心を綴る詩のような日記のようななにか
実際真実か嘘かなんてどうでもいいことなんだ。あの綺麗な星だって本当の星なのか、本当に何億年も昔の光なのかなんて真実は知りようがないんだから。だから真実か嘘かは関係なくて、それを真実だと信じたいと思うか嘘だと疑うか感じて考える心が必要で、心が揺らぐから今見える全てが嘘に見えるんだね例えば、僕の好きな人が犯罪者だったとして、それでも僕は君が好きで、君を信じたいと思ったから信じた。君の存在が嘘だったとしても信じたいと思った心に嘘はないから、憎しみも恨みも後悔もないんだ。事実全てが僕の心に映る景色だとは限らないから。僕は事実よりも心に映ったその景色を大切にしたいから。例えば富士山の樹海の下に女の子がたくさん監禁されていて、ついこの間米軍が乗り込んできて助け出されたなんて話があったとして、それを信じたいと思わない僕に本当のことなんだとどれだけ言われてもそれは心に映らないんだよ。例えばかの有名アイドルが若い人間の血を飲んで美を保った罰として今度処刑されるなんて話があったとしても、僕はその事実に興味はないし、僕の心には映らない。信じたいならそれが君にとっての真実なのかもしれないけど、僕から見える景色は別物なんだよ。人間は誰しも見える景色にフィルターをかけていて、この世界に住むならこの世界のことを知らなければいけないなんて、それでもテレビから流される世界は編集された世界なんて、大人たちの傲慢にどれだけ付き合えば世界は綺麗になるんだろう。どうすればこの世界は綺麗に見えるんだろう。世界を綺麗に見たいと思うのも僕の傲慢なのだけど。例えば自分が美しいと感じた絵画が偽物だったとして、美しいと感じた心までは偽物じゃない。好きだと思った音楽が盗作だったとして、好きだと感じた心までは盗まれない。偽物も盗作も嘘も真実も事実も本物も関係ない。感じた僕の心は全て僕の真実であり事実であり本物の感情だから。
この前友達と話していて、「その子はあなたみたいな人に出会えたから変われたけど、出会えてなかったら変われてないと思う。そういう人に出会える人は少数で、その子は運が良かったんだね」って言われた。そりゃそうだよ。出会えなかったら変われなかっただろうよ。けどさ、まともな大人に出会うのが運なんておかしいと思わない??実際自分はとても素敵な大人に沢山出会って今があるけど、なんで大人全員がまともじゃないの??まともじゃなかったら大人なんて名乗んないでよ。生きてる意味も言えないのに偉そうにしないでよって思わない??そういう人間を大人とは呼びたくないけど、そういう人間ばかりなんだよこの社会は。そしてそれを知った出来るやつはみんな海外に逃げていく。親には海外に飛んじゃいなよってよく言われるけど、こんなくだらない社会でも、ダメダメな日本でも、それでも日本が好きで、どうにかしたいって思うのは愚かなのかな。愛の意味を己で定義したこともないやつが、好きだ愛してるっておかしいと思わない??そんなんだから離婚率1/3なんじゃないの?勉強をする意味も分からない大人が勉強教えてくるなんておかしいと思わない??勉強しろっていうなんておかしいと思わない??この世界はおかしいんだよ。根本的なところからおかしい。おかしいのにそのままにして、ただ数学の公式覚えさせて、歴史の年号覚えさせて、覚えても社会に出たら使わずに忘れていって、パソコンの前で青い顔して深夜まで働いて?なんのために生きてんの?生きるために生きてんの?その友達と話してて「もしも自分が権力を持ってたら1番初めに教育を変える」って話になった。みんなどこかで何かがおかしいなって思ってるのに、それを変えるリスクとコストを恐れてるだけ。気づいてもそれを変えるコストを負いたくないだけ。みんなそう。でも誰かが言わなきゃ、誰かが変えなきゃ、日本は終わる。もう終わってるのかもしれないけど、それでもどうか自分の大好きな日本がまともになってみんなが自分の生きる意味を考えながら幸せに生きてくれって思うのは、私のエゴだね。そう思う人が少ないから今の現状なんだもんね。いち二十代の若者がどんなにこんな所で叫んだって、世界は変わりはしないというのに。
