まごころとおいしさで親しまれ80年!
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しかし、また僕がダーク恒志になる時期が来ます。高二の冬です。不登校になりました。

これにはいくつかの要因があります。一つは高二の間、多くの人に裏切られる事が続いたからです。他者をあまり信用しなくなっていました。裏があるのではないかと。もう一つが吹奏楽部をやめたこと。そして、進路に迫られたことです。

裏切りの件は思い出したくないので伏せます。内一つは最近お互いに思っていたことを打ち明け、解決することができました。

部活動を辞めた話をしましょう。簡単に言うとお金の問題です。学費と部費を僕は滞納していました。また、僕を進路は就職と決めていたのですが、就職には普通自動車免許がかかせません。しかし学校の規則として学費を滞納している生徒は自動車学校に通ってはならない決まりがあります。このままでは僕は免許を取得できない状況でした。

吹奏楽は好きでしたし、コントラバスだって大好きでした。しかし、このままでは進路決定に支障が出ます。悩んだ末に、冬休み明けに岩田先生に相談し、部活を辞めてアルバイトをするということで退部に至りました。

 こうして部活を辞めた僕は吹奏楽という学校生活の中での重要なパーツ、やり甲斐を失いました。学校へ通う意義が薄れ、次第に学校に行かなくなり、進路も考えたくなくなりました。退部に際し、担任の藤原先生に「やり甲斐を失って不登校になったりしないか?」と懸念されていましたが。その通りになりました。すいません!

 しばらくして僕のズル休みは学校にばれて、先生にお灸をすえられて渋々学校に来るようになりました。ちなみにあと一回国語を欠席したら退学でした。

 三年生になると、吹奏楽のかわりにオリジナルバンドを始め、アルバイトや進路に向けての就職活動に駆られ、生活が充実していき、学校も苦ではなくなりました。進路も憧れの施工管理系のゼネコンに決まり、バンドにファンがついたり、僕に大した技術はないのですが、僕を慕ってくれる楽器の弟子ができるなど、高二の冬に挫けたのなんて見るかけらもなく立ち直っていました。

 気がつけば卒業間近。一瞬の高校生活でした。一八年間、長いようで振り返ると短く、暗と光を行ったり来たりした振れ幅の大きい人生だったように感じます。今も自分に存在意義を与えてくれる人は沢山いますし、かけがえのない友達、先輩方、先生、後輩。何よりも両親。多くの人に支えられて僕は成長してきたのだと感じます。

 きっと、これからも多くの困難や希望に満ちあふれた未来が待っているでしょう。そんな時、自分を支えてくれている人達を思い出し、自分を見失わないように精一杯生きていきたいです。また、自分のように見失ったり、くじけそうになっている人をみたら、僕がそうしてもらったようにそっと陰で支えてあげられるようになりたいです。

 一八年間お世話になった多くの方々、本当にありがとうございました。来春からは立派な社会人になれるよう。精進していこうと思います。

 終  

2017年1月25日

中学校でまた転機が訪れました。小学校生活の中で方言にも慣れた僕は、新たな世界でリスタートしました。PSPを手にして、ネトゲから脱却した僕に死角はありません。自慢のコミュ力もある程度取り戻し、友達を作り家にいない時間のが多くなりました。

また、両親に進められてエレキベースを始めました。三ヶ月で弾かなくなりました。

しかし、反面実父のような後先考えない性格や、友達に自分に対して関心を持ってもらいたいが一心に無茶な事や大げさなことをするようになりました。不良ではなかったですし、非行には走りませんでしたが問題児になり、毎月親が学校に呼び出され、先生が家に来るというブラックリスト確定な生徒でした。当時、友達ができたといえども根本は小学生時代の卑屈なままで、自分に自信がなかったからか、自分を大きく見せて自分を保っていました。これは中学二年生に、自分を保てなくなるまで続きました。二年生の頃も自分の中では暗黒の時代です。思い出すだけで憂鬱になるくらいには。自分を保つために他者に迷惑をかけていた僕から時代に人は離れ、気がつけば独りでした。それ以降、無茶はしなくなりました。

