夏休み 違和感という石
夏休みだ。愛犬との散歩中に見上げる空には入道雲。子ども時代、海辺の町に住んでいた私は、よく海水浴を楽しんでいた。浮き輪に身をゆだねて波に揺られながら、あんな雲を見上げたなあ。この時間は切り取られたものであることをどこかで感じながらも、永遠に続くといいなあとぼんやり思っていた夏の日。今となっては、遠いとおい記憶。夏休みの始まりは、一学期の終わりでもある。(当たり前か)教師という仕事をしているので、大人になってもその生活リズムは心身に沁みついている。今年の一学期は、職場復帰という(育休明けとは別の意味での)初の経験をした。そして迎えた夏休み。昨日、同僚友達とカフェでお茶しながらささやかなお疲れ様会をした。「どうだった?」復職後のことを尋ねてくれた。「うん。息苦しかったな、職員室が。」「なんだろね・・・、この息苦しさは。」どうやら、そう感じているのは私だけではないらしい。職場における息苦しさをテーマにアレコレ二人で話をした。コロナ禍のなかで子どもたちが例年のように活動が出来ない。そんな中で、できることを保障していきましょう。とても、「正しい」ことなのだと思う。そして、例年にない活動は次々と増えていく。そこで働く大人の疲れは「頑張りましょう」「乗り切りましょう」の言葉でスルーされていく。そんな流れのなかで言語化しづらいのだけれど、心のなかに生じた「違和感」という石が、多勢の流れのなかに存在しているのを感じる。流れを変えうるほどの大きな石ではないけれど、多勢の流れと同じようには流れていけない。そんな「違和感」の石。もしかすると、子どもたちのなかにもいないだろうか。大人側の「善かれ」と思っての活動や働きかけが、苦手な子どもが。そこへの想像力。そして、「子どもたちの為」と括られてしまうと、何もいえなくなる空気感。怖い、と感じる。何が足りないのだろうか。合意形成に至るやり取りの不足なのか。「ある種の正義」によって成立してしまう、感じたこと・考えたこと・思ったことを自由に口にできない閉塞感。そんな息苦しさをどうしても感じてしまう。そして、その「正義」に抗する表明をするとなんだか後味の悪いものをかんじとらされてしまう。教室では、子どもたちに「多様性」の大事さを伝えている。職員室では、「多様性」は「善なるもの」によって抑えられてしまう。それが現実。一人ひとりのなかにある「多様性」にも、それぞれが「多様な存在」である組織としての多様性も大事にしたい。互いに深い息が出来る職場にどうしたらできるのだろうか。私はどのようしにて「現実」に根ざしていけるだろうか。いきたいだろうか。オーダーした紫蘇ジュースの紅さをスプーンでくるくる、くるくる かき混ぜながら考えた午後。