今日でこのブログを書き始めて1ヶ月。1日約2投稿で60投稿ほどした。短い詩も長いブログもたくさん書いた。一生でこれほど書いたことは無いと言うほど書いた。見られることはあまり気にせず、本当にそうぞうノートの置き場という感じだったが、嬉しいことに1ヶ月で300も閲覧された。ブログとしての閲覧数は大した数字じゃないと思う。それでも初めて1ヶ月1日も休まずに投稿し続けたということがまず私にとって大きな成功であり、それに300もの閲覧がされていたというのも大きな感動だった。私は熱しやすく冷めやすいタイプでいわゆる飽き性な人間である。幼い頃から継続は力なりと言われ、それが大切なことも分かってはいるが、どうしても興味の方向がいろんな所に向かってしまうことが長所であり短所だとわかっていた。そして私はこの投稿を始めようと思った今年のゴールデンウィークに、1ヶ月は毎日投稿を続けようと漠然と考えていた。そんな私がたった1ヶ月かもしれないが、ちゃんと毎日約2投稿し、欠かさずFacebookとTwitterにもお知らせし、こうして300の閲覧を得た。単純に自分で課した目標を達成できたことが嬉しい。そしてそれを見ている誰かがいるという事実とFacebookやTwitterにくるいいねがここまで嬉しいものだと初めてわかった。YouTuberや歌い手が見てくれるみんなのコメントが励みです、と言うのを見ては、そんな風に思えるなんて心が綺麗だな、自分なら絶対、こんなに見られてるよっしゃくらいにしか思わないな、と思っていたのだが、そんなことはなかった。投稿自体1ヶ月2投稿はきついものではなかったが、別に誰に強制されている訳でもないしやめようと思えばいつでもやめられることだった。それでもやめずに続けたのは自分の意思もあるが、わざわざURLを開いて見てくれて投稿にいいねをつけてくれたあなたがいたからだ。書き始めた頃にも言ったが、このブログは私の心を映したとあるノートの置き場である。つまり、このブログにある詩や小説、記事全てが私自身を表すものだ。私は自己肯定感の強い方だと思うが、それでも誰かに自分の心の言葉をいいと言われるのは嬉しい。そのためにやっている訳では無いが、単純に嬉しいものだ。これからは毎日投稿はしないと思う。2日にいっぺんとか若干減ると思う。今日で私が私自身に課した目標は達成したから。それでもこれからもこのブログは書き続けていこうと思う。私の心が溢れる度に投稿は増える。私の心の叫びが、共鳴する誰かに届けばいいと思うから。1ヶ月ありがとうございました。これからもよろしく。
私が言葉を綴るのは心が溢れてしまうからだ。書きたいと思ったときにしか書かない。けど心で思ってることがたくさんあっていつでも書きたい気持ちでいっぱいだ。しかし作品として世に出そうと思ったのには他の理由がある。私は数年前から「ヨルシカ」というバンドが好きで、音楽自体好きなのでピアノやギターを弾くし歌いたかったらカラオケに1人でも行く。私の中で音楽には3つのジャンルがあって、歌いたくなる曲弾きたくなる曲踊りたくなる曲 の3つだ。その中でも「ヨルシカ」は弾きたくなる曲だった。そして私自身に曲を作りたいという気持ちを喚起させるものだった。実際ここ数年何度か曲を作ろうとして曲とも言えない何かを生み出した。でも自分の納得できるものは生み出せなかった。そんなとき「ヨルシカ」のインタビュー記事を読んだ。そこには僕らの音楽を聴いて何かを感じてくれた人が、そこから音楽を作り始めてくれたら嬉しい音楽だけじゃなくても何かを表現し始めてくれたら嬉しい僕がオスカー・ワイルドを模倣したように、ヨルシカを模倣して作品を作り始めてくれたら、それは信念に叶っている。と書かれていた。その時思ったのだ。私は「ヨルシカ」を模倣して感じたなにかを作品として表現したかったのだ、と。しかし、音楽を作るのも絵を描くのも写真を撮るのも私には難しかった。そう。言葉は私が唯一できる芸術だったのだ。だから私は私が書いてきた感じたなにかを作品のように世に出そうと思った。これが作品として綴りたいと思った理由、きっかけである。2020年5月10日