 三年生になると、少しずつまた友達もでき始めました。相変わらず小学校で挫けた自信は喪失したままでしたが、この頃にはエレキベースを多少は弾けるようになり、ギターに再挑戦するなど、自分の中で趣味というものが生まれ、それが辛うじて自分を保つ柱になっていました。

 高校生になると吹奏楽部に入りました。なぜ吹奏楽部か?理由は単純です。僕は運動ができません。小学校の体力測定のボール投げで0mという驚異的な記録だしたくらいに運動ができません。しかし、文化部はこの敦賀工業には殆どありません。吹奏楽部しか、行く場所がなかったのです。しかし、この選択は間違ってなかったようです。ここで吹奏楽部に入らなければ、きっと僕は相変わらず自分に自信のない人間になっていたでしょう。

 敦賀工業の吹部には、バンドマンが沢山いました。入部当初、ホルンのりく先輩に誘われて先輩たちとセッションをしたのが、僕のバンド生活の始まりです。これがきっかけとなって、高一の夏、初めてのバンドを組みました。OBや三年生と一緒に大好きなバンドのカバーをして、その延長で文化祭でも全校生徒の前で自分の演奏を披露し、それがきっかけで彼女ができるなど、自分の世界が大きく広がりました。この頃になると、自分に大きな自信が付くようになりました。きっとそれは当時の彼女さんが与えてくれたものです。自分の存在意義を見いだせず卑屈になっていた僕に代わって、彼女が存在意義を与えてくれました。ほどなくして別れましたがね。

 自信も、当時バンドに誘ってくれた東條先輩や友田先輩、江戸先輩、りく先輩、歩先輩、山下先輩、堂前先輩、井美先輩等、あげるとキリがないですが先輩方が僕に与えてくれました。その事には感謝してもしきれません。書いてたら泣けてきました。ここで多くの人の助けがなければ今頃生きてなかったんじゃないかとすら思います。

 そんなこんなあって、自分を取り戻した僕は次第に明るくなっていきました。部活動でもコントラバスを担当し、部活動を通す中で他校とも接点を持ち、臆せず人と話せるようになり、今の僕のベースが完成しました。

 学校生活でも友達ができ、学校に行くのが楽しいとすら思う時期もありました。最初は怖いと思っていた武田、田中。話の合う完汰、岸本、門田。半年くらい学校に来なかった隆貴。「イカれたメンバーを紹介するぜ!」というセリフがよく似合う友達ができ、途中仲違いすることもありましたが、彼らがいたからこそ今の僕があります。彼らにも感謝してもしきれません。ありがとう。

~前書き~
授業で自分史を作成する機会があったので、今回この場を借りて公開させていただこうと思います。時折顔を手で覆いたくなるような恥ずかしいエピソードや、呆れるような馬鹿げた話が出てきますが、ご容赦ください。
以下の点についてご理解いただける方のみ、本編をご覧ください。
・著者、オダのイメージが変わるかもしれません。
・読んだところでオダの身長はのびません
・自ら公開しておきながら恥ずかしさで著者がハゲるかもしれません
・てか既にハゲてます。
 
 
 
 
 
 
 
 
~本編~

僕は愛知県豊岡市で生まれました。親が私につけた名前は恒志(ひさし)。意味は、変わらない志を持つ子。当時GLAYが流行っており、GLAYのメンバーのHISASHIが好きなのかと誤解されたそうな。

 まず、幼少期の話をしましょう。好奇心旺盛で元気いっぱいだったらしく、怖いものなんて無いとでも言わんばかりの勇敢な子だったそうです。愛知県の田舎で育った僕は、山や畑を駆け回り、野良犬に追いかけられたり、蜂の巣をつついたり、川に飛び込んでみたり、自然と共に育ってきました。僕にとっての“遊び”は自然と戯れることでした。また、工作が好きでいつも物を作っていたそうです。そして、僕が敦賀工業高校に進学したのも、幼少期のころから決まっていたことなのでしょう。

 幼稚園時代の僕はコミュニケーションが大好きで、当時から人見知りを全くしない子供でした。多くの人に育てられたのが理由か、本来3歳頃に人見知り期というのがあるはずなのにも関わらず、まったく人見知りせず、知らない人相手でも臆せず絡んでいく性格で、それは18歳になった今も健在です。

ちなみに人見知りしないエピソードとしては、近所の人と親よりも仲が良くて、親よりも近所の人のことを知っていたそうです。しかもよく物をもらって帰ってきていたとか。今でも愛知県に帰ると「久しぶり!覚えてるかい?」と話しかけられますが、覚えてません!誰だろう??

