるドタバタ劇になってしまう。

『SP』の場合、SPという現実に存在する対象をドラマの中核に据えているのだから、自ずとルールは決まってくる。その現実的行動・判断を、リアリティーと呼ぶ。ところが映画『SP野望編』は、そのあたりのところが分かりづらい、イヤ!いい加減である。アクションを際立たせるために、辻褄合わせに走った感が否めない。もちろんドラマは作りモノなんだから、大部分があり得ない事象の連続なのだろう。しかしだからこそ、細部のほんの一齣の描写に、観る側を「それ、あるなぁ~!」と感じさせる必要があるのだと思う。ドラマという、人と人・人とモノとの関係性を描く作品を、地に足のついた芸術に昇華させるために、リアリティーは存在する。じゃないと、ドラマは単なる作者の自慰行為ですヨ。

『SP』と、同じくフジで放送して映画も大ヒットした『踊る大捜査線』を比較してみましょう。『踊る』の基本テーマは、”警察は会社。警官はサラリーマン”に象徴される。サラリーマンの様な警官の中に、ある日サラリーマン出身の青島俊作が入ってきて、事件を背景に起こることをコント仕立てでスケッチする。ある種お伽噺なのだが、”会社・サラリーマン”というルールに従っているので、我々の想像とのギャップが笑いを生む(あるいは刑事ドラマのパターンとのギャップ)。だが、細部や一齣に「サラリーマンならあるある!」という場面が随所に登場する。また拳銃をほとんど使用しない。ここにリアリティーが存在するんです。

『SP』は、現実の世界に非現実を乗せてきた。『踊る』は非現実的環境に、現実を当ててきた。リアリティーの重要度は当然『SP』が上回る。だから、リアリティーからの逸脱が、荒唐無稽に感じられるのだと思いますネ。もちろん『踊る』にも、ここはちょっと変…と思える箇所はあります。特に映画『レインボーブリッジ』と『奴らを解放せよ』では、『SP』以上にリアリティーの無さを感じました。

あと細かいことを言えば、岡田の井上と堤真一の緒方の関係が、映画では急にぎくしゃくする。布石はドラマの最終回で打ってはあるが、雑で不親切だ。要は、ドラマは脚本と演出…!ということでしょう。