足るを知る。中庸。企業と社会がこれを守ればこんなに苦しまなくて済むと思う人間はやりすぎる。必要以上に欲望をあらわにする。それのおかげで進化もしたが、本当にそこまで必要だろうか。いつでも美味しいものが食べられるコンビニ。本当にコンビニエンスだと思う。けれどそのせいで食品ロスが多くなる。深夜労働も増える。本当にそんなに必要だろうか。私は全く必要ないと言いたいのではない。こんなに要らないと言いたいのだ。店舗も食品の種類も多すぎると思う。大量生産による規模の経済は大きい。けれど私たちが安く買えるものの材料の原価はさらに安い。全てを書くのはめんどくさいので省くが、今の社会と企業が足るを知ることで、この世の中は確実に簡潔になり幸せになると思う。
この世は盛者必衰。花は咲けども必ず散る。私が小学生の時から叫ばれてる持続可能な社会。そんな足掻いて持続可能(仮)を続けてもいづれ人間も滅びる。長い宇宙の歴史の中で人間が栄えてるのなんてたった数秒の出来事なのだから。それでも人は欲深く願ってしまう。どうか続け、と。私が長く生きたいわけではない。ただ私が好きだと思ったものが、1000年後の誰かの心を揺らすといいと思う。私が死んだあとも私の好きなものが誰かを救うと信じてる。それだけ素敵なものだと思うから。だから文字を残したい。言葉を残したい。文化を残したい。私の生なんて、それこそ長い歴史の中のたった数十年の話で、種の繁栄の1部でしかないけれど、人間がつくりあげた文明・文化は長く続けと願ってしまう。あぁ強欲か。けれど必ず終わりが来るからと初めから諦めるのは違うじゃないか。終わりは来るけれど、できるだけ大切にしたい。できるだけ長く続けばいい。そう思うのだけは許して欲しい。終わりが来た時は諦めるから。
私は両親が2人ともいました。私の知ってる父親は生みの親ではなかったけど、私の知ってる父親は人を平気で傷つける人だったけど、それでも私には優しい母がいて、今は母と2人。幸せです。私には未だ存命の父方の祖父母と母方の祖父母が居ます。父方の祖父母には裏切られたけれど、母方の祖父母には敬遠されたけれど、どちらとも4年以上あっていないけれど、それでも私は気にしません。私は幸せです。私は頭脳に恵まれました。常に成績トップ。おかげで有名な偏差値70以上の高校に入りました。おかげで大した苦労もせず大学も受かりました。あぁ、私は幸せ者です。私は友達にも恵まれました。私についてくる友達も私に絶対の信頼を預けてくれる友達もいます。あぁ、私は幸せです。私は恩師にも恵まれました。小学校から高校まで必ず1人尊敬出来る先生と出会えました。その先生方の教えが今も私の中に生きています。私は本当に幸せ者です。私に苦手なことはほとんどありません。やろうとすればだいたいのことがそれなりの出来で完成します。運動も音楽も美術も裁縫も料理も。他の人より覚えが早く器用な私は幸せ者です。私は世の理も理解しています。無料で見れるテレビ番組がどうやって成り立っているのか理解しています。世の中のお金がどう回っているのかも理解しています。それで苦しんでいる人がいることも理解しています。人の感情が脆いことも理解しています。それでも脆く汚いだけが人間でないことも理解しています。理解できる環境にいたことが私の幸せです。それを教えてもらえる環境にいたことが私の幸せです。私は幸せ者です。あなたに私は幸せに見えるでしょうか。青い顔をして生きる意味と幸せの意味を延々と考える私は幸せに見えますか。私は幸せです。そのはずです。私が幸せでなければ誰が幸せだというのでしょうか。幸せとはなんでしょうか。