 幼稚園に通いだした当初は、親と離れ離れになるのが嫌で大泣きし、日中は親の存在なんて忘れていて、帰りに親の存在を思い出すと泣くという、可愛らしい行動をしていました。しかし、慣れてくると親の迎えに対し、「えぇ・・・」と文句を言い、挙句の果てには「毎日延長保育がいい。帰りたくない。」と言い出す程、幼稚園が大好きになっていました。

 小学校にあがる時、親は幼稚園で一緒の子が殆ど同じ学校に居ないという事を懸念していました。「ちゃんと友達ができるかな」と不安だったそうですが、一週間後には毎日新しい友達が家に来て、毎日が「この子だれ?」という疑問の日々だったとか。学校が大好きで、逆に学校のない土日が嫌いだったそうです。今では見る影もない。高校二年生の通算欠席日数は約四十日程だったかな?

 僕は楽器が好きです。僕がはじめて楽器に触れたのは小学四年生のとき。母さんがいきなり買って来たアコースティックギターを「俺もやりたい!」と言ったのがきっかけで、この時初めてギターを触りました。三日坊主で終わりました。しかし、小学校五年生の時に、親が再婚して福井に引っ越したのですが、新しい父さん(現父)が超巧いギタリストで、それがきっかけでまたギターを始めました。今度は一月坊主で終わりました。

 再婚と言いましたが、実の父は僕が産まれる前から他界してます。なんでも「ツタヤにDVD返してくるわ!」と言って原付で赤信号の交差点に突っ込んだそうです。よくこれについて、可哀相な目で見られる事が多いのですが、「さすが俺の親父だな」というのが正直な感想です。不謹慎かもしれませんが、僕と同じで後先考えない人だったのかなと。反面教師といいますか、僕も来年から運転する身なので同じ轍は踏まないようにしたいです。ちなみに、新しい父さんのことは大好きです。ぶっちゃけ超ファザコンです。俺の父さんのギターヤベェからな!って自慢したくなるような立派な父さんです。

 それはさておき、福井県への引っ越しは人生での大きな分岐点になりました。僕がい元た地域に比べ、敦賀ははるかに都会です。大きな建物は多いですし、木崎通りなんて夢のような場所でした。僕は好奇心に満ちあふれましたが、それは一時のものでした。この敦賀市は、小学五,六年生の僕を大きく苦しめました。

 先ほど申したように、僕にとっての遊びは自然が必要でしたし、友達もみんな同じように自然を活かした遊びをしていました。しかし敦賀(特に中央小学校学区)は違った。自然が無いのです。即ち、従来の遊びが通用しなかった。虫捕りをしようにもくさむらは無いし、何より皆はPSPで遊んでいるんです。僕にとってのゲームはDSでしたし、僕の中で一番ホットなゲームはどうぶつの森でした。しかし周りは「一狩り行こうぜ!」って言ってるんですよ。話が合わない。誰もどうぶつの森なんてやってなくて、僕が「たぬきち」っていう間に周りは「リオレウス」って言うんです。異世界にでも来た気分でしたよ。

 僕は皆のようにモンスターハンター(以下モンハン)をやりたくて、PS2でオンラインゲームのモンハンをやり始めました。ですが、周りと通信プレイなんてできないんで話は合いませんでした。結果、僕はネットの世界にハマっていき、現実じゃなくてネットに友達を作るようになりました。自慢のコミュ力も方言が通じないことで封じられ、それに追い打ちをかけるように先生に「方言使うな」と言われたことで、喋り方も分からなくなりました。結果として僕は引きこもるようになり、平日が嫌いになりました。僕の生活のサイクルは「朝起きて外に行く」から、「起床!PS電源オン!」に変わったのです。

 中央小学校は暗黒の時代でした。楽しかった記憶なんて現実にありません。次第に下級生からのイジメの対象にもなりました。

 

幼少期~小学校・暗黒時代編 完