湿度の高い鳴らないピアノ鳴いていいよ鳴いてくれよあぁ、ごめん、弾き方がわからないのは僕の方か泣き方がわからないのは僕の方か降りそうで降らせることのできない言の葉に苦しんでいる雲影は黒鍵に映る僕だった「雨」という題材で作りました
Twitterでいわゆるバズっていた登校でこんな発言があった。ぼちぼち食っていける世界でいい。それを望む人間が増えれば増えるほど少子化は進むんだろうな。それが今許されてるのは独り身だけ。子供が出来たら家に食費に教育費にお金をかけなきゃいけなくなる。東京にいれば特に教育費は馬鹿にならない。小学1年生でも塾に行く世界。それはそれでどうなのってね。日比谷の卒業生として思うのは、入っただけで良くも悪くも高校ブランドがついてまわること。学閥は大学だけじゃない。東京出身者には高校ですら格付けされる。それが大学なら尚更。そしてそれが就活に関わってくるのは言わずもがな。学歴は学習の履歴だって日比谷の生物の先生が言ってたけど、その学習の履歴のみに価値を置かれる世界はもう嫌だ。多くのことを覚えられても自分の思考を持てない人間なんて機械の劣化版。その思考を学ぶのは高校生までの教育であると思う。だから学閥の考え方はどうなのかと思うけれど、やはり日比谷生のことは思考力の面で全面的に信用してしまう。私個人の判断として「愛とはなにか」「人生とはなにか」を大真面目に語れる人は信用できる。それに正解や間違いはなく、今の自分の答えをちゃんと持ってて語ることが出来る。それが思考力の1部だと思う。はっきり言って暗記だけして思考力を持たない私立大学生は多い。大抵の人間が「愛とはなにか」なんて大真面目には語らない。語ろうとすれば変な人間の烙印を押されて終わり。そんな記憶だけができる機械の劣化版がこの先の世界を支えていく?無理に決まってるじゃないか。機械に食われるに決まってるじゃないか。自分たちが楽しければいい。他の人のこと気にしている余裕なんてないし、別に気にならない。目に見えた可哀想な事象にだけ自由に口を出して言いたいこと言ったら終わり。ぼちぼち楽しく好きなことをしながら、嫌な事を言われながらも稼ぐだけ稼いで生きていく。それがぼちぼち食っていける世界でいい、という結論に至る。別にそれを否定するわけじゃない。それも立派な生き方の1つだし、むしろ自分の幸せにはとてもいいと思う。私もそんな生き方がしたい。それでも私は私が生きるにはそれは嫌だとは思った。日本が好きで、日本語が好きで、日本の文化が好きで、嫌なことも嫌な風習もあるけれど、それでもこの世界が好きだから、自分だけぼちぼち食っていける世界で良いと思えなくなった。何から変えていけばいいかなんてわからない。知れば知るほど変えていくのは難しいと思う。政治も経済も教育も、今までのやり方を簡単には変えられないし、どう変えるのがベストかなんてわからない。自分の幸せを探すだけでもがいてるのに、日本の未来を夢見るなんてお門違いだろうか。老人ばかりになっていくこの平和な国で、人間が消えゆくこの国で、1000年後も自分の好きなものが残って欲しいと思うのは間違ってるだろうか。私は今こうやって伝えることしか出来ない。だから考えて欲しい。生きるとはなにか。変えられないこの世界で自分が幸せに生きるために出来ることはなにか。言われたことだけを嫌々ながらもやって自由な時間を楽しく生きるのは楽かもしれない。それが正解なのかもしれない。けれど、考えをもてなければ、今後私たち若者は多くなる高齢者の労働奴隷になってしまう。意味も無い広告費で回る経済に押しつぶされてしまう。極端な話だと思うけれど、本当に大切なことは何か考えて欲しい。これを同年代に伝えても理解されないのはわかってる。だから私はここで叫ぶしかなかった。心を吐き出す場所がここしかなかった。ここまで心が叫んでいても私にもわからない。幸せとは何なのか。幸せに生きるとはなんなのか。そもそもなんで生きてるのか。本当にこのままでいいのかもわからない。
地元の商店街を歩いている時に見つけた紫陽花今年は紫陽花が綺麗に咲いてます瑠璃、縹、色も形もありのまま君に惹かれる我が心かな瑠璃(るり)色:紫がかった美しい藍色縹(はなだ)色:鮮やかな藍色
ヘンリー・ダーガーのように自分のための作品ってのが今のところ自分の詩や小説の信念になってる。公開して多くの人に見てもらうことはとても嬉しいけど、それ以上に自分が好きな作品を作りたい。売れる詩を書きたいんじゃない。自分の心を表現したいと思ったのが始まりだからそれを忘れたくない。私はずっとそれこそヘンリー・ダーガーのように小学生のころから自分の気が向くときにあらゆる芸術(小説・音楽・絵・工作等)に手を出しては自分の部屋にしまった。1つを作って満足して終わるか飽きて終わりのどちらかだった。そんな自己完結な世界に生きてる人間だった。いや今もそうだ。そんな世界はもうすぐ終わる。ネバーランドから帰る時。避けられない現実に生きる時。
あさからお湿り、花を催す目には桜の花びらかお湿り:浅い春、樹木が芽吹く頃に降る長雨花を催す:催花雨から。催花雨(さいかう):花を促す雨ついに東京に梅雨が来た。季節外れの春の雨詩(あまうた)。
ここ数年1部で話題になってるミニマリスト。物を持たずに暮らす者のこと。生活に必要な最低限のものだけを持ち身軽に生きるまるでさすらい人のようだと感じる。その身軽さは心地いいかもしれない。けれど私は大切なものを捨てられない。本当はいらないかもしれないけどたまに使うものも捨てられない。本当はシャーペンなんて0.5mm1本で十分かもしれない。でも私には違うのだ。数式を解くなら0.5mmか0.3mmがいい。原稿用紙に書くなら0.9mmがいい。絵を書くなら1.3mmがいい。その僅かな差で書く自分の心が大きく違う。たった1mmで変わってしまう。本当はこの愛着のあるぬいぐるみたちなんていらないのかもしれない。けれどそこには愛着と共に思い出が刻まれてる。買ってもらった時の記憶、その時の感情、色んなものが詰まってる。彼らが部屋にいるだけで安心できる。本当は本なんて電子書籍でいいのかもしれない。レンタルでいいのかもしれない。それでも私は新品の本を買う。新品の本は私が買った私のための本になる。自分の心に影響を与えた本を忘れたくない。何度だって覚えるまで読み込みたい。今読んで何も思わなくても当時何かを感じたそのことだけでその本は私にとってかけがえのないものになるから。だから私は捨てられない。全ては私を構成する1部だから。
ぬれたピアノの音がするないたピアノの音がするあぁ音が降る、音が降る雨の音を1番表現出来るのはピアノだと思ったこの詩を詠んでピアノの音が聞こえればいい私はG6,A6の音が聞こえたF5,G5も心地いいあなたが思うピアノの雨音はどんな音でしたか
あぁごめんよ。僕は先に行くよ。生きてれば幸せなことが待ってるのに馬鹿だ、って笑って言ってくれていいよ。僕にはこの先に不幸しか見えなかった。見たい未来がなかったんだ。ただそれだけなんだ。生きないといけない理由を見つけたかった。それを探した4年間だった。それでも僕は...
花衣桜の下の 和草や散りゆく君に思いはせはせ
山も滴る 朱い焦燥
私のことを忘れないでくださいあなたがくれた言葉を私も忘れません
麦帽子光にこがれ上を向くサイダー片手にバスを待つ君
踏まれても負けませんけなされても折れません私の心はインクとなって墨の花を咲かすでしょう